ゼロ回目のファーストキス
「水嶋、ちょっと足の方持ってくれる? 」
「え、えぇ〜……?」
「えぇ〜じゃありません。 ほら、早く持って。 なんかコイツ異常に重いんだよ」
俺たちが田中くんの抜け殻の前でグダグダしている間、田中家とその隣家には警察が忙しなく出入りしていて、ポルターガイストの起きた現場を調べているようだった。 田中くんの部屋からは強いフラッシュが焚かれていたし、彼のお兄さんらしき人が外に出て電話をしたりしている。
「これ、どこに運ぶの? 」
「この田中くんは東京湾に沈める」
「……ほっといちゃダメなの? 」
「う〜ん、普通の黒ならほっといて明日回収してもいいんだけど……これはさすがに俺たちの手で処理しといた方がいいだろ」
「俺たちかぁ、なんで私が入ってるんだろなぁ……」
「こっからだと海浜公園の方に出ればいいな。 急ごう」
「えぇ〜! 遠くない? 」
「ひとっ飛びだよそんなもん。 文句ばっかり言うんじゃありません! 」
とっくに肉体に帰ってもおかしくない時間帯だったけど、しばらく飛んで海が見えてきても一向に戻る気配がなかった。
「私たちの身体は寝たままなんだよね? 慶ちゃん、これ戻らなかったら私たちも救急車コースなんじゃ……」
「抜けてる時ってちっとやそっとじゃ起きないけど、普通は実体が無理やり起こされると帰れるんだよ。 多分、休日だし、俺たち起こされてないんじゃないかな」
「田中くんを海に沈めたら急いで見にいこう」
そうだな、と返して、橋のトラス構造の間を潜り抜ける。 既に朝陽が差していて、街や人々は動き出している様子だ。
俺と水嶋は上空から「せーの」で眼下の海に田中くんの抜け殻を放り投げた。
落下した海面から真っ黒い煙があがり、抜け殻は静かに沈んでいった。
「よし、いっちょあがりだ」
「お疲れさんでした〜」
俺たちはそのまま家の方角へ向かって飛んでいく。 ひとつの戦いが終わった充足感と、同時にとんでもない疲労感が押し寄せてきていた。 瞼がだんだんと重くなってくる。
「あ。 慶ちゃん、キタ。 ちょっと眠くなってきた」
「俺もだ。 良かった、そろそろ帰れそうだな」
「あぁん、疲れたぁ……おんぶ」
水嶋の腕が肩の後ろから伸びてきて、そのまま首に回してきた。
今までならものすごく心拍数が上がってしまっただろうけど、幽体であることと、この二日間のドタバタのお陰で、水嶋をおんぶするくらいなら自然体でいられるくらいにまでアップデートされている気分になっていた。
「俺さぁ。 ちょっとな、心のどっかで……水嶋の身体に入ってる生活でもいいかなって思ってたかもしれない」
「そうなの? 」
「おう、水嶋は幸せなんだろうなってさ。 あんな素敵な家族に囲まれて……絵みたいな打ち込める趣味もあって、見た目も可愛いしな」
「……面倒なこともいっばいあるんだよ? 見た目が可愛いっていうのは素直に嬉しいけど、同じ顔の妹がいるからなぁ……」
「ゆうなちゃん? 顔、同じじゃないぞ」
「同じだよ。 同じ格好したら、親だってわからなくなったくらいなんだから」
「……俺は2人が丸坊主で同じ囚人服を着ていても見分けがつく自信がある」
「……よく言うよ。 しかもなんで刑務所入ってる設定なの」
「本当だよ。 嘘だと思うか? うーん、じゃあ例えばな、2人の顔が寸分の狂いもなく、全く同じだったとしても……見分けをつけるのに一目瞭然な状況を、俺は作れるんだよ」
「……どういうこと? 」
「頑張って笑わせればいい。 まず笑いのツボが違うし、何より笑顔の作り方が全っ然違う。 気付いてたか? 」
「笑顔か……私、家じゃあんまり笑わないからなぁ……」
「そもそも俺はさ、水嶋が笑っている顔を見て……」
——好きになったんだ。
幽体じゃなくて、生身の身体で伝えたかったので、そこで言葉を切った。
水嶋が俺の首元に顔を埋めてくる。 スーッと鼻から息を吸ったようで、こそばゆかった。臭くなかっただろうか。
そして、さすがにここまで接近されると、下半身の血流に意識を割かざるを得なかった。
「私は慶ちゃんの大変さを知りましたねぇ。 な〜んか……自分を殺して、家族に尽くしてるんだなぁって」
「自分を殺して」というワードに多少怯んだが、あながち間違ってはいないし、それは俺の逃げ道でもあった。そうすることで、死んだ母ちゃんへの償いになると思っていたからだ。
「あぁ……その状況から逃げたかったのかもしれないなぁ、俺」
しばらく沈黙が続いた。
あえてスピードを出さず、ゆっくりと飛行する。 この時間がずっと続けばいいな、って事を、俺はあと何回思えば気が済むんだろうか。
