『野ウサギの体毛に覆われたメバチマグロの怪』
「レム……なの? あれ……。 レムだよね……? なんか、キモ……」
水嶋の疑問は尤もだった。
人ならざるもの。 そもそも人ではない事が分かりきっているレムに対し、どうしてそんな表現が思い浮かんだのか。
——それが、人の形をしていたからだ。
気味が悪い。 全身の鳥肌がスタンディングオベーションで生理的嫌悪を警告している。 隣の水嶋も同じ気持ちなのか、肩を竦め、両腕を抱えて低く唸った。
長い間、毎日の習慣みたいにレムを殺し続けてきたけど、こんなに気味の悪い個体に出会ったのは初めてだったし、聞いたこともない。 何しろ身震いが止まらないほどキモい。 強そうとか、迫力があるとか、そういう類の恐怖ではなく、幽霊とか妖怪だとか、理解が及ばない系の恐ろしさだ。
「何やってんだ……あれ」
「ストレッチしてるよ慶ちゃん。 道路の真ん中で……」
「何なんだ……なんで人型のレムが道路の真ん中でストレッチを……」
「いやいや、仮にもあなたプロでしょう? どうすればいいの? 逃げる? 倒せそう? 」
「……まいった、皆目見当がつかねぇや」
「プロライセンス返納しなよ」
ストレッチをしている異様な人型の周囲に目を凝らす。 すぐ右手に大きな箱型の家が見えた。 あれがナルセの言っていた「コンクリ打ちっぱなしの家」かもしれない。 確かに目立つし、周りに似たような家はなく、個性的な外観に見えた。
「ちょっと近づいてみるか……? どっちにしろもうすぐリミットだ」
水嶋が眉を下げて頷く。 俺たちは見つからないように、一本外れた通りに移って慎重に近づいていった。
「なんか気持ち悪いなぁ。 エイリアンとか、すんごい化け物チックな外見なら怖くないのに……人型だと逆に怖い。 なんだろうこの心理」
「わかるよ。 というか、俺の方がその心理が働いてると思う。 ストレッチしてるのが本当に怖いよ。 準備運動なのか? なんだあれ」
まだそこまで離れていないはずの紫苑さん達を呼び戻すか……? それもアリだけど、どうせリミットが近い。下手に刺激せずに明日に持ち越した方が安全だ。
「ねぇ慶ちゃん。 怪物みたいな強敵って何回か変身するでしょ? 最終的に一番強い形態がすっごいシンプルな人型だったりするじゃない? あんな感じの恐怖感がある」
「うまいな。 ちょっとわかる気がする」
目標にしていた、箱のような家の裏手まで辿り着いた。 建物を突っ切っても良かったけど、隣家との間を通り抜けることにする。 あの人型がストレッチをしている道路は目の前にあり、少しだけ顔を覗かせればその姿を至近距離で拝める間合いだ。
「俺が先に見るぞ」
「任せる。 嫌な予感がするよ」
余程不気味に感じているのか、水嶋が尻込みしているのが新鮮だった。
……大きく息を吸い、吐く。 そして止める。 恐るおそる、人型のいる道を覗き込む。
……アキレス腱を伸ばしている。
ここから見えるのは背面だ。 執拗に左足首のアキレス腱を伸ばす人型のレム。
……音が聞こえてくる。 篭った音声で、なにやらブツブツと……まさかとは思うが、独り言か? いや、レムが言葉なんて喋るわけがない。 色彩も妙だ、暗い色の比率が強すぎる。 明度の高い色は、左肩から右の腰付近まで斜めに走る山吹色だけ。 その色が襷のように体表を直線的に走っているのも不自然だ。
呼吸を止めていたことを思い出し、空気をわずかに取り込んだ瞬間、その人型がターンしてこちらを向いた。
「あ。 ……えぇっ!? 」
「えっ! なにっ、どうしたのっ!? 」
慌てて水嶋の口を塞ぐ。 思わず声を上げてしまった、気付かれたか!?
驚いた表情の水嶋を抱きかかえ、最高速でその場から離脱。 紫苑さんとナルセが去っていった祥雲寺方向へ切り返す。 すぐに振り返ったが、まだ人型が追ってくる様子はなかった。
「どうしたの慶ちゃん! 」
振り返った人型レムの顔、その造形。
見慣れた男が校庭を全速力で駆け抜けていく背中が、記憶の片隅に蘇る。
——もしかして俺はとんでもない勘違いを……!
