『門限をキッチリ守ってそそくさと帰っていく方の田中』
メタナカに向かって飛びながら発煙筒を生成。 一瞬だけ振り返って水嶋に投げる。
「水嶋っ! 上空で救援信号上げてくれ! 頼んだぁ! 」
「なにこれぇ!?」
「発煙筒だっ、頼むっ! 」
「はっ、はいっ! 慶ちゃん気をつけて! 」
助かった、水嶋もこの異常事態を感じ取ってくれているようだ。
俺たちが実体へ戻らないということは、他のメンバーもまだ幽体離脱いる可能性がある。 その僅かな希望と、水嶋を逃す意味も込めての行動だった。
俺は今にも暴れ出しそうに震えているメタナカの目の前に立つ。
「田中くんのバカぁ! 」
上から水嶋の声とエメラルドグリーンの塗料が降ってきた。 メタナカがそれに気を取られて上げた顎に木刀を突き立てる。 すぐさま切り返し、交戦開始以来、初めて裏を取ることができた。 そのまま翼を両腕で抱え込んで締め上げる。
「なぁ田中くんやり過ぎだって! 現実への干渉はさすがにやり過ぎだよヤバイって。 マズイよほんとマズイ、ガチのポリスメン来ちゃうって」
驚きで完全に語彙が壊死しているが、それでも必死に語りかける。 レムは翼を抑えられたら飛行能力がバカになるのが定石だけど、このメタナカにはまるで効かないようで、俺を背負う形のまま再び田中くんの部屋に入っていく。 そうだ、外で暴れられるくらいなら自分の部屋を荒らしてもらった方がまだマシかもしれない。
メタナカは部屋で寝ている田中くんに覆い被さった。
「いやっ! だめっ! まだっ! ダメだっ! 田中くんにっ! 入っちゃっ! だめだっ!」
メタナカの真っ黒な頭を何度も何度も殴打する。 スイカ割りにボーナスステージがあったらこんな感じで打ち込むだろうけど、メタナカの頭がパカっと開くことはない。
身体をぶつけてなんとかベッドから落下させたのは良かったが、メタナカは苛立ちを隠そうともせず、部屋の壁を何度もぶん殴った。
【ゴン、バゴッ、ゴゴン、バゴッ!ゴン】
——狂気の田中。
……民家の窓をぶち割った時から、メタナカは現実に干渉している。 ありえなさ過ぎて現実感がまるでない。 じっとりと滲み出た汗にシャツが張り付いて気持ちが悪い。
「あ、慶ちゃ〜ん……ごめん、これどうやったら煙が出るのかなぁ……? 」
水嶋が天井から顔だけ覗かせていた。
「はぁ!? 発煙筒も使ったことないのかよ! 」
「えぇ!? んな理不尽な! 使ったことある女子高生の方が稀だろぉ!? 」
「あぁんもう! 蓋を外して先っぽを擦るんだよ! マッチみたいにシュッて。 シュッて! わかったか!? ほら見ろ! こう……シュッて! 」
立ち上がったメタナカがマスク型に残っていた装甲を自ら引き剥がすと、シューシュー、と不気味な音を立てて睨みつけてくる。 俺は木刀を持つ手に力を込めた。
「……あぁ、これか……。 もう! 先に言ってよね! ……メタナカに押されてるからって私に八つ当たりするなよなぁ! 」
「お、押されてねぇよ! ちょっと遊んでやってるだけだし……! 」
「子供みたいなこと言ってないで早く終わらせてよね! 」
「なんだとコラァ! 」
「ばか! 田中と相原バカ! 清涼高校でツートップのばか! 」
「うっ、うるせーっ! 使い方忘れないうちに早く発煙筒焚いてこいっつうんだよ!……あと、火力が意外に強いから気を付けろよな」
「そんな付け焼き刃の優しさでチャラになると思うなよっ!」
水嶋が中指を立てて引っ込んでいった。
「ミズ……シマ……サン……? 」
メタナカが天井を見上げて呟いた。
もうそこには居ない水嶋の声が届いていたのだ。
「なぁ田中くん……目を覚ませ! レムなんかに魂を委ねるな!! 」
「タマ……シイ……ミズシマ……ユーリ……サン……ウヴ……ウグゥ! 」
次の瞬間、メタナカは散らかった学習机の上を両手で一掃した。 机に拳を打ち付け、壁を蹴り、本棚の中にあるものを掻き出すように荒らし始める。
「やめろ! 落ち着け、落ち着くんだっ」
止めようと後ろから羽交い締めにしても全く効果がない。 ……俺は暴れるメタナカに振り回されながら考えていた。
——田中という苗字の人間が学年に三人いる。
この田中兼くんは、その中でもっとも普通の田中くんだ。 本当におとなしくて、人畜無害で、好かれている訳でも嫌われているわけでもない空気のような存在で、その周囲からの印象というのはおそらく俺と近いものがある。
その他二人の田中がギャル女とサッカー部のキーパーという、わりと校内でもブイブイ言わせてるタイプの田中であることも影響してか、『もっとも静かな田中』と評されているのを聞いたことがあるくらいだ。
……その『もっとも静かな田中』が今、『幽界の法則を乱す田中』として俺の目の前に立ちはだかっている。
対処法もわからないまま、この田中くんの動きに合わせて最善の手を打ち続けなくてはならない絶望感。 俺はどうしたらいいのだろう。
【ガチャ】
「キャアァァァ! ポルターガイストゥゥゥ!」
あっ、これ田中くんのママだ! 田中くんのママが部屋に突入してきちゃった!
