黄昏のミラージュ 1
永祥寺は、江戸の頃から続く古寺で、規模は大きくはないが周辺地域に昔からの檀家を持っていた。住宅地の奥に位置し、古く大きな立派な門と本堂があった。本堂の脇に住職の住まいがあり、本堂の裏の広い中庭を抜けると墓地がある。中庭には大きな桜の木が何本か植わっており、その陰になって墓地は本堂から直接は見えない。
その日、永祥寺には一人の来客があった。その人物の名は小林肇。職業は高校教師。彼は住職を訪ねた。住職は本堂に彼を招きいれた。
「お久しぶりですね、小林先生。それで、ご相談というのは?」
住職は穏やかな口調で言った。
「はあ、それが、こういったことは誰に相談すれば良いのか判らなかったので、こちらをお訪ねしたのですが…、どうも、本校に幽霊が出るらしいのです」
「幽霊…ですか?」
住職の言葉に小林は頷いた。
「私は見たことはありませんし、そんなものがいるかどうか判らないんですが、生徒たちの間で随分と噂になっているようで。中には怖がって噂の教室に近づきたがらない生徒もおりまして、私たち教師もどうしたものかと思っているんです」
小林は更に説明を続けた。
「もうすぐ校舎の一部改築が始まるのですが、その際噂の教室も改築されることになっているんです。でも、幽霊の噂があるので、改築のために壊したら災いが起こるのではという噂まで立ってしまって。ひとつ、ご助力願えないでしょうか」
小林に頭を下げられて住職は困ったように言った。
「そう言われましてもねぇ…、除霊のようなことは行っておりませんし。あくまで私どもは亡くなった方のご供養をしているだけですので…」
「そうですか…」
残念そうに答える小林に、住職は言った。
「噂が静まるかどうかはわかりませんが、お経を上げてお祓いすることは出来ますよ」
と、そこへ、砂利を踏みしめる音がした。足音は本堂の前で止まった。
「あれ、小林先生。何やってんの、こんなとこで」
小林は声の主を見やった。本堂の前に住職の息子である青年が立っていた。
「こら、英知、敬語を使わんか」
住職にたしなめられたが、青年は平然として言った。
「高校の時からこうなんだから今更でしょ。ね、先生」
「素直には頷けんなぁ」
小林は苦笑した。彼は英知の高校時代の担任だったのだ。
「あ、そうだ、先生、いいこと思いつきましたよ」
不意に住職が言った。
「さっきの件、こいつに行かせましょう」
住職は英知を指差した。
「何だよ、さっきの件て?」
英知は不審の目を父親に向けた。
「お前の通ってた高校で幽霊騒ぎがあるんだと。お前学校に行って確かめてこい」
「ヤだよ。何で俺が?」
不服そうに英知は言った。
「お前、普段何も手伝わないんだから、たまには寺のことも手伝え」
父親の言い分に疑わしげに英知は返した。
「とか言ってホントは怖いから自分が行きたくないだけだろ」
ギクリ、と住職は言った訳ではなかったが、どうやら図星のようだった。
翌日、英知は高校に行くようにと父親に言われていた。大学の帰り、高校の前を通りかかった英知は独りごちた。
「…何で俺が…」
そのまま英知は高校の前を通り過ぎた。数歩行くと、英知は足を止めた。
目を伏せて英知は高校生の頃を思い出した。
…その当時、既に幽霊の噂はあった。何でも昔事故で亡くなった生物の先生がいて、その先生が生物室に幽霊になって出るというのだ。英知がその存在に気付いたのは高校2年の春だった。生物室で生物の授業を受けている時、英知は教師に指されたのだが、考え事をしていて質問を聞いていなかった。すると、どこからか質問の答えを教えてくれる声がしたのである。皆には見えていないようだったが、英知には確かに見えた。英知が無事質問に答えられて安堵したように微笑むその姿が。
その霊と初めて会話したのは3年になってからだった。生物室の掃除当番になった時、他の班員が用事や部活で掃除に出られず、英知一人で掃除することになったことがあった。掃除をする自分を眺めるその霊に英知は声をかけた。
「…先生さぁ、何でここにいるの?」
「えっ!?」
霊は驚いたようだった。今まで自分が見えるようだった生徒は何人かいたが、話しかけられたのは初めてだったのである。見えても皆怖がって知らないふりをしていたのだ。
「…僕が怖くないの?」
「別に。」
平然と英知は答えた。
「先生って、噂の一色先生?」
「噂?」
「アレでしょ、五年前に交通事故で亡くなったって先生」
一色は頷いた。
「そうか。噂になっているのか」
一色優作は生前、英知の通う藤瀬高校の生物教師だった。五年前、突然の交通事故で死んでしまったのだが、幽霊となって生物室にいるのだった。
「先生が今でもこの世に留まる理由は何? 何か未練でもあるの?」
「…人を待っているんだ」
生物室にいる理由を彼はそう言った。
「約束したんだ。だから、ここから離れられない」
英知はモップを持ったまま机にもたれかかった。
「でもさぁ、その約束したのってだいぶ前なんでしょ。それでもまだ現れないんだから、相手は忘れてるんじゃないの?」
「それでも、僕は約束を覚えている。だからここに居たいんだ」
「…そういうモン?」
「そういうモン、だよ」
一色は少し寂しげな微笑を漏らした。
それから、英知は何度か一色と話した。内容はいつも他愛のないことで、一色は幽霊とはいえ、いつも穏やかで恐ろしいところなどなかった。
そして卒業式の日、英知は一色の元を訪れた。
「卒業おめでとう」
一色は英知に言った。
「もう何年もこうして生徒をここから見送ってきたわけだ」
少し寂しげに一色は笑った。
「それでも僕と話をしてくれたのは君一人だったけどね」
「多分これからもいないよ、話してくれる奴なんて」
「そうだね」
一色は穏やかに微笑んだ。
「それでもここに居るんだ? その人が来るまで」
「うん」
一色の執着は不毛なものに思えたけれど、英知はそれを口にはしなかった。不毛な執着だからこそ、それがこの世に留まる理由なのかもしれない。
「まあ、早く成仏しなよ、先生」
英知は笑って別れを告げた。少し寂しそうに笑って一色はそれに答えた。
…現在、英知が高校を卒業してから4ヶ月が経とうとしていた。英知は踵を返すと高校に向かって歩き出した。
2007年初稿、2019年改稿