幼女とシゲオとレムについての考察
「おぉ……! み、見えるのか……? 俺がわかるか……?」
ベッドの上の少女は長い髪の毛が乱れるのを気にも留めず、ぶんぶんと首を横に振った。
「あぁ、髪が……。 髪の毛が口に」
シゲオさんはまた、孫娘の乱れた髪に手を伸ばして整えようとする。 しかし当然、実体に触れられるはずもない。 一体どうなっているのだろう。
この子には本当に幽体の声が聞こえているのか。 それともただ寝ぼけているだけなのか。 俺たちがこの部屋で話している間に物音などはしなかったし、階下の夫婦も静かなものだったはず。
「もしかして、こっちの声が聞こえてるのかな……? 」
水嶋も同じ気持ちだったのか、驚いた表情を向けてくる。 俺は眉根を寄せて首を捻り、「わからない」のジェスチャーを送った。
すると水嶋はなぜかコクリと頷いてベッドに近付いていき、少女の耳元に顔を寄せて『イソフラボン! イソフラボーン! 』 と大声で叫んだ。
「……私のイソフラボンは届かないみたい! 」
少女は水嶋のイソフラボンに全く反応を示さず、シゲオさんの浮いているを方向を上目遣いでじっと睨んでいた。
……なるほど。 水嶋のイソフラボンが届かないとなると、残すカードは俺のポリフェノールだけか。 情けないが水嶋のイソフラボンが届かない程の相手であれば、俺の拙いポリフェノールなんて到底通用しないだろう。 まぁ、ともかく俺は水嶋を完全に無視することにした。
「いえやすいえただいえみついえつな……」
少女の耳元で徳川の歴代将軍を順に唱え始めた水嶋を羽交い締めにして口を塞ぐ。 そしてシゲオさんと孫娘を見守った。
「……おう、あー、ぶっ倒れたおじいちゃんだ。 わかるか……? えー、あれだ。 じいちゃんな、もう瀬戸際だから、生きてるうちにお見舞いに来て欲しいんだなぁ? 聞こえるか……? 」
シゲオさんがじりじりと顔を近付いていく。 ベッドの上の少女は抱えていた枕を脇に置くと、首を前に突き出し、シゲオさんのいる正面に左耳を向けた。 まるで、小さな音を拾いに行くような動作だ。 声は微かに聞こえる程度で、内容までは聞き取れないのか?
「瀬戸際さん、その子の名前……聞いてみたらどうです? 」
「そうだよシゲちゃん。 実は気になってたんだよ」
「な、名前かっ。 そ、そうだな……名前か、うん、そうするか」
無茶苦茶に動揺している。 正直、俺も動揺具合でいうとドッコイくらいの感じになっているだろう。 こんな経験はもちろん始めてだし、幽体が実体に干渉できるとなれば大変な話で、幽現不干渉の理が根本から覆されてしまうことになる。
シゲオさんは、どう見ても感動に打ち震えている様子だった。 瞼に涙を浮かべ、胸の前に構えた両手は小刻みに微動し、喉仏が上下するのがはっきり見て取れた。 俺たちはその様子に釘付けになり、きゅ、と口を結び呼吸を止める。
「お……おじいちゃんに……じぃじに……お名前を教えてくれるか……? 」
「……マッッ!! ママァァぁぁアーー!! 」
少女は絶叫し、全力で枕を放り投げ、疾風怒濤の勢いで部屋から飛び出して行った。
扉の開閉音がけたたましく響く。 どたどたと階段を駆け下りながら遠ざかっていく「ぁあぁぁぁ!! 」という悲痛な叫び声。 部屋に取り残された俺たちはもう、気まずくて目も合わせることができなかった。
沈黙。 静寂。 裸足で駆け出したくなる空気感。
階下から『オバケ、オバケぇ、オバケでたぁ、あーあぁーAh...! 』みたいな感じのリリックが聴こえてくる気がするけど、水嶋は目を伏せているし、シゲオさんは無我の境地に達しているし……ここは穏便に、俺の幻聴ということで処理しておくことにする。
「まぁ……なんだ」
ピンクを基調とした子供部屋の虚しい静寂に一石を投じたのは、意外にもシゲオさんだった。
「そういう訳でな」
ど、どういう訳で!?
まさか……なかったことにする感じかな?