「兼ちゃん、ケンちゃん、起きてっ。 起きてぇぇえ! 」
金切り声を上げ、ベッドサイドに駆け寄って田中くんを起こそうとするママ。
メタナカは気にする様子もなく暴れ続ける。 部屋の中は荒れ果てていて、壁にも何箇所か穴が開いているし、本棚にしまってあった本は散乱し、今はアイドルのポスターを引き裂いているところだ。 ママからはまさにポルターガイストの真っ只中で、地獄絵図に映っている事だろう。
「ケンちゃん……ケンちゃんなんで起きないのぉぉお!ケンチャァァァァ! 」
東京で最もうるせぇ田中がここで乱入してくるとはな。 しかしこのままじゃマズイ。 休日の早朝にポルターガイスト現象に襲われつつも深い眠りから覚めない我が子を見たら誰だって救急車を呼ぶだろう。
「救急車ぁ……誰かぁ! 救急車呼んでぇぇえ! ケンチャン起きないのぉぉ」
やっぱりか、自分で呼べよやかましいな。
慶ちゃん今、あんたのケンちゃんを救急隊員より適切な処置で救いたいと思ってるんだからさ。
「メタナカぁ……いい加減にしろよ……これ以上悲しむ人を増やすんじゃない」
後ろから木刀で首を絞め上げる。 心の底、いや魂の底から力が漲ってきて、メタナカの身体を浮かせるほどの力がこもった。
「ウオルァァァ! 」
メタナカを抱えて押し出すように窓から飛び出したけど、完全に現実干渉モードに入っていたせいで、派手に音を立てて窓が割れてしまった。
田中ママ視点では勝手に窓が外側に向かって弾け飛んだ訳だから、ポルターガイスト現象の警戒レベル9くらいの感じに映ったことだろう。
「あっ。 出てきた! おーい慶ちゃ〜ん、大丈夫〜? 見てぇ〜こっちはケムリいっぱい出てるよぉ〜」
燃え盛る発煙筒をブンブン振り回す水嶋が、そりゃもうとてつもなく楽しそうな笑顔で近づいてくる。 道の向こうからパトカーがサイレンを鳴らして走ってくるのが確認できた。 多分、さっきメタナカに窓を割られた民家の住人が110番したのだろう。
俺は鬼の形相のメタナカと向き合う。
距離、約3メートル。
「水嶋ぁ! 降らせてくれぇ! 」
ここで決めるっ!