「ねぇ、入れ替わった日にさ、シオンお姉さんがしてくれた話を覚えてる? エミリーとヘンリー? だっけ? 入れ替わった外国の女の子の話」
「……ん? あぁ、ほんのり覚えてるよ」
すぐ横に、ほぼゼロ距離で水嶋の顔がある。
「おん? 耳が赤いね」
「さっ、触るな! 今敏感になってるから!」
「あの話のオチ、覚えてる? 」
エミリーと……たしか『ヘンリー』ではなく、『ヘレナ』だったような気がする。 オチに関しては全く覚えていなかった。
「いや……どんなだっけ? 」
「2人は花の髪飾りを作るためにちょっとした崖に登ってぇ、そこから転がり落ちて、入れ替わったんだよね」
「あ。 あー、思い出したわ。 そんな話だったな、 オチってなんかしょーもない小噺みたいなやつじゃなかったか」
「ううん、その後に、本当のオチがあるとか言ってあの人が話してくれたじゃん」
「そうだったか? どんなんだっけ」
「エミリーとヘンリーはね、夢の中で花の髪飾りを交換したんだって。 そしたら、それぞれの身体に戻っていった」
完全に思い出した。 紫苑さんと3人でタクシーを待っていた時、そんな事を言っていたのだ。
入れ替わった2人の少女が同じ夢を見て、そこで花の髪飾りを交換した。 その後ふわふわと浮遊しながら、本来の身体に戻っていった、という話だった。
「もしシオン姉さんの話が実話で、エミリーとヘンリーが見た『夢』っていうのが実は『幽体離脱』の事だとしたら……私たちも同じように、この幽体でなにかの条件を満たせば、自分の身体に戻れたり……して? 」
俺が水嶋の話を聞いて立ち止まると、彼女は背中から離れて、前方に回り込んできた。
駅前交差点の上空。 斜め下で、道路を跨ぐ橋を電車がゆっくりと通過する。 商業施設に設置された巨大な電光掲示板にはまだ何も映っていない。
その真っ暗なスクリーンの前で、俺たちは向き合った。
「俺たちが交換するもの……何かあるか? 」
そう尋ねると水嶋は真っ赤な顔をして、サイドに垂れた髪を、人差し指にくるくると巻きつけていた。
「えっと……なんというかなぁ。 その……きっ。 き、き、き、きっ、きっ!」
「うぉ!? どうした水嶋、壊れたか!?」
わかっている。 胸が痛いくらいにわかっていた。 交換しなきゃいけないものは、互いを想う「気持ち」だったのだと思う。
でもそれは、今回の幽体離脱のお陰で、心の中ではもう交換が済んでいる気がする。 バカな俺が水嶋の気持ちを心から弾き出していただけで、今は十二分に伝わっているのだ。 彼女もそれをしっかり感じ取っているはず。
「……わかってる。 でも気持ちはここじゃなくて、ちゃんと現実で伝えたいんだよな。 それに俺はなんだか……今日で元の身体に戻れる気がし……」
「ちっ、違う! 気持ちじゃない…… 」
「気持ちじゃないのか? 」
「も、もしかしたらだよ!? その、えっと……」
真っ赤な顔で俯く。 そして、目を泳がせながら引きつった笑顔を上げた。
「き、きっ! 『きっす』……なのでは……? 」
脳天に雷が落ちた。 コンマ数秒意識が飛ぶ。
……脳がまだ痺れているが、ここは男として、クールに立ち回らなくてはいけない。
「なるほどな……ふむ。 特に交換するものもないから……体液を交換するってわけだな? 」
「……こっ、このバカ童貞! ……がんばって言ってみたのに……もういい、バカ! 肋骨108本折れろっ! 」
振り返って飛び立とうとする水嶋の腕を掴む。
「待った待ったごめん! うん、ちょっとクールぶった ……そんなこと言われるなんて思わなかったから、すごく動揺したんだ……謝るよ、ごめん! 」
振り返った水嶋は涙ぐんでいた。
いや、もはや泣いていた。
「だっでぇ……キスで呪いが解けるとかよくある話だしぃ……白雪姫だってぇ……キスで起きるしぃ……これはぁ、実験的な意味であってぇ……」
「……よし! そうだな、ちょっとベタ過ぎる気がするけど……たしかに言えてる。 実験だ、検証してみよう! き、き……キスで入れ替わりの魔法が解けるかどうか 」
告白も済んでないので順序が違う気がするが、ここまで言わせて黙っていたら俺にはおちんちんが付いていないことになる。 据え膳食わぬは男の恥ってやつだ。 それに今は幽体なので、ノーカンと言えなくもない。
「そう……慶ちゃん……これはあくまで実験だからね! 元に戻れるかどうかの実験! ……それに今は幽体でしょ? これはノーカンだから! 夢みたいなもの、練習、予行練習みたいなノリで! 」
水嶋も同じ言い逃れを考えていたらしい。
「 ……あ、そういえば水嶋、初めて幽体離脱した時も『とりあえずキスしとく? 』みたいな事言ってたもんな」
