相原慶太の最重要イベント「金曜日のカレー」
田中くんがグラウンドのド真ん中を全力で駆け抜けていく。 俺と水嶋はその美しい走りを、教室の窓から見届けた。
「教室でやったのが間違いだったね」
「迂闊だった、すまない。よりによって田中くんが来るとは」
「何しに戻ってきたんだろうね?」
「水嶋のリコーダーでも舐めに来たんじゃないか?」
俺たちは別々に学校を出て、駅と逆方向にある『ツーフレット』という近くの喫茶店で待ち合わせをした。
その喫茶店の存在すら知らなかったけど、どうやら水嶋の行きつけらしい。 学生が立ち寄るような場所ではないから、打ち合わせをするには都合が良いとの事だった。
水嶋の説明通りに商店街から一本外れた路地を歩いていると、【喫茶 2フレット】と書かれたレトロな看板が目に付いた。
ガラス張りの扉を開くと、りりん、とベルが鳴る。
「あら優羽凛ちゃん、いらっしゃ〜い」
小柄な女性がエプロン姿で迎え入れてくれた。 おそらく四十代後半くらいだろう。
「優羽凛ぃ!こっちこっち!」
奥の座席に座っていた水嶋が大袈裟な身振りで俺を呼んでいる。 そんなに手を振らなくても見えてるし、恥ずかしいからやめて欲しい。
「あら! ゆーりちゃんのボーイフレンドだったの!?」
「はい!ゆうりのボーイフレンドでーす!」
お前が答えるのか。というか今時『ボーイフレンド』 って。
俺は座席に腰を下ろして開口一番「あんまり悠長にしているヒマはないぞ」と、出来る限り声のボリュームを絞って言った。
「まぁ焦るなよ優羽凛、エスプレッソを飲んで心を鎮めたまえ」
「ゆーり呼ばわりすんな」
注文した覚えはないが、店員さんが俺の前にエスプレッソを運んで来た。 水嶋は本当に『2フレット』の常連なのだろう。 おばさんが俺と水嶋の顔を交互に見て、うふふん、と笑う。
スマホを確認すると、時刻は16時を回っていた。今日の重要イベントを説明するべく、俺は卓上に予定表を広げる。
「今日の相原家はカレーだ。 毎週金曜日は俺が作るカレーの日と決まってる。 本来なら……今すぐ買い出しに行って調理に着手したい。 水嶋、カレー作れるか?」
「か、カレーなんて余裕に決まってるでしょお!? 私だっていずれは?……誰かのお嫁さんになるわけですから……? 」
水嶋は俺をちらりと見た。ツッコミ待ちの表情だ。
「俺の顔でお嫁になるとか言うなよ気色悪い」
「元に戻ったら自分の顔でもう一回言ってやるからな!リアクション考えといてよ!ばか!」
「わかったわかった。それでな、俺の作るカレーは家族に大人気なんだ。皆楽しみにしているから、そこだけは出来る限り頑張ってほしい。とりあえずこれを見てくれ」
俺はスマホに『クッキングパッパ』というサイトを表示させて、水嶋の眼前に突き出した。
——『クッキングパッパ』通称『クッパ』。
個人的なレシピと調理工程をネットに公開して、みんなで共有しようぜ、という趣旨のウェブサイトである。
「なにこれ? 『我が家のカレー♪』……?」
「そう、この【突撃!隣のキューティ☆レモンちゃん】っていうユーザーがアップしてるカレーのレシピが、俺のカレーとほぼ同じだ」
水嶋は口を開けたまま食い入るようにスマホの画面を睨んでいる。
「カレーって調理実習のやつじゃダメなの」
「ダメだ、調理実習レベルのカレーはカレーとは言えない。 あれはラーメン界で言えばカップラーメンだ。 ジャンクフードに近い」
「ちょっとなに言ってるのかわからないけど」
「とにかく、帰ったらこの『突撃!隣のキューティ☆レモンちゃん』さんがアップしてるレシピ通りにカレーを作ってくれ。 何から何まで事細かに説明してくれているから」
俺はエスプレッソの香りに鼻孔をくすぐられ、一口啜った。ほろ苦くて、大人の味がした。
対面に座る水嶋も緩慢な動作でカップを傾けている。
「ごめん、ユーザー名なんて?」
「突撃!隣のキューティ☆レモンちゃん」
「ごめん、覚えられないから書いて」
「いや、スマホ開いてブックマークしてくれよ」
「スマホ寝かしつけたばかりだから起こしたくない」
「寝かすのはカレーだけでいいんだよ」
「あら。 上手いこと言ってやったって顔してる」
「恥ずかしいからやめてそういうの」
腕を組んで頑なにスマホを取り出そうとしないので、予定表の裏に『突撃!隣のキューティ☆レモンちゃん』と書いた。 我ながら超が付くほどの達筆である。 字が上手いのは俺の数少ない自慢の一つだ。