「あっ? えっと、了解っ! 」
ターコイズブルーの雨が降り注ぐ。
メタナカが顔を顰める。
一瞬で間合いを詰めて木刀を振りかぶる。
「オッラぁぁぁああ!!」
呼吸の隙も与えないほど、メッタメタに打ち込みまくる。 頭を集中攻撃。 ただがむしゃらにボコす。 もう一本生成して二刀流でタコ殴りにする。 左のフトモモへの攻撃も欠かせない。
……俺は異変に気付いて攻撃の手を止めた。
相手に全く抵抗する気配がなかったからだ。 目の前のメタナカは戦意を失い、泣いているようだった。
いや、これはもうメタナカじゃない。 今は全ての装甲が剥がれ落ちて、真っ黒な田中くんになっている。
「カエリタイ……」
「えっ? 」
「帰リタイ……」
「……どこに? 」
「アッタカイワガミニカエリタイ」
「……え? なんて? 」
「暖カイ、ワガ身に、かえりタイ」
「暖かい我が身に帰りたい? 」
「ウン」
上から発煙筒が落ちてきたので、キャッチする。今はウォーターガンを撃つことに夢中になっているのだろう。 ちらりと上空を確認すると、水嶋はやはり、くるくると踊るように舞いながら、ウォーターガンの銃口を振って鮮やかな雨を降らせていた。
水遊びをする子供みたいに無邪気で愛らしい姿で、そのままずっと見ていたいくらいだった。
「だけど……その姿で身体に帰らせる訳にはいかないよ。 田中くん……」
絶え間なく降り注ぐ雨が、エメラルドグリーンに変わる。
けたたましく響いていたパトカーのサイレンが止まった。
……幻想的な心象風景みたいだ。
降り止まぬ鮮やかな雨の幕は、まるで俺と田中くんをこの世界から孤立させるみたいに、外界の情報を遮断していた。
ブラックタナカの悲しげな表情を注視する。 降り注ぐ塗料は色がミックスされて、今はカラフルになっていた。 水嶋はここにきてタンクを高速回転させながら撃つ新技を覚えたのだろう。
「田中くん……レムに委ねた魂を……取り戻すんだ! そして暖かい、自分だけの身体に帰ろう」
「タマシイヲ……とりモドス」
「そうだ。 怒りや悲しみを処理しきれないなら、俺と話そう。 こんな所じゃなくて……現実でとことん話してみよう。 たとえ分かり合えなくても俺たちはまず、それをしなくちゃならないんだと思う。 言葉を尽くして伝え合わなきゃいけないんだ……! 」
「……ゲホッ、ゴホッ」
「あ、ごめんケムいか! 」
俺は発煙筒を捨てた。
「伝え、アウ……」
話を仕切りなおしてくれた。
「うん。 俺もさ、向き合わなきゃいけない大切な気持ちがあるって気付いたんだ。 田中くんがまだ知らない熱い気持ちも、悲しい気持ちも、たくさん持ってるんだ。 それを伝えたいって思ってる。 同じ女の子を好きになった男として。 だから……」
いや、雨止まないなぁ……あいつ補充しながら撃ってるだろ絶対。 俺もブラック田中もアメリカのカラフルなグミみたいになってるよ。
「ダカラ……? 」
ブラタナがつぶらな瞳で俺を見据える。
「田中くん……いや、ケン。 俺と友達になってくれないか? 」
「トモダチ……」
雨が止んだ。
「そう、友達に」
「恋敵ノ、ニクい、クソヤロウと、トモダチニ……? 」
「おい、お前さてはもう普通に喋れるだろ」
ブラタナの胸に、不思議な色の球体が浮かび上がった。 炎のように優しくて、水のように澄んだ色。 とても滑らかで、温もりを感じる色。
形容しようとすると抽象的になってしまう。 もしかしたら幽体の世界じゃないと知覚できない色なのか、とにかく不思議な色彩だった。
直感で、俺はその球体に手を伸ばしてみた。 触れてみると驚くほど柔らかく、薄い膜に覆われたぬるい水のようだ。 例えるなら、そう、極限まで薄くしたゴムで作った水風船みたいだった。
破れてしまわないだろうか。 そう考えながらも、さらに深くへと指を潜り込ませる。 優しく手のひらで包み込んで一揉みする。
「ン…………ンッ、アッ」
ブラタナはシバき回したくなるくらい薄らキモい喘ぎ声をあげると、優しく微笑んだまま活動を停止した。 なんて不気味な光景なんだろうという思いと同時に、俺は自分の目から涙が溢れ出ている事に気付いた。
手には柔らかい球体だけが残り、田中くんを形作っていた黒は落下していく。
「……あのぅ……何やってるんですか? お兄さん」
水嶋が隣にいた。 慌てて袖で涙を拭う。
「あ、水嶋……どこから見てた? 」
「慶ちゃんが高校生の顔に戻るところから」
そう言われて、自分の顔を触ってみる。
「あれ……? 全然気付かなかった。 いつ戻ったんだろう?」
「田中くんが喘いだ瞬間」
「最悪のタイミングから見てたみたいだな」
