『男の覚醒は性欲に依存する』
「……いや戻らないんかぁい! 」
水嶋の部屋。 天井がやたら近い二段ベッドの上で俺は叫んだ。 汗ばんだ両手がブルブルと震えていて、その震えを抑えるように強く握りしめる。
「くっ、くそっ。 なんだ、このもどかしい気持ちと……なんとも言えない恥ずかしさは……この感情をどこへぶつければいいんだ……!」
ベッドから飛び降りてクローゼットを開ける。 パジャマを脱ぎつつ、走りやすそうなズボンと変なキャクターが書かれたティーシャツを選んで、上からパーカーを羽織りかけたところで「こんなもんいらねぇやっ」とベッドの上に放り投げた。
同時に、脱ぎ散らかしたパジャマを見て、少し冷静さを取り戻す。
起き抜けに『やはり男を動かすのは性欲なのだ』という悟りみたいなものがぼんやりと頭に浮かんでいたので、どうして自分がそんな悟りを開くに至ったのか、落ち着いて思考を始めてみた。
フローリングに胡座をかき、目を瞑り、幽体離脱していた時のことをジワジワと思い起こしていく。
ちょっと……さすがに暴走が過ぎたな。 あれだけ自分を律し、自制心という名の鎖で封じてきたフィジカルな接触への欲望が、ほんの5秒間のキスで全て弾け飛んでしまった。
きっとキスは剣よりもペンよりも強いのだろう。
あれ、こんな事をどこかで考えたことがあるな、と思っていると、階段をドタドタと駆け上がってくる音が聞こえてきた。
「ゆっ、ゆうりちゃんどうした!? すっごい音がしたよ! 」
「ああ、ゆうなちゃんか……グッドモーニング。 男の覚醒ってのはね、やっぱり性欲に依存するんだよ」
「寝起きで何言ってるんだこの人……」
「今日はゆうなちゃんと病院に行くって約束したけど……あれ延期にする。 どうしても今日はダメになっちゃったの、ごめん! 」
ゆうなちゃんの脇をするりと通り抜けて階段を駆け下りる。
「あっ! こら、待ちなさいっ」
一階に降り、リビングのドアを開け、「ママっ! 今日ちょっと遅くなりますっ」と叫んだ。その時には、追いついてきたゆうなちゃんにガッシリと腕を掴まれていた。
「お願い、一生のお願い。 今日しかないの、絶対にやらなきゃいけない大事な用があるの! 」
ママが廊下に出てくる。
「どうしたの優羽凛、どこにいくの」
「ママ……。 水嶋優羽凛を……産んでくれてありがとう……」
「え。 な、なにこの子……」
「ママ、ゆうりちゃん行かせない方がいいよ! 今日だって私と病院に行く約束してたんだよ! 」
「いいえママ、私の目を見て! 本当に大切な用なの。 今日を逃したら一生後悔するくらい」
俺はママの目を見据えた。 視線が交わる。いつ見ても美しい人だ。
「……相原くんと会うの? 」
「……はい、そうです」
ドキッとしたが、ここで嘘をついても仕方ない気がしたので正直に答えた。 水嶋ママはいずれ超えなくてはいけないハードルだし、きっと水嶋本人が同じ状況になっていても嘘はつかないだろう。
ママは俺の目をじいっと見て、息を吐きながら頭をぽりぽり掻いた。
「優羽凛、今のお気持ちをどうぞ」
握った拳を俺の口元に寄せてくる。 よくわからないけど、マイクを向けるインタビュアーのアクションだなこれは。 俺はこの上なく真剣な表情を作って頷いてから、「早く行かなきゃって感じです」とサラッと適当に答える。
「赤信号は? 」
「えっ、赤信号? 」
あの最もポピュラーな赤信号のことを言っているのか。 水嶋家のローカルな共有言語だとしたら太刀打ちできそうにない。
「赤信号は……止まれ? 」
「うん。 青が点滅してたら? 」
「……走れ? 」
「ブッブー、残念! 外出許可は降りませーん。 家にいてくださーい」
ママは腕でバッテンを作ってリビングに戻ろうとする。
「点滅してたら止まりますっ」
咄嗟に服を掴んで引き止めた。
「止まらなくていいけど。 細心の注意を払って、周りの状況をし〜っかり確認しながら、存分に走ってくださいませ」
「……あぁ、なるほど」
俺はここでやっと、ママがしてきた質問の意図を汲み取ることができた。 恋に浮ついた娘の心に優しく重石を乗せて、地に足をつけなくてはいけないと注意喚起してくれているのだ。
「自分の体感温度を相手に押し付けちゃいけないよ。 私とパパだってクーラーの設定温度でいまだに喧嘩するんだから。 20年以上一緒にいるのに」