「ぶふっ!」
水嶋がエスプレッソを噴き出した。
「汚いな! ふざけてるだろ水嶋!」
「ごめんごめん、相原くんって字だけは本当に上手いよね。 なんかさぁ、ツボなんだよ」
水嶋はソフトなディスりを挟んでくる。字が上手いのがツボという笑いの感性も全く理解できないが、今は無視だ。 話を進めなくてはいけない。
「どうしても味の差は出ると思うから、細かい粗を家族に突かれたら『なんでだろう』の一点張りでいい」
「今日は調理実習のカレーを参考にしてみた! の一点張りじゃダメなの?」
「ダメだ。 俺のカレーは家族の反応を伺いながら、日々進化して今の究極形に落ち着いたんだ。 家族全員が、金曜日に俺のカレーを食べないと落ち着かない身体になってしまっている」
「家族をなんて身体にしてくれてんの。 罪深いね相原くん」
他の何が疎かになってもいい、幸い今日は弟の帰宅が早いらしく、大抵の事は手伝ってくれるだろうし、俺らしくないミスもフォローしてくれるだろう。
ただ、このカレーだけは俺にとって、どうしても譲れない部分なのだ。
水嶋はもう一度予定表を読み返して、口元に手を当てている。 熟読しているポーズだ。
「うーん、カレーへの異常なこだわりはなんなの?アンダーラインまで引いちゃってるけど。そこまで重要なら、相原くんが作ればいいじゃん」
「え?」
「カレー作るのに莫大な時間費やす訳じゃないでしょ? 私の身体で相原家に来てカレー作れば?」
「で、でも……水嶋は大丈夫なのか? 予定とかないの? 俺ばっかり指示してるけど、やらなきゃいけない事とかないのか?」
「ないよ、ママに友達の家に寄るから遅くなるよ〜ってメッセージ入れればいいだけだし」
も、盲点だった! それなら最重要イベントである金曜カレーを乗り越えられる!
でも待てよ、家族が『相原家に女がやってきた』という事実に対し、未曾有のパニックに陥る未来が見える。
「水嶋……頼む。親に連絡を入れてくれるか」
背に腹は変えられない。この選択が最善策のように思えた。
「うむ、任せなさい」
「じゃあ買い出しに行こう。今すぐに! 足りない食材は頭に入ってる」
喫茶店を出る際に、エスプレッソを出してくれた店員さんが「ゆーりちゃん、新作が完成したら最初に読ませてね」と笑顔で謎の声をかけてきた。 何の事かはわからなかったが、水嶋っぽく「了解!」と答えてスーパーへ向かった。
その道すがら、軽い足取りで歩く水嶋と今後の流れを確認した。
1.スーパーでの買い出しは俺一人で行い、その間に水嶋は「水嶋優羽凛版の予定表」を作成する
2.「相原家」に二人で帰り、カレーを作る
3.カレーを作り終えたら俺は「水嶋家」に帰る。その際、水嶋は俺を自宅まで送る。
完璧に近い流れだ。 ただし、俺はカレーの件でかなりワガママな展開を水嶋に強いている。
自分が水嶋家に帰った後の行動に関しては、多少厳しい指示を出されても、しっかりと受け入れようと思った。
「相原くん、なんでカレーがそんなに重要なの?」
実際、重要なポイントは他にも沢山ある。例えば勉強机の一番下の大きな引き出しは絶対に開けて欲しくない。 何故ならそこは、エロ本とDVDの収納スペースだからだ。
「俺の作るカレーは、お袋の味だから」
正直に答える事にした。
「お袋の味? 相原くんがお母さんなの?」
上から二段目の引き出しも開けて欲しくない。
俺が鼻血を出した時、水嶋がふざけて撮ったツーショットの画像を引き伸ばしてプリントした写真が入っているからだ。
「そう。 毎週金曜日は昔からカレーだった。 俺たちの母ちゃん、三年前に死んだんだ」
「……え?」
「どうやって作ってたかなんて、食べるだけの俺たちにはわからなかったからさ。 試行錯誤して、『母ちゃんのカレーだ!』って盛り上がった時は本当に嬉しかった」
それから水嶋は、何も言わずに隣を歩いてくれた。
数分歩いてスーパーに着くと、水嶋はベンチに腰掛けて『予定表』を書き始める。
「俺がこの身体で水嶋家に帰った時はどうすればいい?」
「普通でいいよ。ご飯食べて、お風呂に入ってスキンケアしてちょっと勉強して寝てくれれば」
「スキンケアが難しそうだな」
「妹がいるから、真似すればおっけー」
「えっ? 水嶋って妹いるんだ?」
「あ! 妹が一緒にお風呂入ろうとしてきたら断ってね」
「なんで?」
「私よりおっぱいが大きいから」
ふむ……。 今日は風が騒がしいな。