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S.O.S!  作者: 如月 望深
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黄昏のミラージュ 3

 英知は、ある建物の前に立ってそこを見上げた。門には「姫乃木ひめのぎ女子大学」とある。大学と同じ敷地内に付属の幼稚園から高校も建っている。正門を入ると左手に小学校が、右手に中学校がある。更に奥に高校があり、一番奥が大学になっている。中学までは共学だが、高校からは女子高になっていた。

 現在は放課後であるが、高等部二年一組では英語の補講が行われていた。希望者だけを対象としたもので、和気あいあいとした雰囲気であった。夏休み間近ということもあって、生徒たちの表情は明るい。補講は英語教師である広瀬が教えていた。参加は自由なので途中参加も認められている。広瀬は美人で細かいことにはこだわらないタイプの教師で、生徒たちから人気があった。

「広瀬セーンセ!」

 補講に途中参加する予定だった生徒の何人かが教室のドアを開けた。

「早く入りなさい」

 そう指示する広瀬に生徒たちは意味ありげな笑みを見せた。

「お客さん連れてきましたー!」

 彼女たちは廊下にいた人物を引っ張った。半ば強引に彼女たちによって教室に押し込まれた人物は生徒たちの視線を一斉に浴びた。

「先生に会いたいって言うから連れてきちゃいました」

 広瀬と目が合ってその人物は会釈した。広瀬もそれに釣られて会釈を返した。

「先生、だれー、その人?」

「先生の恋人ですかー?」

「それとも昔の教え子?」

 生徒たちの質問攻めにあって広瀬は困惑した。生徒たちの好奇の目にさらされて所在なげに佇んでいるその青年は、広瀬の知らない人物だったのである。

「ここじゃなんだから、こっちへどうぞ」

 広瀬は青年に歩み寄って教室から出るよう促した。青年は素直にそれに従った。興味津々の生徒たちに広瀬は「ちゃんと自習してるのよ」と言い残して教室を出た。

 広瀬は青年を英語教材準備室に通し、コーヒーを入れた。コーヒーを出されると、青年は口を開いた。

「あの、突然お訪ねしてすみません。俺、藤瀬高校の卒業生で、桜沢おうさわ 英知えいちといいます」

「藤高の卒業生? じゃあ、私の後輩になるのね」

 英知は頷き、早速本題に入った。

「…広瀬先生、一色先生って憶えてますか?」

「…ええ、憶えてるわ」

 そう答えてから広瀬はコーヒーカップに目を落とした。

「じゃあ、一色先生との約束、憶えてますか?」

 広瀬はすぐには答えなかった。



 …彼女の脳裏に過去の記憶が蘇った。高校生だった時のことだ。

「他の教科は言うことないのに、どうして生物だけこんな成績なのかなぁ」

 進路指導室で広瀬と向かい合って座っていた一色が、彼女の成績表を見ながら呟くように言った。広瀬の成績表は、殆どの教科が十段階中八以上だったが、生物だけが四だった。

 生物の勉強をしているかという一色の質問に、広瀬は首を横に振った。

「広瀬はやれば出来ると思うよ? どうして生物勉強しないの?」

「やる気しないから」

 にべもない広瀬の返答に一色は困ったように苦笑した。

「どうしてやる気しないの?」

「生物なんて勉強して何の意味があるの? 受験にだって関係ないじゃない」

 そういう広瀬に一色は微笑して言った。

「受験に関係なかったら勉強しても意味がないかい?」

「ないでしょ。役に立たないんだから」

 一色は優しい笑顔のままで言った。

「その学問が一つの分野として成立してるのは、それが面白いからだよ。それを知りたいって思う人がいるからさ。そしてそれを学校で教えるのは、それが何か役に立つことがあるかもしれないって思う人がいるからだよ」

 納得していないような表情の広瀬に一色は訊いた。

「広瀬は、生死のメカニズムって知ってる?」

 怪訝そうな広瀬に一色は言った。

「この世に生きとし生けるものはすべて、生まれてそして死んでいく。人間だって例外じゃない。それらがどうやってこの世に生を受け、死んでいくのか、その謎を解き明かそうとする学問だよ、生物って」

 一色は笑った。

「僕らが生きているメカニズムを探る壮大な学問なんだよ」

 広瀬は今まで生物という学問を学校の授業としか思っていなかった。それを、思いも寄らなかった発想で説明されて、正直、興味を抱いた。

「そんなクサイこと、よく平気で言えるね、先生」

 一色の言葉に素直に興味を抱いてしまった自分を隠すために広瀬は言った。

「でも、少しは生物を勉強してくれる気になったかな?」

「…ちょっとくらいなら、やってもいいかな」

 天邪鬼な広瀬は小さな声でそう言った。

 それから、生物室で一色に生物を教わるようになった。広瀬が生物を勉強しなかったのは、嫌いだったからというより苦手だったからだ。解ってくれば面白いことも多かった。


 そして卒業式の日、広瀬は生物室で一色に宣言した。

「一色先生、私、教師になる。先生みたいに、学問の面白さを伝えられる先生になるの」

「そりゃ、楽しみだな」

 微笑む一色に広瀬は意を決して言った。

「…だから、待っててくれない? 私が教師になって先生に会いに来るまで」

 一色はいつもと変わらぬ優しい笑顔で答えた。

「待ってるよ。いつでもここで、広瀬が会いに来てくれるのを」

「約束だからね!」

 広瀬は手を差し出した。

「うん。約束」

 一色は広瀬の小指に自分の小指を絡めた。



 …セピア色の淡い思い出は、広瀬の心に切ない思いを呼び起こした。

「…憶えてるわ」

「どうして、約束を守らなかったんですか?」

「え?」

「教師になったら一色先生に会いに生物室に行くって」

 英知の言葉に広瀬は困惑したようだった。

「だって、一色先生は事故で亡くなったって聞いたわ。私が大学二年の時に」

 広瀬は悲しげな笑みをこぼした。

「語学留学でアメリカに行っている間に一色先生は亡くなってて、でも、何だか信じられなくて、信じたくなくて、お墓参りにも行けなかったけど…」

「でも、約束を忘れた訳じゃないんですよね」

 英知の言葉に広瀬は顔を上げた。

「会いに行ってあげて下さい」

「どういうこと…?」

 広瀬は首を傾げた。

「一色先生は亡くなった後もあなたとの約束を果たすために、あの生物室にいるんです。約束の場所だった生物室は、校舎の改築工事のためにもうすぐ取り壊されます。約束が果たされないままだと、一色先生は行き場を失ってしまいます。生物室が取り壊される前に会いに行ってあげて下さい」

 英知の説明に広瀬は不審の色を隠せなかった。幽霊が自分を待っているなんて話を簡単に信じるほど、広瀬は子どもではなかった。

「非常識なことを言っているのは解っています。信じる信じないは広瀬先生の自由です」

 英知は淡々と話を続けた。

「でも、騙されたと思って明日の放課後、生物室に来て下さい」

 荷物を持って英知は立ち上がり、ドアを開けた。

「待ってますから」

 そして一礼すると英知は部屋を出てドアを閉めた。

 ドアの近くの物陰に隠れて聞き耳を立てていた数人の生徒たちを一瞥して、英知は歩き去った。

2007年初稿、2019年改稿

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