いや、その方が俺たちも楽でいいな。
「え、待って。 どういう訳で? 」
俺がギリギリの所で堪えた言葉をあっさり口に出す水嶋さん。 なんだその取ってつけたような神妙な面持ちは。 ダメだ、この場で唯一空気を読める俺がフォローを入れて差し上げないと。
「で、でもよく考えたらそうですよね! シゲオさん、お孫さんと喋ったこともないんでしょう? 年端もいかない子供が枕元で変な声に名前聞かれたら、そりゃあの子だって怪異かなんかだと……」
「うるっせぇっつうんだよ! ちょっと黙ってろや馬鹿野郎がっ! 」
「……あ、なんかすみません」
うっわぁびっくりした。 コイツ本能のままブチ切れてきやがった、俺の思いやりを真っ向から撃ち落としてきたぞ。 どんだけショックだったんだよ、普通に考えたらこうなるだろうよ。 ちょっと冷静さを取り戻してもらわないと。
「に、にしても……どうしてシゲオさんの声が届いたんですかね! 寝ぼけてたのかな? 結構な事件というか、さっきの現象は上に報告して……」
「ケイタって言ったな。 お前さっきから何を言ってるんだ」
「えっ? 」
「声が届いたって、なんの話だ? 」
「あ、だから、お孫さんがシゲオさんの言葉に反応してたじゃないですか」
「カナだかリナだかマナだか知らんが……あの子は……きっと悪い夢でも見たんだろうな……」
あっやべ、この人泣いてる! ダメだ、もうこれ以上現実を突きつけるのやめよう。
容姿も40代くらいだし元気過ぎて錯覚しがちだけど、この人の実体は死の淵でギリギリ踏み止まってるお爺ちゃんだ。 常人であればメンタルの方だってグズグズの豆腐みたいになっていてもおかしくない。
死期を悟って人生の最後に孫の顔を見に来たら、音声で脅かすタイプの怪異と勘違いされちゃった可哀想なお爺さん。 あの水嶋ですら複雑な表情でどうしたもんかと様子伺ってるしな。 うん。
「でも正直な話、本当に良かったよ。 最後にあの子の顔が見れて……。 まさか死ぬ前に幽体離脱とは思ってもみなかった。 こうして2人の若者の心にも、ナカヤマシゲオという男の存在を残せた訳だしな」
顔をくしゃくしゃにして笑い、握手を求めてくる。 シゲオさんはきっと誰かに話をしたかったんだろう。 孫の顔を拝んで密かに去っていくつもりだった世界で、言葉の通う俺たち2人の幽体が現れてしまったから、その気持ちを抑えることが出来なくなった。
たとえ慰めや共感が返ってこなくても、「相手の心に残すこと」自体に意味が、救いみたいなものがあったんじゃないかと思う。
俺は差し出された手を強く握る。 指の関節部分がやたらと隆起していて不思議な触感だった。 シゲオさんは俺の手を離し、水嶋の方へ飛んでいくと、同じように握手を交わした。
「シゲちゃんは何歳からレムを駆除してたの? 」
「ん? 何だ急に。 あー、中学に上がって間もなくだな。 今でも覚えてるが……夏休み前だった」
「時間がないから行こう、水嶋。 それにシゲオさんは……」
「ダメだよ、色々聞いとかなくちゃ。 シゲちゃんにも私たちにも不思議なことが起きてるんだから」
「……どうしたんだよ急に」
「なんだか慶ちゃんは、この世界のことを当たり前の日常のように捉えてるけど、私にとっては不思議だらけのファンタジーなんだよ」
「え? あ、まぁ……そうか」
「入れ替わりとか、私が幽体離脱したことに引っ張られて視野が狭くなってるのかな? シゲちゃんの言っている、25年振りの幽体離脱っていうのは不思議な事じゃないの? 」
「……うん、かなり不思議というか、初めて聞いた」
「普段だったら突っ込んで色々聞きたくなるでしょ? 」
「……たしかに」
「レムちゃんの異常発生は? よくある事ではないでしょ? 」
「ここまでの異常発生は一度もないな。 うん……」
「じゃあここはガンガン突っ込んでいきましょう。 そういう小さな異常の積み重ねが、この世界の構造とか入れ替わりの謎に迫る重要なヒントかもしれないんだから」
「……そうだな。 俺はちょっと盲目的になってた部分があるな……うん。 一回冷静に、心をフラットな状態にというか、お前は異常事態とか未知の世界に対してどんだけフラットかつ滑らかに脳みそ回転させてんだ? バケモンかおい。 ちょっとは乱されてみたらどうだ、リズムを。 ……人間としてのリズムをッッッ! 」
「シゲちゃんが駆除隊にいる時、レムが異常発生したことはある? 」
俺の流れるような美しいノリツッコミ、ノリとツッコミの境目がわからないほど滑らかなそれはフラットにスルーされた。 水嶋の人間としてのリズムを乱すには至らなかったようだ。
「なんだ、今日何かあったのか? ……異常発生……そうだな。 満月の夜とか、シーズンで言えば四、五月は相対的にレムが増えるってのはあるが……今も同じだろう? 」
「幽体離脱以外に、不思議な現象を聞いたり、体験したことは? 例えば……入れ替わりとか 」
「入れ替わり? 何が入れ替わるんだ? 」