「それもノーカン! 大体あれは慶ちゃんの反則だからね、ペナルティものだよあんな……」
水嶋の両肩を掴む。
「あ……慶ちゃん? ちょっと痛い……かも」
「あ。 ごめんっ」
手に力が入り過ぎてしまった。
気を取り直して、気付かれないように深呼吸。 そしてゆっくりと顔を近付ける。
「あの、水嶋? そんなギンギンに目を開けてられると……」
「あっすみません。 そうか、目を瞑らなきゃいけないのか……あれ? でも慶ちゃんはずっと目を開けてるんだよね? 不公平なのでは……」
「不公平もなにも、俺が狙いを定めないと鼻とかにいっちゃうかもしれないだろ」
「……あ、なるほど、そうか……初めてのチューでわたしから行くのも、ちょっとはしたないもんね……うん、じゃあ……えっと……」
「ええい、しゃらくせぇ! 」
肩を引き寄せて唇を重ねる。
水嶋の身体がびくりと震えて強張った。
俺はなぜか心の中でカウントを始めていた。 ファーストキスは5秒、という、俺の中での謎ルールが発動したのだ。
いち……に……。
水嶋の身体からだらりと力が抜けて、触れ合った唇が急に柔らかくなる。
さん……よん……。
彼女の両手が俺の背中に回り、落ち着ける場所を探しているみたいに、のっそりと動いていた。
さん……さん……さん……よん……ご。
……ご。
顔を離す。
俺はもう、頭の中が真っ白だった。
「なんだ、この感情は……どうしてこんなに甘いんだ! 何も食べてないのに! 」
声が出てしまったかもしれない。
脳内物質がドバドバ出ているのがわかる。 顔を上げて、水嶋の状況を確認してみた。
……両手を頬に当てて下を向いている。
真っ赤な顔。 ただの林檎というより、その艶やかな肌は、まるでりんご飴みたいだった。
「なにか変化はあるか……? 入れ替わりの魔法、解けそうか? 」
俺は沈黙の間を埋めるように言葉を放った。 でも、もう自分で何を言ったか覚えていない。 そのくらい頭の中がふわふわして、夢を見ているみたいだ。
「……あつい……ゆ、茹だりそうだぁ……」
なるほど熱いか。 俺も心の底から熱い。煮えたぎっているし魂が完全に茹で上がって奥まで火が通っている。その魂を冷ますため、深呼吸をひとつ挟んで再び向き合う。
……水嶋はゆっくりと顔を上げ、どうしてだか、口元で指を一本立てた。
今日何度か見ている『ファック』の中指ではなく人差し指で、『静かに』みたいなジェスチャーみたいに見える。
「あ、えっと……あのぉ……」
潤んだ瞳が泳いでいる。 俺は息をのんで、次の言葉を待つ。
「も、もう一回……欲しいなぁ……? 」
本日2回目の雷が、俺の脳天に落ちた。
「みっ! みずしまぁぁぁー!! 」
「うっ、うわぁ! あれぇっ、押し倒す必要はないだろぉ!? んっ! こら、ちょ、ま、ドサクサでおっぱいを揉むなぁ、ばかぁ! 」
「何言ってんだバカヤロウこんにゃろうめ、男を……男を舐めるんじゃねーぞ水嶋ぁ! 今の俺はもう誰にも止められないぞ! 」
「ダメだって……こんな公衆の上空でぇ……! 」
「んなもん知るかぁ! 俺の心の導火線に火をつけたのはみずし……あっ」
「あっ! 」
暴走した俺をなんとか止めようとしている水嶋の左手が、青白い光の粒になって浮かび上がる。 俺の片側の指先も同様に霧散を始めた。
「くっ、くそぉぉぉっ! ちくしょぉお! 良いところだったのにっ……! 」
「それが告白を渋ってた男のセリフかぁ! 」
「あー水嶋、これきっと元の身体に戻るよな? すぐ行くから。 お前の家に迎えに行くから。 この続き頼むわ 」
「続き頼むわ、……じゃないよ! スカしてた癖に……急に童貞根性丸出しじゃんかぁ! 」
「お前だって、しょ……あれ? 処女だよな? 」
「非処女がキスくらいでこんなにドキドキするわけないだろぉ! 」
俺は煩悩と迫り来る眠気を振り払うように何度も自分の頭を殴った。
「慶ちゃん、やばい、一気にきた……眠気」
「うん、俺もだ……。 水嶋ごめん、つい我を忘れて……それと……」
「それと? 早くしないと……もう下半身も消えていくよ……」
「今までごめん。 気付かなくて……いや、気付かないフリしてて」
「アハハ……謝ることじゃないよ……これからもよろしくね、慶ちゃん。 あれ……? 泣いてるの……? 」
白く細い指が、鳥の巣みたいな俺の髪の毛に侵入してくる。左側頭部の髪を、くしゃ、と握られた。
「もう大丈夫だ。 必ず迎えにいくから……待ってて欲しい。 ちゃんと気持ちを……」
「あぁ……わたし……すでに嬉しくてぇ、涙が出ちゃいそう……」
水嶋の頬に伝う涙を拭いた。
その指も霧散していく。 意識が遠くなる。
「おやすみ……慶……ちゃ……」
「おやすみ、水嶋」