「はい」
「よし。 ちょっとクールになった? 」
「なれました」
「……よかった。 ねぇ優羽凛、相原くんってそんなに素敵な男の子なの? 」
「素敵ではないと思いますけど」
「じゃあどうして好きになったの? 」
「えっ……? そういえば、どうしてなんだろう……? 」
ママは俺の顔を見てにやにやと笑っている。
「優羽凛から恋愛の匂いなんて感じたことなかったから、初めて言うけど……ママはね、恋愛に一番大切なのは “直感” だと思ってるよ。 理由なんて後からいくらでも言葉になるものだからさ。 今度ゆっくり聞かせて欲しいなぁ」
「……うん、ありがとうございます」
ママはリビングへ繋がるドアをあけて戻っていく。 最後に柔らかい微笑みと、握りこぶしを掲げて「頑張れ」みたいなポーズを向けてくれた。
俺はゆうなちゃんに深く頭を下げて、「本っ当にごめんね」と謝った。
「……うん。 ママがあそこまで言うなら……てゆーか、その髪で行くの? ゆうりちゃん」
「え? 髪型ヘン? 」
「メデューサみたいになってるけど」
「あはは! この女がどんなにモンスターでも、髪が蛇にはならないでしょ」
「ちょっと待ってて! 」
そう言い残してドタバタと洗面所に向かう。 戻ってくると、とても手際よく俺の髪を溶いて、ポニーテールを作ってくれた。
「うん、やっぱりこれが一番似合う」
この妹、わかってるじゃないか。
「あ、ありがとう」
「顔はスッピンでいいの? 」
「うん、スッピンでもその辺のアイドルくらいなら圧倒できる可愛さを誇るから」
「ゆうりちゃんて恋すると自信満々になるんだ。 普通は逆だと思うよ? 」
ゆうなちゃんとハイタッチを交わし、俊敏に踵を返す。 そして下駄箱の中から一番動きやすそうなスニーカーをチョイス。 色違いの同じスニーカーがあったが、反射的に色が暗い方を選んでしまった。
「それ私のだよぉ! 」
という言葉を置き去りにして、勢いよく玄関から飛び出した。
「うぉぉお! 」
走る、走る。 駅を目指して全力で走る。
頭の中では、ポニーテールを風に揺らしながら砂浜を走るような人たちの軽快なポップソングが流れていた。
……絶対に今日、元に戻ってやる。 ぜぇってぇーに戻る! それで水嶋とディープなキッ……ディープなキモチを伝え合う!
忍者のように颯爽と駆けながら、住宅街の入り組んだ道を俯瞰でイメージ。
昨日ゆうなちゃんと歩いた道ではなく、近道になるであろうルートを的確に選択。
確実にコーナーのインをつきながら、絶妙なショートカットを重ねる。
根拠のない自信で突き進んだルート選択が完全にアダとなり、気が付けば迷子の迷子の子猫ちゃんに成り下がっていた。
「神様って、絶対にいないよな……」
天を仰いで呟いたが、そこにも当然のように神様はいない。 清々しいほどの青空が広がっていることが、逆に俺の胸を締め付ける。
「ちっ、ちくしょう……! ちょっと頑張るとこれだよ……! 大抵は空回りすんだよなぁ……! 」
スマホで地図アプリを起動しかけた時、道の先に道路で遊ぶ子供達を確認する。 それと同時に再び地面を蹴った。
しゃがみこんでいる子供、縄跳びをしてる子供、スケボーみたいな乗り物で下半身をウネウネと動かしている子供。 5人以上いる。
今どき道路で遊ぶなんて珍しいなと思ったが、それもそのはず、少し先は行き止まりになっていた。
「ねぇっ! 駅に行くにはどう行けば近いかなっ? 」
「はぁ? スマホで調べりゃいいじゃん」
クソ生意気なガキだ、その変なスケボーから蹴り落としてくれようか。
「そうなんだけど、俺、スマホで道を調べるの慣れてなくてさ。 聞いた方が早いだろ? 出来れば教えてほしいんだけ……」
「『俺』だって! 男かよ」
「もうお前に用はない。 公園で思う存分ウネウネしてこい」
他の子に聞こうと、周囲の子供達が呆気にとられているのを見渡してみて、俺は絶句した。
——ブロック塀に寄りかかってスケッチブックを開いている一人の少女。 手には懐かしいクレパスが握られている。 その両隣りには、同い年くらいの男の子と女の子がいた。
「スマホで調べろ」のガキを無視して、そちらに歩み寄っていく。
「おはよう。えっと……どこの支部? 」
スケッチブックを持った少女に問う。
「……しぶ? 」
