プロローグ
神様は退屈らしかった。
豪奢な玉座に膝を組んで、腕をその膝について、顔に皺を寄せて、ムスッとした表情でボォーっと虚空を見つめていた。
「……時間っていうものが、もう少し早く過ぎてくれれば、いいのだけれどね」
一切の音のない世界に、溜息交じりの麗しい声が小さく響く。
世界は遥かどこまでも暗く、何もない。建物や生物、それどころか、山や海、そして惑星そのものも存在していない。
――『虚無の世界』。玉座に座る美しい黒髪の女神様が名付けたその場所――空間は、その名に恥じぬ何もない場所であった。
そこに唯一存在しているのは、たった一つポカンと浮かぶ女神の居城である『宮殿』と紛れもない人知を超えた別次元の存在である絶対神の彼女であった。
黒く滑らかに長く伸びたその髪は、撫でるとさらりと解け、柔らかい。それに埋もれる小さな輪郭から成り立つ女神の顔立ちは、人間の域を超えて美しいものであった。吸い込まれそうな不思議な赤い瞳は、全てを見据えているかのように景色を捉えていた。
蠱惑的で、艶めかしいその体を覆うのは、黒を基調とした金色の刺繍の入ったドレス。首筋から膨らんだ胸部の双丘はそのドレスから零れるかのように、露出していて、男性の目を嫌でも引き付ける魅力を宿している。締まった腹部と膨らんだ臀部の差が、男の欲望を掻き立てる艶めかしさがあった。
絶世の美女という言葉が極めて似つかわしい文字通りの女神様は、少し不機嫌そうに表情を歪めて小さく言う。
「……お腹が空いた。早く食事が摂りたいのだけれど、まだなのか?」
ふと、女神は声を漏らす。その美しい声色は空気を伝い、じんわりと白亜の居城に広がった。神の力が含蓄されたようなその声は、言霊が宿っているように自らが呼んだ人物を呼び出す。
「……お待たせしました。ヴィーナ様。本日の朝食を用意して参りました」
壁に飾られた、金色の柄と切れ味の鋭い業物を思わせる銀光を放つ刀身を宿した、如何にもファンタジーに登場しそうな真っ直ぐな両刃の刀剣。長机の上にある三本の蝋燭が並んだ燭台には火が灯り、天井にぶら下がるシャンデリアを通して、仄かに照らしている。地面には複雑かつ繊細に折られた絨毯が敷かれていて、神様の通り道を描いていた。
その場所を若々しい少年の、しかしながら、やや大人びて落ち着いた様子の声とその主が二段式の台車を転がしながら通り抜ける。
黄金の髪と同じく澄んだ黄金の瞳。手足がスラリと伸びて、着こなしている黒を基調としたタキシード姿が非常に映えた印象だった。
しかしながら、少年もしくは青年と言った風貌の、その男性の筋骨は少なからず発達していて、何も知らず向かってきた愚者を軽く捻ってしまうと想像できた。
二段式の台車には湯気の立つ淡い、玉ねぎを焦がした飴色のスープと一口大に切られた見た目も華やかなサンドウィッチが皿に盛られている。台車を優しく前に押して、料理のその一滴、その一粒を零さぬよう留意しながら、決して遅いスピードでなく歩を進める。
「……待っていたのだよ! 妾の楽しみな朝食を」
膝を伸ばして、頬を緩ませ立ち上がったヴィーナは、感嘆の言葉を述べて少年の方へ目を向ける。小さく口元に微笑を浮かべて。
「グラ、早く配膳を頼む。待ちきれない」
「ヴィーナ様、焦らなくともすぐに済ませます。少しだけですので、お待ちください」
少年グラは、精悍な顔立ちに笑みを湛えて、台車に用意していた朝食を、燭台の乗る長机の端に丁寧に並べていく。
全て並べた後、机の端に一つ備え付けられたヴィーナ専用の椅子を少し引き、手を差し出して誘導する。
「ありがとう、グラ。さて、食べてもいいのかな?」
「えぇ、あなた様のために用意したものですから、存分にお食べください」
慇懃とした様子で、頭を下げて、朝食を是非にと促す。
「うむ」と小さく頷いて、皿に乗るサンドウィッチを滑らかな肌の指で摘み上げ、小さく口に入れて、噛む。シャキリと野菜の歯切り音が鳴り、青々しくも瑞々しい風味が口に広がる。挟んでいた特製のパンの小麦の薫りが、遅れて口から鼻に吹き抜け、得も言われぬ美味が口全体と喉に広がった。
「……美味しい。全く、どうして君はこれほどの料理を作れるのだろうね?」
「誠にご光栄なお言葉、ありがとうございます。私はとても嬉しい思いで、あります」
深々と頭を垂れて、微笑を口に映す。
「グラ以外に、妾の執事を行える者はいない。これからも、毎日頼むよ」
「はい、もちろんでございます」
一頻り、出された朝食を食べ終えたヴィーナは、口をナプキンで拭きながら、ふと視線を、宮殿の窓に映る虚無の世界へ移した。