心が、魂が他人の肉体と入れ替わる事だと俺が説明すると、シゲオさんは目を丸くして『そんな映画を知ってるが、現実で起きるものなのか』と眉をひそめた。 当然の反応だ。
シゲオさんのこれまでの話を信じるなら、少なくとも20年以上はレムの駆除に携わっていたはず。 その中でも、入れ替わりなんて事態は起きなかったということ。
「レムって一体何なのかなぁ? 何か知ってる? 」
水嶋の問いに、今度は声を上げて笑う。
「難しい事を聞くなぁおい。 人間とは何か、なんて聞かれたらお前だって困るだろう? ……あぁ、でも話してたら思い出してきた。 メンバーの中にはレムを神様だと崇める奴もいたよ」
「神さま……? 」
「人間の暗い感情を食べる事で、悪魔と化してしまう神様だ。 取り憑かれりゃあ最悪、狂っちまう。 おもしれぇよな」
「……崇めるところまでくると、なんだか気味が悪いなぁ」
「……あぁそれと、バクっているだろ。 夢を食べる中国の妖怪……いや妖怪だか伝説だかしらねぇが、あれの起源がレムなんじゃねぇかっつう話は、共通認識としてあったような気がするな」
「……あの、俺もちょっと聞いていいですか。 当時のメンバーって今はどうしてるんです? 仲の良かった人とか居ましたか? 」
「……いた、いたな。 昼間も付き合いがあった奴が3人。 引退してからはパッタリ会わなくなったから、今どうしてるかは知らねぇ。 プライベートでも本名すら明かさなかった」
今の奴らは昼間も会うのか、と聞かれたので、昼間も付き合いがあるのは一人だけだと答えた。 もちろん紫苑さんの事だったが、シゲオさんは隣に浮いている水嶋の事だと勘違いしたらしい。 俺も水嶋も、特に訂正はしなかった。
「レムが神様っていうのは? 特定の人だけが主張してたの? 」
「主張はしない。 当たり前の事として信じているだけって感じだったよ。 ゆうり、きっとお前みたいにな、『レムとは何か』 を一生懸命に考えて……最終的に神様だと結論付ける奴もいた、って話だ。 目の前に現れた不思議な生き物にレッテルを貼って、自分を納得させたかったのか……俺にはわからん感覚だったけどな」
「……シゲちゃんはどう考えているの」
「……俺からすればレムはただそこに存在している生き物だ。 人が動物や植物を食べて生きているように、人間の感情を食べて生きている生物。 ただ、成長すれば人間に害を及ぼすことがある。 そうなった個体は殺すしかない、それだけしか考えてなかった」
わからない。 何故なら俺は、祥雲寺のメンバーとレムに関する意見やこの世界の情報を交換したことなんか一度もないからだ。
ただ感覚としてはシゲオさんの意見に近いと思う。 幽体離脱する俺たちにはレムの活動が見えて、物理的に接触ができる。 だから人間に悪影響を与えるレムがいれば、それを間引くのは俺たちしかいない。 俺がやらなくてはいけない作業、という認識だった。
「今考えると不思議なもんだよな。 『幽体離脱』なんて最高に自由な状況を与えられた人間たちは、何故かみんなレムを殺す事に使命感を感じて執心するんだ。 まるでスポーツマンみたいに、自らルールの中に幽閉されて、その中で強さを競い合ったり戦ったりする。 いつしかそれに喜びを感じている自分に気付く」
その時、階下から一歩ずつ階段を上がってくる足音がした。
「美しい配色のレムを見たときの高揚感。 核を的確に突いた時の爽快感。 あのなんとも言えねぇ揉み心地と、身に刃物を滑らせる感触。 そして……人間たちが奪われた感情を解放してやった時のカタルシス。 俺は色抜きが好きだった。 大型を殺って、何十人もの『感情の声』に包まれている時……なんというかな。 寂しさを忘れることができたんだ」
階下から大人の低い声と可愛らしい笑い声が近づいてきて、扉が開かれる。 湯気の立ち昇るカップを二つ持った父親と、娘が入ってきた。 水嶋は真剣な表情でシゲオさんを見据えている。
「今日はパパも一緒に寝るよ。 それなら怖くないだろ? 」
「ママも一緒がいい。 ママは? 」
少女がベッドに飛び乗る。 父親はその隣に腰を掛け、布団に潜り込んだ少女の頭を何度か撫でた。
「ねぇパパ。 ママは? 」
「……ママは頭にツノが生えてしまったから、引っ込んでからじゃないと寝れないってさ」
「どうしてツノが生えたの? 」
「パパが怒らせちゃったからかなぁ」
二人の持つマグカップから湯気が立ち昇っているのを、ぼんやりと眺める。
……不思議な気分だ。
本当は油を売っている場合ではない。 心に芽生えた危機感が拭い去れた訳でもない。
でも俺はこの爺さんの話をもう少しだけ聞いてみたいと思っている。 シゲオさんの話は、まるで自分の胸の中を読み上げられたような感覚があって、それが決して不快ではなかった。
この奇跡ともいえる出会いを、決して取りこぼしてはいけない。 そんな気がしているのだ。
前にも似たような感覚を味わったことがあるような気がしたけど、今は、思い出す事にエネルギーを使うのはやめておこうと思った。




