こんなにも美しい銀色の翼を見たことがあるか?
「水嶋ぁ〜! 待てコラァ! 」
上空を飛んでいく水嶋の背中が見える。低い所を移動しないのは田中レムへの方向がわからなくなってしまうからだろう。 もし隠れられても目的地が決まってる分、俺の有利は変わらない。
大丈夫そうだ、この距離なら田中レムに辿り着く前に余裕で捕まえられる。 水嶋は煙幕のつもりなのかちょいちょい振り返ってウォーターガンを撃ってくるが、桃乃介の居合い斬りを交えて華麗に回避していく。
「ぐぇ」
「捕まえたぞ」
襟首を掴んで引き寄せ、がっしりとホールドした。
「は、離せっ! 本当に田中くんか確認しに行くんだ私は! 」
「落ち着け水嶋! わかった、わかったから! 」
水嶋の幽体が脱力したのを確認して、俺も拘束していた腕の力を抜く。 彼女の言う通り、もしもあの田中くんが、俺の潜在意識が見せた『幻の田中』あるいは『幻影の兼』だとしたら。
その説を聞いてから俺自身、あの時見たレムの顔が本当に田中くんだったのか自信がなくなってきていた。
まずは遠巻きに、見つからないよう近づくこと。 どんな事があっても姿を見せたりせず、何かの拍子に見つかってしまった場合は全力で逃走する事。 それらを水嶋に誓わせた上で、俺たちはあのレムに接近する事を決めた。
「というかさ、慶ちゃん。 もうリミットってやつじゃないの? ちょっと明るくなってきちゃったよ? 」
「それも問題なんだよ。 どうしてまだ肉体に戻らないんだろう」
さっきの場所まで戻ってきた。 田中くん風のレムが居た通りの裏手だ。 俺たちは少し上昇して、民家の屋根に這うようにして顔を覗かせ、一本道を見下ろす。
「うわ、うわー。 このアングルからでもわかる、髪型も横顔も田中くんだ」
「だろ? だろ!? あと水嶋、もうちょい声のトーンを下げた方がいい」
黙って水嶋が頷く。 田中くん風レムは、もうストレッチをしていなかった。 地べたに座り込むような形で、小刻みに右足を揺らしている。 その動作は苛立っている人間の貧乏ゆすりそのものだ。
「気持ち悪いな、レムの癖に……まるで人間だ」
「何かを……待ってるのかな……? 」
田中くんが大きく息を吸い込んだ。
両手を広げて、目一杯。 そして。
「ンア゛ーーーーー!!」
咆哮。 絶叫。
体の芯に響く程の轟音。
苦悶の表情の水嶋。
俺は左手で片耳を塞ぐ。
右手は桃乃介を握る事を選択した。
「やば……何これ」
「右耳やられた、ヤバイな」
パトカーや救急車のサイレンの比じゃない。 田中くんの発した声は『ピーポーピーポー』なんて生易しいものではなく、『ア゛ーイ゛ーハ゛ーラ゛ー! 』だった。
おそらくはどこぞの「あいばらくん」をご指名なのだろう。 これほど自分の苗字に濁点がないことに感謝した日はない。
「あ、相原さんご指名入りました〜……」
「押すな! 押すなばか! そういうの今は本当に要らな……おい、いい加減にし……」
「あひっ! 」
突然、裏返った声を上げて、俺の腕にしがみついてくる。
「どうした? 大丈夫だよ! 隙を見て……ん? 」
小さなレムの幼生が3匹、俺たちの足元を通り過ぎて、田中くんのいる道路に飛び込んでいった。 更にそのあとを続々と追いかけていくレムが多数。 俺たちを警戒する様子などは微塵もなく、屋根の傾斜をジャンプ台がわりにして、次々と道路の方へダイブしていく。
「何なんだよ……こいつら」
「慶ちゃん見て! 向こうも……」
「くそっ、何が起きてんだよ……! 何が始まるんだ! 」
全方位から周囲のレムが集まってくると、あっという間に道路は小さな幼生の群れで埋め尽くされた。 そしてその先には……田中くん風レム。 片膝を立てて道路の真ん中に鎮座する様は、群衆を前にした王の風格を湛えていた。
「幼生だけ……100匹じゃ効かないだろ、この数……」
「司るの……? ねぇ! 田中くんがこのレムの群れを司るの!? 」
「おい、あいつらから視線を切るな水嶋……! いいか、ここから何が起きても……俺の声だけを信じろ……! 」
「やだ、慶ちゃんカッコイイ……! 」
道路に出た幼生達が、ひしめき合いながら田中くんに近づいていく。
「田中くん……レムを選んでる? 」
最前列の端からじろじろと眺めていった田中くんは、その中で一体のレムに目を留めた。 そのレムを掴み上げ、全体をくまなく凝視する。 ……配色を確認しているのか?