「それにしても、やはり退屈な世界だ」
ヴィーナは溜息交じりにそう呟く。グラは怪訝にヴィーナを見つめて。
「……そうですか? 私には、ヴィーナ様がいつも楽しそうにあの暗闇の世界を、新たな世界の光で照らしているように思うのですが」
「……それは、妾の楽しみの一つだからな。確かに楽しい」
小さく微笑を湛えて、ヴィーナは言う。続けて、グラは返答する。
「……それならば、疑問が浮かぶのですが、なぜ創った世界を図書館へ保存するのですか? いつもあの暗い世界に保存していれば、綺麗な惑星の光がいつも照らしている、美しい宇宙になると思うのですが?」
「それは、そうだろう。だが妾は、な、『物語』を見ることが好きなのだよ。『始まり』があり、『終わり』がある、人間が躍動する生と死の『物語』を見ることがな。だから、読み終えた『物語』は図書館に保管し、一度終わらせないといけないのだよ。見たいときに見るために、意図しないところで勝手に『物語』が終結しないように」
「なるほど、『世界』よりも『物語』の方が重要なのですね。理解しました」
「そうだ。永遠を生きる妾にとって、食事と読書と遊戯は最高の娯楽だ。だから、何よりも大切で重要な存在なのだ。……当然、グラ、君も妾の大切な宝物だ」
その吸い込まれそうな双眸でグラの瞳を見つめて言った。一切の欺瞞を内包していない、真実の言葉で、はっきりと。
女神の従者であるグラも、慣れたとはいえ、男の子だ。絶世の美女の瞳で見つめられれば、流石に肌が紅潮してしまう。
「……ありがたきお言葉。感謝いたします。……では、もちろん今日も」
「あぁ、当然だ。……そろそろ始めよう」
「はい、かしこまりました」
ヴィーナは長机の椅子から立ち上がり、食事前に座っていた玉座へと戻る。グラは、せかせかと皿を片付け、支度を終えると、数分の内にヴィーナの傍に帰り、背後で、彼女を護衛するように凛と佇んだ。
「さて、始めよう。――【創造の根源たる揺籃期本】」
玉座に、妖艶な足を組んで座るヴィーナの目の前に、淡く発光する幻想的な書物が唐突に現れた。彼女のドレスを想起させる黒を基調とした幾何学的な刺繍を施され、金字でタイトルが描かれた幻想的な印象の本。およそ、縦幅四十センチ、横幅五十センチほどのそれは、当然ながら手に余るサイズだけれど、本は常に発光したまま、宙に浮かんでいた。
慣れた光景であるグラは、別段驚く素振りも見せることなく、落ち着いた様子でヴィーナの行動を待つ。
「グラ、筆をくれ」
「はい、こちらです」
「ありがとう」
佇むグラが懐から取り出した、長さのある羽ペン。恭しく手渡すグラに、一言労いの言葉を伝えて、受け取ったヴィーナは、細長い白肌の指をペンの軸に這わせ、綺麗に握る。
「さて、今日はどんな物語と出会えるのだろう?」
彼女がそう言葉を漏らすと、宙に浮かぶ神秘的な本は閉じていた状態からおもむろに開く。常に光を放つ神秘的な本が自然とペラペラと捲れ、一枚の見開きページで止まった。真っ白な紙面が怪しく光る。
「……では、始めよう」
つらつらと美しく握られたペンを紙面に奔らせる。紙面には美しい字体の文章が、黒い輝きを放ちながら浮かび上がる。
「【連ねるは言葉、記すは詩文、さぁ、新たな『物語』の始まりだ】」
本から発せられる神秘的な光は、強く閃く。宮殿の玉座の間全体を照らす光は、ヴィーナとグラを飲み込んだ。そして、暗く何もない空間に新たな『惑星』の陽が照った。
やがて、その場所には静寂が流れる。誰もいないその部屋に、神秘的な光を放つ開いたままの巨大な書物が、ただただ不思議に、宙に浮かんでいた。
女神ヴィーナは退屈だった。永遠の命をその美しい体に宿し、神々の王ゼウスのように全知全能な彼女は、ただ時間が流れていく日々に飽き飽きしていた。だから、彼女は『物語』を欲した。充実した毎日を過ごすために、その力で以って、『物語』を構築する『書物』を創り上げて。
その創り上げる彼女の“物語”は時に美しく、切なく、優しく、辛い。似ても似つかぬ作品が無数に生まれていくのだ。そして、その『物語』に溶け込む。己が紡いだ、或いは『書物』から生まれた『世界』に生きる『登場人物』が紡いだ『物語』に。
ヴィーナはそこで何をするのか。それはヴィーナにしかわからない。傍観するのか、人に親切にするのか、非道な行いをするのか、誰にだって知る由もない。
――そう。これは、退屈凌ぎに『物語』の『世界』を創る女神ヴィーナの話。そして、そんな女神に翻弄される従者グラや『登場人物』が綴る、淡く脆いお話。