明日への伝言 1
好きだ、愛してる。
そう、口にするほうがずっと簡単だと、その人は言った。
「ありがとう」
この一言のほうがよほど難しい、と。
ザッ、ザッ、と規則的なリズムが刻まれて、赤や黄色や、そして茶色に色づいた葉が掻き集められていく。箒が地面を払う度に、こんもりと葉の山が高くなっていく。
「おはよう、英知くん。偉いわねぇ」
「おはようございます」
ご近所の奥様方に受けのいい笑顔を見せて、箒の柄を持った英知は挨拶を返した。はす向かいの家のおばさんが通り過ぎると掃除を再開する。
掃除は、英知が自ら進んで引き受けたものではない。ある朝、父親に箒を差し出されて「暇だろ、門の辺り掃いておけ」と言われたからだ。英知は素直に言いつけを守るほど子どもではないので、自分の朝の時間を守ろうと抵抗を試みて眉根を寄せて嫌そうな顔をしたのだが、「英ちゃん、よろしくね」と少女のような笑顔で母に言われて屈したのだった。桜沢家の家長は父だが、実質権力は母が握っている。あの笑顔に逆らおうものなら、桜沢家での立場はない。
そんな訳で、朝の掃除は英知の仕事となってしまった。まあ、大学は始まるのが遅いので、掃除をしている暇などないというほど朝は忙しい訳ではないのだが。ただ、単に両親が朝の寒い中掃除をするのが嫌で自分に押し付けたのではないかという疑いも払拭できないでいた。
「おい、少年」
ザッザッと、英知はテンポよく掃き進めて行く。
「おーい、そこの少年」
傍らに置いてあったちりとりを落ち葉の山の脇に置き、その中へ落ち葉を慎重に手際よく収めて行く。
「おい、ボウズ!」
箒を持つ手を一瞬止めて、しかし英知は何事もなかったかのようにちりとりへ落ち葉を掃き入れる。
「聞こえてるんだろ、返事くらいせえ」
そこでやっと顔を上げて、英知は声の主へ目を向けた。
「さっきから散々無視しおって、近頃の若者は、年長者を敬うことを知らんのか」
英知は表情一つ変えずに再び掃き掃除に取り掛かった。
「聞こえんふりをしても、わしにはわかるぞ、お前は聞こえているはずだ」
「いいえ、聞こえません」
「……堂々と嘘をつく度胸は認めてやろう」
英知の目の前で、いや、英知を少し見下ろす形で、英知よりも確実に50は年長だろうと思われる白髪の老紳士が腕を組んで立って…否、浮いているように見えた。
ちりとりと箒を手に門をくぐり、英知は寺の敷地の一角へ向かう。落ち葉を溜めてある場所へちりとりの落ち葉を捨てる。
「何なんですか、さっきから」
そこで、ようやく英知は老紳士に向かって口を開く。門から英知に付いてきていた老紳士は、ほらやっぱり聞こえてるじゃないかと言わんばかりの表情で英知を見やった。
「あんなところであなたと話をしたら、俺は頭がおかしくなったのかと近所の人に心配されますから」
自分が他人には見えないという自覚はあるのか、英知の言い分はもっともだと思ったらしく、老紳士は黙った。だが、それは一瞬で、すぐに老紳士は頭を切り替えたようだ。英知と同じ地面に立って、英知を見上げた。
「お前を見込んで頼みがある」
「お断りします」
無下に、あるいは、にべもない、という言葉がぴったりくるほど間髪入れずにきっぱりとはっきりと英知は拒否の言葉を口にした。
「話を聞く前から断るとは、どういう了見だ?」
「年寄りの頼みを聞いて、良かったことなんてありませんでしたから」
眉根を寄せた英知の表情は、苦い過去を思い出しているのか、心底厭そうだった。
思えば、安易に老人の頼みを聞いてしまったがゆえに、泣きじゃくる孫の横で遺産相続に絡んで骨肉の争いを始める子どもたちを目の当たりにしたり、おばあさんが可愛がっていた犬の面倒を誰が見るかを押し付け合いモメる大人たちを見かねて自分が引き取ることを申し出たり、とあまり心楽しい経験がない。
「まあ、そう言わずに、話だけでも聞いてくれ」
まだ二十歳くらいだろうに、一体この少年は今までどんな経験をしてきたのだろうと、思わず老紳士は心配になってしまった。
「少なくとも、そんなに悲しい頼みではないと思う」
とはいえ、自分の頼みを聞いてもらわないことには困る。この少年のように自分の声が聞こえる人をまた探すとなればひと苦労だ。
キンコーン、と終わりを告げるチャイムが鳴ると、教室には安堵と諦めのため息が一気に吐き出された。しんと静まり返っていた教室にざわめきが戻り、テスト用紙を回収する音とともにおしゃべりが始まる。
どうだった?全然ダメ、終わったことは気にしない!などと、それぞれにテストの出来を悲観しつつ、それでもやっとテスト週間が終わった解放感に満ちていた。
「凪! 今日まで部活休みでしょ? 甘いもの食べに行こうよ」
クラスメイトの結衣に誘われて、凪は頷いた。テストの時でもなければ、他の部活に所属する友達と放課後に遊ぶのは難しいのだ。
「中学でクラスメイトだった櫂くん、覚えてる?」
「ああ、常盤高に行った子だよね」
「そう。向こうも今日までテストでね、久しぶりに会おうよってことになって」
姫乃木女子大学は幼稚園から中学までは共学で、高校から女子高になるので、姫大付属中学に通っていた男の子は他の高校へ行くことになる。常盤高は、常盤大学の付属高校で、姫大から近いことから、姫大付属の中学に通っていた男子が多く進学している。
結衣と凪、それに千早と理子の4人で待ち合わせの店へ行った。すると、櫂たちはすでに着いていたらしく、テーブルで手を振っていた。櫂も三人の友達を連れている。
「久しぶり。元気だった?」
「おー、みんな変わってないなぁ」
「可愛くなったとか、お世辞でもいいから言いなさいよ」
凪たちは全員中学の時に櫂とクラスメイトで、櫂と一緒にもう二人中学の同級生が来ていたので、久しぶりの再会に盛り上がった。
それから、初対面の一人が紹介される。彼は小学校から常盤大付属なのだという。
「桜沢 大智です、よろしく」
自己紹介されて、凪は思わずじっと相手を見つめた。
「オウサワ ダイチ?」
聞き覚えのある韻を口の中で繰り返す。
「オウサワって、どんな字書くの?」
「え、桜の沢、だけど…」
オウサワという姓は「大沢」と思い込まれることが多く、初対面で漢字を聞かれることなど滅多にないので大智は少し戸惑った。
「…もしかして、桜沢さんの弟?」
「え? 兄貴を知ってるの?」
「部活のコーチだから…」
「あ、じゃあ、テニス部なんだ」
うん、と凪は頷き、色素が薄く髪も瞳も茶色っぽい英知とは異なり、真っ黒な髪と眼の大智を見やった。
2010年初出。2019年改稿。