「水嶋うしろ見ててうしろ! 来てるか!? 変なの来てるか!? 」
「え、後ろ? 来てないよ! どうしたの! 」
「たなかくんっ! 」
「え、なに聞こえないよぅ! スピード落として! 」
「たなかけんっ! 」
「ちょっと落ち着いて! なんだったのあれ! 追いかけてきてないから! 」
——田中兼。 俺たちが入れ替わった時、牡蠣による食あたりで非常事態に陥り、大地を揺るがすかのように震えていた男。 水嶋優羽凛を愛し、相原慶太を憎む男。
ただの幽体離脱ならまだ受け入れられたが、あんな姿で来られたら……
「慶ちゃん、震えてる……」
「おぞましい、おぞましい……!」
「ねぇ、降りよう! 一回落ち着こうよ! おぞましいなんて単語、日常で聞いたことないよ私」
水嶋に言われるままに、黄色い看板のコインパーキングに駐車されている乗用車の中へ身を隠した。 まだ動悸がおさまらない。
「ちょっと詳しく説明してよ」
助手席の水嶋が迫ってくる。
「……質感と色は……確実にレムだった。 ただ……フォルムが完全に田中くんだ。 同じクラスの田中兼」
「えぇ!? うちのクラスの? あの陸上部の田中くん? 」
「そうだ。 あれはただの人形じゃない。 田中くんの形をしたレムだ」
「ええっと……田中くんそのものが幽体離脱してた訳じゃないんだよね? 田中くんを兼ねたレム……タナカ兼、レムって事……? 」
「そう、田中ケン兼、レムって事だ……」
「紛らわし……それは間違いないの? 」
「間違いない! あれは田中兼のフォルムだ! 髪型まで完全再現されてた、それどころか輪郭や顔面のパーツまで……」
「落ち着いて慶ちゃん。 つまり、レムの顔面の凹凸が田中くんの目とか鼻とか口の形で構成されていたってことね? 」
「あぁ……。 でも、目だけはレムだった。 田中くんの顔面に、レムの幼生みたいなぎょろりとした瞳が二つ浮いていた」
「な、なんておぞましいの……」
しばらく車内は無言になり、謎の焦燥感に襲われる俺を静寂が包んだ。 大丈夫、大丈夫だ。 あのレム風の田中がアキレス腱を伸ばしながら呟いていた言葉が『アイハラ、コロス』だったような気がしなくもないけど、ここでじっとリミットを待てばいい。
戦えば倒せるかもしれない。 いや、十中八九仕留めることが出来るだろう。 俺が単独で倒せないレムなんてこれまでもいなかった。
ただ……倒せたとして、その後になにが起こる? 祥雲寺の幽体達に意見を仰ぎたい。 出来ればベテランと情報を共有して対策を練りたい。
「羽根は? その田中くんに羽根は生えてたの? 」
羽根。 そうだ、失念していた。 レムであれば羽根の有無は戦闘力に関わる重要な指標になる。 そんなことに頭が回らないほど混乱してたのか、俺は。
「……生えてなかった。 全裸の田中くんだ」
田中風レムの背面は目に焼き付いている。 完全に人間のそれで、羽根はなかったが、くっきりと肩甲骨やお尻の輪郭が浮かんでいた。
「う〜ん、どうなんだろう。 本当に田中くんだった? 」
「どういう意味だ? 」
「慶ちゃんの深層心理が、田中くんの幻を見せていたのかもしれないよ」
「幻の……田中……? 」
「ほら、夜道でなんか怖いな〜気味悪いなぁ〜って思ってると、壁の汚れが人に見えたり、風の音が人の悲鳴に聞こえたりするじゃない。 それと同じでさ。 なんとなく田中くんに見えちゃったんじゃないの? 」
「……仮にそうだとしたら、俺の潜在意識の中にはずっと田中くんが住み着いてたってことか……? 『幻の田中』 を表層意識が捏造してしまうほど……? いや! そんなはずはない! 」
「それと、私があれを怖がるのはわかるのよ。 どうして慶ちゃんがそんなにビクビクしてるの? ずーっとレムに対しては強気だったよね? いつもポケーっとしてる癖に、ここぞとばかりにキリッ、みたいな」
この女……気楽な立場を良いことに俺を煽ってるのか? そんなもんにビビってんなよと、戦ってみろよと? あの寒気がするほど薄気味悪い存在と正面から戦えと言ってるのか……?
「ハハッ! あのなぁ……よく聞けよ水嶋。 例えばお前が猟師だとするよ。 猟銃持ってな、野うさぎとか鹿とか撃つぞー、なんて言って意気揚々と山に分け入っていく訳だ。 そんな時にな、全身に野ウサギの毛が生えたマグロが目の前に現れたらどうする? モフモフの毛皮なのに形はゴリゴリのメバチマグロなんだよ。 しかもそのメバチマグロからは……」
「ちょ、ちょい待って、早口で追いつけないよ! 『想像してみろ』系はゆっくりしゃべってもらわないと……それにこの状況なんだからもっと端的に……」
「ゆっくり喋ってるだろ! それからな、想像力のない奴には『想像してみろ』以外に効く薬はないんだよ」
「こ、この……! 言いたい放題か……! 」
「続けるぞ。 そのメバチマグロからはスネ毛の生えた成人男性の足がスラッと伸びているんだ。 挙げ句の果てにはちっちゃーい声で『ミズシマ、コロス、ミズシマ、コロス』とか呟いてる。 どうだ? そいつ目の前にしてお前は猟銃で撃つか? 撃たねぇよなぁ? あぁ!? 」
俺の怒涛のマシンガントークに水嶋は目を伏せている。 小さな声で、「あぁ……ブーストかかると全然追いつけないよぅ……」と呟くのがやっとみたいだ。
もう一押しして、この状況の危険度を胸に刻み込んでやらなくてはならない。
「山の祟りだと思うだろ? 誰かの怨念が前日の夜に食ったメバチマグロの姿を借りて現れたとか考えちゃうよな。 不用意に撃ったら祟られるだけだよそんなバケモンは。 たとえ祟りなんかじゃなくても、『なんだこの初めて見る獣、変な病原菌とか持ってるんじゃないだろうか』とか脳裏をよぎって狩るの躊躇うだろ。 すぐに山を降りてベテランのマタギに『こんな獣が出たんですよ〜、あれって撃って良かったんですかねぇ? 』とかってお伺い立てたくなるだろ。 以上があの田中くんを見た俺の心情だよ! 」
完膚無きまでに圧倒したな、思いは十二分に伝わったはず。 俺は同意を求めるよう、片方の口角を釣り上げて助手席に顔を向けた。
……隣の水嶋さんは、既にそこには居なかった。