水嶋には多分わからないけど、田中くんが掴んだのは明らかに発色の悪いレムだ、他の個体に比べて曇った色が強い。
——え?
「た、た、食べてる! 食べてる食べてる! 田中くんがレムを食べてるよ! 」
水嶋の声のボリュームが大きくなったので、口を塞いで、人差し指を自分の唇に添える。 彼女は俺のジェスチャーを見て何度も頷いた。
「な、なに!? レムってあんな大福みたいな感覚で食べれるものなの!? あれは共食いなの!? 融合して巨大化するの!? 」
「……水嶋、ヒートアップするのも無理はないけどな、尻上がりに声が大きくなるのは本当に何とかしろ。 あとな、今の俺にあまり質問をするな」
「……おっとぉ? もしかして臨戦態勢ですか隊長ぉ! 」
「ううん違うよ……頭の中ぐちゃぐちゃで……もう壊れちゃうよぉ……」
「ウソォ!? 気をしっかり持って! 泣いたって何も解決しないよ! 」
揺さぶられることで脳がシャッフルされ、我に返った。 水嶋の的確な応急処置のお陰で戻ってくることができたが、ほんの一瞬だけ門外不出の人格が裸足で駆け出してしまったようだ。
「まさか水嶋の言う通り、本当に巨大化するのか……?田中くん」
「あ、手が止まった」
田中くんは腰に手を当てて、味わうようにモグモグと咀嚼している。 最後に口に放り込んだレムを嚥下すると、腕を組んで、少し首を傾げたまま動きを止めた。
「何か手に持った。 なんだろうあれ、ボーリングのピン……にしては小さいか」
「水嶋、あれが見えないのか? 」
「……何を持ってるの? 」
「マヨネーズだよ」
「マヨ……え、まさか……」
「そのまさかさ。 田中の野郎、味に飽きたんだ」
「……あ、味を変えて……? そんな、フードファイターみたいな事……」
マヨネーズで味を整えつつレムを食べまくる田中くんからは目が離せない。彼の一挙手一投足に集中しながら、俺は右手にケチャップを生成して水嶋に手渡した。
「……え? これ渡されてどうすればいいの私」
「水嶋、そのケチャップを舐めてみな……」
「………………何これ、マズっ!ケチャップ不味いと思ったの生まれて初めてだよ」
「俺が何を言いたいかわかるか……?」
「皆目見当がつかんです、隊長」
「調味料の生成は難易度が高い」
「知らんがな」
レムの身体に目、幽界物質を自在に生成できる幽体の特性も兼ね備えている。 俺に対する強い怒り、水嶋に注いでいた熱い想い、それが届かずに転じた深い悲しみ。 それが今の姿になって発露したと考えるべきなのだろうけど、だとしたら何が目的なんだろう? レムの幼生を食って何の意味があるのか。 どんな効果が齎されるのか。
「よし、ちょっと付いてきてくれ」
俺は水嶋を連れてコンクリの家に飛んだ。 見つからないよう裏から回り込み、ある程度予測をつけて二階から侵入する。 見かけ通り建物内も相当に広いが、その部屋はすぐに見つかった。 そこは角部屋で、ほんの少し開いたカーテンの隙間から、レムのマヨネーズ和えを食す田中くんの姿が見える位置だ。
「慶ちゃん、もしかしてここって……」
予想は的中して、ベッドの上には本物の田中くんが眠っていた。 悪い夢でも見ているのか、口をモゴモゴさせてうなされている。
……それにしても、田中くんのイメージとは裏腹に、とても綺麗で落ち着いた部屋だ。 整理整頓されているし、そもそも物量が少ないように思える。 でも俺の家を基準にしたら、どこの家もそうなのかもしれない。
「慶ちゃん、田中くん泣いてたのかな? 寝顔が……」
「うん」