その問いに、少女は首を傾ける。
「そこに描いてあるの、レムだよね」
少女のスケッチブックには、俺が昨晩駆除したレムが描かれていた。子供らしい拙いタッチだが、確かに昨晩ナルセと一緒に遭遇したレムだ。 その周りには複数の幼生も描かれている。
「ううん、これはれいむだよ」
「だから……レムでしょ? 」
俺はしゃがんで、地べたに座っている少女と目線を合わせる。
「ちがうよ。 これは、れ・い・むぅ! 」
「所属してる支部はどこ? えー、高座桜ヶ丘の西急ストアかな? 」
「コウサクセイキュー? すき」
「……好き? 」
「ママが、おかし買ってくれるから。 にひゃくえんまで」
話が全く伝わらない。 視界の端で、縄跳びで遊んでいた子達が、走って家に戻っていくのが見えた。
「この生き物、どこで見たの? 」
「……きのう、夢でみた」
「その夢で誰かに会った? 」
「ううん、だれにも会わなかった」
「夢の中で何をしていたの? 」
「えっと、こっちの、ぷにぷにした小さいれいむたちと遊んで……」
少女は自らスケッチブックに描いたレムの幼生を指差している。
「マンションの上で、ずっと星を見てたの。 そしたら、この大っきいれいむが、お空を飛んでたの」
「どうして『れいむ』なの? 」
「これはね、れいむっていう、ヨーカイなんだよ」
両隣の子供達が不思議そうな顔で俺を見つめていた。 ……この少女も突発的な幽体離脱を体験していたのだろうか? ただそれだと、この生物に『れいむ』と名を付けた理由がつかない。 偶然にしては出来すぎている感がある。
「おはようございます〜! 」
後ろから声をかけられて、慌てて振り返った。 三十代後半くらいの小綺麗な女性で、縄跳びで遊んでいた子供たちがその脇を固めている。 多分、ヤバイ奴に声をかけられたらすぐ大人に知らせるようにと徹底的に指導されているんだろう。
「あ……おはようございますっ。 あの、決して怪しいものではありません。ちょっと道に迷ってしまって……」
「あ、いえ、この子たちが急に呼びにくるものですから……全然、怪しい方には見えません。 私は、その子の母親です」
そう言ってマダムは笑った。
「あ……娘さんの描いた絵が可愛かったので、声をかけていただけなんです。 なんだか、すみません」
マダムは俺の言葉を受けて、少女のスケッチブックを覗き込む。
「あー……また『れいむ』描いてる。 ……可愛いですかね? この妖怪」
「妖怪……? これって、妖怪なんですか? 」
「……旦那はあやかし、って言ってたかな……? ねぇ、みぃちゃん? このれいむって、どこで知ったんだっけ? 」
良かった。 水嶋のビジュアルのお陰で友好的に接してくれるようだ。 このご時世なので、俺自身の身体だったらノータイムで即通報もあり得た。
母親に『みぃちゃん』と呼ばれた目の前の少女は顔を上げて、「きょうとのじんじゃ! 」と答える。
「京都の……神社? 京都の神社でこれを見たの? 」
みぃちゃんは答えない。 隣の男の子に何やら耳打ちをされて、高い笑い声を上げた。
「私が京都出身で、先月家族で実家に帰ったのですけどね。 その時に……この『れいむ』という妖を祀っている神社に行ったんです。 ウチの旦那がそういうの大好きで……私にはさっぱりわかりませんけど」
「妖を祀る神社……? 」
「……ええ、旦那はそれが珍しくて面白いらしいですよ。 この子も旦那の血を受け継いじゃったみたいで、その神社に行って以来ずっと『私はれいむを知ってる』ってこんな絵を描くようになって。 あ、検索すれば出てきますよ、れいむを祀ってる神社。 名前は……ごめんなさい、ちょっと忘れてしまいましたけど」
「面白いですね……れいむ、ですか」
「幽霊の霊に、夢と書いて『霊夢』だったと思います。 なんでも、人の夢に出てくる妖怪……妖か、だそうです。 そういうの好きなんですか? 」
「あ、いえ……私も夢でこの妖怪を……」
駆除してるんです、とは言えない。
「えー! 本当ですかぁ? すごぉい」
みぃちゃんのママは驚いた様子で、口元を手で覆う。
「みぃちゃん、お姉さんもれいむ見たんだって! パパに教えてあげようね」
とても興味深い話だった。 俺はこの可愛らしい少女……恐らく昨晩、幽体離脱を経験しているであろう子供に引き寄せられたのか。 不思議そうに俺を見ているその子に、再び視線を戻す。