「その手に持ってるのは何? 」
「これは……うん、田中くんだよ。 よかったら水嶋も……撫でてやってくれないか……? 」
「何をどうしたらそうなるねん。 絶対に嫌だよ。 ……あ」
手のひらに乗っていた球体が蠢き始めた。 俺たちの頭上に浮かび上がると、外側の膜が徐々に拡がり、不思議な球体は次第に田中くんの形へと膨張していく。
「水嶋、ごらん……。 今俺たちは、新しい田中くんの誕生に立ち会っているんだよ……」
「私がちょっと雨降らせてる間に、何故こんなにもノリにズレが生じてしまったの」
完全に田中くんのフォルムを再現したそれは、仰向けの状態で、頭頂部からじわじわと着色されていく。 田中くん本来の魂が形作る幽体に変化しているのだ。 きっと。
「あ、タンクトップ」
田中くんの幽体は陸上部のユニフォーム姿だった。 ゼッケンに「清南中」とあるので、それが彼の全盛期の姿、魂が取り戻したいと思っている過去の姿なのだろう。
足先まで色付いた田中くんは仰向けのまま、飛空挺から落ちてきた美しい少女みたいにゆっくりと目の前に降りてくる。
俺は抱きかかえるようにして、彼をしっかりと受け止めてあげた。
「慶ちゃん、慶ちゃんてば 」
「……どうした? 水嶋」
「周りの音が遮断されるほど田中くんに夢中にならないでよ」
「……なにかあったのか? 」
「……なんて朗らかな表情なんだろうなぁ。 下見なよ、下」
田中家の前の道路には数台のパトカーと原付バイク。 救急車からヘルメットを着用した隊員が担架を持って道路を横切っていた。 周辺にはそれらの緊急車両から放たれる赤色灯が縦横無尽に踊っており、さながらライブハウスの照明みたいだ。 集まった野次馬たちが道を塞いでいる。
「まったく……騒ぎ立てるのが好きだな、人間ってやつは……」
『ケンちゃんが、ケンちゃんが起きないんですぅぅ! ケンちゃんがぁ! 』
『奥さん落ち着いて、大丈夫ですから、落ち着いてお話をしてください! 』
「とんでもない大ごとになってます、隊長」
「案ずるな水嶋……明けない夜はない。 ……な? 田中くん」
腕の中の田中くんが目を覚ました。
「あ、相原……か? こ、ここは……!? 」
「ここは夢の中だよ、田中くん。 いや……ケン」
「何故僕は君に抱きかかえられているんだ……? 」
「嫌か? ケン」
「……不思議だな。 ちっとも嫌ではないよ。とても穏やかな気持ちさ……」
「そうだろう? 悪夢は終わったのさ」
「なに見せられてんだろなぁ……わたし。 もう勝手にやっててよ」
「……み、水嶋さん!? 」
田中くんは飛び起きんばかりに大声を上げたが、その勢いとは裏腹に、頭を起こして水嶋に視線を送るだけだった。 あれだけ暴れたのだ、彼の幽体は相当疲労しているはず。 目もずっと半開きだし、全然力が入らないみたいだった。
「……夢でも一緒なのか、君たちは……ハハ、まいったね。 ……あぁ、なんだか酷く疲れたよ」
「……俺もさ、ケン」
「いや私もだからね? 」
「あんなに殺してやりたかった君が目の前にいるのに……どうしてこんなに穏やかでいられるんだろう、僕は」
現実の田中くんを乗せた担架が田中家から出てきて、複数の隊員に囲まれながら救急車へと運ばれていた。 田中ママは担架の上にいる息子に必死で呼びかけていて、野次馬たちがどよめいている。 ママがそのまま流れで救急車乗り込んでくれたので静かになった。
「ん……? ママの声が聞こえた気がする……うるさいんだよ、うちのママ」
「気のせいだよ。 君のママの声なんて少しも聞こえなかった。 な? 水嶋」
「いや? 普通に泣き叫んでましたけど」
「なぁ、ケン。 学校でゆっくり話そう。 悪夢はもう終わったから……暖かい自分の身体にお帰り」
「うん……なんだか……とても眠いんだ……夢の中なのに……不思議だよ」
「ケン……」
「あい……はら……」
綺麗な田中くんは側頭部から光の粒となって、救急車が走り出した方向へサラサラと流れていく。 それは夜空にかかる天の川のように、ゆらりゆらりと波を打ち、この残酷で不条理な世界に、儚くも美しい軌跡を描いていた。
「とっても綺麗な田中くんだね……」
「あぁ。 目に焼き付けておけよ。 こんなに綺麗な田中くんは二度と拝めないぞ」
「やかましいよ。 そろそろテンション戻してよね」
「悪い、つい気持ちが入っちまった」
「入り過ぎだよ。 で、あれはどうするの? 」
抜け殻になった方の黒い田中くんが、道路に白い文字で書いてある『止まれ』の『ま』上に横たわっていた。
「まだ止まるわけにはいかねぇんだよ……」
「はい? なにが? 」