水嶋は窓際の、彼が眠るベッドの上に浮いて、顔を覗き込んでいる。 俺は本棚の一区画を利用して飾られた小さなトロフィーに見入っていた。 その隣には、幼い田中くんがゼッケンを付けて、そのトロフィーを掲げている写真が飾られてある。
「ねぇ、カーテンの隙間からちょうど田中くんが見えるよ。 あ、あっちの田中くんね」
「うん」
「七色の方ね。 レムケン・タナカの方ね」
「うん」
「……あれ? 私の話、聞いてる?」
「うん」
「……明日って晴れ? くもり? 」
「うん」
「……………………。 」
「……………………。 」
「……ねぇ、慶ちゃんのペニスってさ」
「うん」
「少し右に傾いてるよね」
「いや左だろ?」
「聞いてるんかい!」
俺は、勉強机の上に広げられていたものに釘付けになっていた。
——水嶋の写真だ。
一度握り潰したものを再び広げたのだろう、その写真には細かい折り目が沢山ついていた。
口を開いて笑っている、可愛らしい水嶋の横顔。 少しブレているし、画質が粗いけど、背景を見ればすぐにわかる。 これは俺たちの教室で……その笑顔の先に居るのは多分、隣の席に座っている俺だ。
「……ねぇどうしたの? 」
勉強机を幽体で遮る。
「え。 あ、いや、なんでもない」
田中くんの想い。 あの時保健室で2人きりになったときは、あまりに直球すぎて滑稽に感じてしまった。 心の中で、どこか嘲るように処理していた。 純粋で不器用で、一点の曇りもない綺麗な感情。
——僕はね水嶋さん。 君が好きなんだよ。 あの日から、ずっと。
田中くんの言葉が色を変えて蘇ってくる。
俺に足りないものを、俺が気付かなくちゃいけない大切な気持ちを、一番最初に見せてくれていたのは彼だったんだ。
「……水嶋。 田中くんと仲良いのか? 」
「え? 仲が良いというか……一年生の時、同じクラスだったから」
「……隣の席か」
「あれ? なんでわかるの? 一時期ね、隣の席で、よく漫画とかの話で盛り上がったんだよねぇ。 あと、文化祭委員も一緒だった。 まぁ……離れてからは話す機会もなくなっちゃったけど」
俺は卑怯者だ。 心を開く勇気も懐に飛び込んでいく勇気もない癖に、入れ替わりとか幽体離脱なんて状況で強引に活路を見出して。 そんなんでいいのか? いい訳ない! そんな事は最初からわかってる!
「俺はやるぞ田中くん……いや、田中兼! 」
「どっちでもいいでしょ」
あっちの田中くんが移動したのか、水嶋は壁から上半身だけを外に突き出しているようだ。 案の定、カーテンの隙間から田中くんの姿は確認できない。
「水嶋、俺は最後の戦いに出る。 無事に戻れたら……お前に伝えたいことが沢山あるんだ」
「え? 死ぬの? 唐突に変なフラグ立てないでよ。 それよりも、あっちの田中くんに変化があった」
「やっぱ巨大化したか? 」
「巨大化ならどんなに良かったかって。 見て。 私、足が震えてる」
「生まれたての子鹿みたいだな……」
「本当にヤバそう。めちゃくちゃ怖い」
「……どれ」
隣に並んで、顔だけを外に出す。
あれだけ集まっていたレムの幼生が今は1匹もいない。
道路の真ん中には、街灯の明かりを乱反射する田中くんが仁王立ちしていた。
「なんでメタリックになるんだよぉぉ! 」
「声がデカイよ慶ちゃぁん! 」
「ア゛イ゛ヴァ ラ゛ー! 」
全身にメッキ加工が施された田中くんが叫ぶ。 俺の脳は瞬時に新品のスプーンと『メタルタナカ』というワードを連想した。 次いで、全身の細胞が桃乃介の抜刀命令に従う。
俺を睨んでいたメタルタナカは『クラウチング・スタート』の体勢を整えると、背中に大きな翼を広げる。
——それは未だかつて見たことのないほど、巨大で美しい銀色の翼だった。