「お名前はなんていうの? 」
「すぎたみずき」
「みずきちゃんか、とってもいい名前だね。 おいくつ? 」
「5さい」
母親に駅までの行き方を尋ね、説明を聞きながら、彼女が出てきたマンション名を頭にインプットする。 丁寧にお礼をしてすぐに走り出すと、スマホで地図アプリを立ち上げて現在地の住所を確認した。
どこの支部の管轄なのかはわからないが、紫苑さんには報告しておく必要があるだろう。 5才での幽体離脱は、さすがに最年少記録が出るレベルだ。
京都の神社の『霊夢』はとても面白い話だったので、水嶋と話すネタとして大事にとっておこうと思った。 でもきっと、こういう話に興味を持つこと自体が、幽体離脱から卒業させられてしまう前兆になるのだろう。
そう考えるとなにか見えない力みたいなものが、俺から幽体離脱を奪おうとしているようにも思えた。
「……そんな事より今は水嶋ぁ! 入れ替わり解除へ爆走猛進! 」
注意深く周囲を確認しながら、繊細かつ大胆に全力疾走で商店街を駆け抜ける。 改札を叩き壊す勢いでSuicaをタッチさせた瞬間、ポケットの中でスマホが振動していることに気付いた。
息を切らし、駅のホームに立って電光掲示板を確認。 次の電車は6分後。 唸り続けるスマホをポケットから引っこ抜く。
——水嶋だ。
本当は電話をする気なんてこれっぽっちもなかった。
昨晩、幽体で涙まで流して「必ず迎えに行く」などと、入れ替わりが解ける前提でドラマチックなやり取りを交わしていたのにこの体たらく。 ちょっと恥ずかし過ぎて、冷静に電話なんて出来る気がしなかったのだ。
直接会えばその羞恥心を勢いで誤魔化せるし、入れ替わりを解くために実体で試行錯誤しよう、という提案をすれば昨日のことはうやむやに出来るだろうという打算もあった。
その辺の心情を察することなく電話を掛けてきた水嶋。 さて、どう出るか。
「はい」
『慶ちゃんおはよー』
「うん、おはよう。 あー、今向かってるから、黙って待ってて」
『あのねぇ、実はねぇ』
「……ん? 」
『今日ね、早起きしてぇ、頑張ってお弁当作ったの……サンドイッチ。 ハムたまごとぉ……ジャムがなかったから買いに行ってぇ……』
「……誰の弁当? 」
『ふふ、慶ちゃんのに決まってるでしょ』
「俺の? 家族の弁当は? 」
『昨日の残りの焼きそばを詰めて渡しましたよ。 ちゃんとできました。 喜んでくれました』
「……ありがとな。 でもなんで俺の弁当を? 」
『誰よりも慶ちゃんに喜んで欲しいから。 今日のデートはね、お昼に私の作ったサンドイッチを食べて欲しくてぇ』
「待て水嶋」
『ねぇ。 きのう田中くんを沈めた海浜公園に行こうよ! すごく綺麗な公園だったよねぇ。 レジャーシート持って行ってぇ、そこで潮風を浴びながらぁ、私のサンドイッチ食べて欲しいなぁ……」
「目を覚ませ水嶋! 夢はもう終わったんだぞ! 」
『あの公園の近くにね、美術館あるの知ってる? サンドイッチ食べたらそこ行ってぇ、手を繋いで絵画見てぇ……』
こいつ……余韻でベロベロに酔っ払ってやがる……!
「待て、そ、それ以上デレるな水嶋……! その前にする事あるだろ!? 大きな問題が一つあるだろ、おい! 」
『……問題? 』
「恋人同士みたいな雰囲気は身体が戻った時に残しておいてくれ……もったいないから……頼む! 今の俺は相原慶太の声でデートに誘われてるんだぞ」
『えー? なにぃ? 電波悪いなぁ』
「話の内容は天に召されるほど嬉しいんだけど……声が最高に気持ち悪いんだ。 つまり俺は今、天国と地獄の国境線に立ってるんだよ。 右半身は天国で天使の息吹を浴びていて、左半身は地獄で鬼の口臭を浴びてる気分なんだ。 いいか? 二度とその声で猫撫で声を出……」
『……うふふんっ』
「うふふんっ、じゃねぇよ。 俺が行くまでに鏡を一分間見つめとけよ、お前はまだ相原慶太なんだ。 絶対に今日、元に戻るんだからなっ! 」
『……身体は相原慶太でもぉ、心は相原優羽凛だよぉ』
「おぉ……。 これは緊急手術が必要だ……」
電車がホームに滑り込んでくる。
生ぬるい風と轟音が全身にぶつかった。
「とにかく待ってろよ! すぐ行くから! 」
俺は電話を切って、電車に駆け込んだ。




