小早川の告白、2人きりの教室にて
新岡先生は水嶋の身体を聴診器でペタペタしたり、機械に腕を突っ込ませて血圧を測ったりすると、「早退」を言い渡した。
そのあいだ俺はずっと、腹式呼吸をしながら目を閉じて、心拍数を整える事に努めていた。
「うーん、なんともないけど、心配だからね。病院に行って診てもらいなさい」
「いや、先生。大丈夫です。心は……ビンビンですから」
「ふふっ、何言ってるの? 報告はちゃんとしておくからねぇ。今日は帰ってゆっくりしなさい」
もうすぐ保健室から追い出されてしまう。 俺は、水嶋の身体で鼻血を出したのだ。
俺の記憶が確かならば、女子が突然鼻血を出す場面には出くわしたことがない。
心配されて帰らされるのは仕方のないことにも思えたし、むしろ田中くんと同じ空間にいる事から解放されるのなら、その方が精神的には楽だ、とも思えた。
ブレザーの内ポケットに入っている水嶋のスマホを確認する。「新着メッセージが6件あります」と画面に表示されていた。
「水嶋さぁん、教室に戻って帰り支度したら、一度保健室に寄ってくれる? 面倒だとは思うけど」
「あっ、はい。わかりました。ご迷惑お掛けします」
保健室を出ると、ちょうど危篤の爺ちゃんに似たヌートリアが戻ってくるところだった。
「水嶋さん……。 大丈夫?」
「むしろ田中くんが大丈夫?」
「僕は平気さ……。 なんてことないよ、こんなもの。人間の身体は……ナマモノなんかに負けないさ。いや、ちょっと待ってくれ……。 僕は自分の体内でおイタしている牡蠣の野郎なんかどうでもいいんだ。君の身体が心配なんだよ」
……こいつの喋りってこんなにヌメッとしてたっけ? センスのない日本語字幕みたいな物言いしやがって。 男友達とアニメの話してる田中くんがものすごく早口で歯切れの良いトークするのは知ってるんだぞ。 お前の言葉は恋する相手だと化学反応が起きて粘性を帯びるのか?
「心配は無用だ! 早退する事になったから、また!」
俺はちょっとだけ水嶋を意識して、嫌味っぽくならないよう冗談めかしてそう答えた。
「ははっ! 心配ご無用、か……今日の水嶋はまた一段と」
「無用だ!」
俺は田中くんの言葉を遮って、全力疾走で階段を駆け上がった。
なんせ面倒くさい!田中くんと水嶋の関係を、水嶋の身体を経由して処理するのが本当に面倒くさい。
田中くんに対して「まだ会話続ける?」という嫌味ったらしい台詞が喉元までせり上がって来ていたので、非常に危ないところだった。
俺は2-Bの教室に戻ると、すぐさま相原のカバンからスマートフォンを取り出した。
弟から入っていたメッセージを確認する。
【今日帰り早いから家事手伝うわ】
最悪の事態は想定しておかなくてはいけない。
弟から届いたメッセージがどう転がって行くかはわからないが、ひとまずは平静を装って返信しておく事にする。
【さんきゅー助かる】
間違えても、【今日帰ってくる兄貴の精神は、水嶋っていうイカれた女子高生だからよろしくな!】
などと返信する訳にはいかない。 すぐさま山奥の病院にぶち込まれてしまうだろう。
……よし、あとは水嶋のスマホを俺のカバンにしまうだけだ。 6件のメッセージが立て続けに入るなんて、俺の感覚では、何らかの緊急事態としか思えなかった。
「何してんの?」
「うわぁぁぁ!!」
「驚きすぎだろ、ゆーり」
振り返ると、教室の入り口に体育着姿の小早川が立っていた。 保健室に向かう直前、水嶋が扮する相原に教室で煽りを入れた男。
彼は壁に背を凭れて、右手に持ったボールを遊ばせながら、左手で前髪をかきあげている。
それはスクールカースト上位に位置するイケメンにしか許されない、スカした佇まいだった。
「小早川……コ、コバこそどうしたの?授業中だけど」
大丈夫だ、水嶋は小早川の事をコバと呼んでいるはず。 自然に振る舞えた筈だ。
「忘れ物。リップクリーム」
「あ、そうなんだ」
おいおい女子か! イケメンって体育の授業にリップクリーム持参するのか? お前の顔面にそこまで執拗なメンテナンスは不要だろう。危篤のヌートリアなのに自然体で勝負している田中くんを見習え。
「ゆーりさぁ」
「え?」
小早川が接近してきて、目の前の席についた。 いや、なんで座るんだろう? くちびるの潤いに満足したら大人しくハンドボールの授業に戻れよ、この腐れ外道が!
「今ポケットに仕舞ったの、慶太のスマホだろ? 」
見られていた……!? どこから見てた? 俺が弟にメッセージを打っているところから見られていたら、言い訳の難易度がぐっと上がる気がする。
「お前らもう付き合ってんの?」
コバの口から、まさかの疑問が放たれた。
「いや、付き合ってないよ!」
咄嗟に否定してしまった。
待てよ、もしかして「付き合ってる」と嘘をついておいた方がこの状況を上手く乗り切れたんじゃないか。
「お前さぁ。進路決まってないって言ってたじゃん?」
話題を切り替えるポイントがわからない。
それに、話題の意味もわからない。
進路が決まってない? 水嶋って、コバに進路相談してたのか? とりあえずとぼけておいた方が良いだろう。
「進路……? あれぇ、そんな話したっけぇ」
「行きたいところないから魔法学校に行くとか言ってただろ。 富山県の何とかって駅から魔法学校に通ずる列車が出てる、とか言ってたやつ」
「あー、そんなこと言ったっけ。はは、気でも狂ってたのかな?」
ふとした会話の中で生まれたクソほどしょうもないやり取りとかどうでもいい。
水嶋がそういう事を言い出す時って大抵掘り下げても面白くならないし、対応に困るんだよな。わかるわかる。
……それにしても水嶋ってこんなに1on1仕掛けられる女子なのか? 入れ替わって1時間弱の短い間で二人の男に絡まれてるぞ。
水嶋がハンパじゃなくモテるのは知っている。特に俺や田中くんのように、あまり目立たない路傍の石みたいな男子から絶大な人気があるのだ。それに加えてこの男、カースト上位のイケメンまでもがハートを掴まれてしまうのか?
……嫉妬が若干込み上げてくるなぁ。 随分と仲良さそうだし、知らないところで愉快な話してるんだなぁ。
「慶太は豊大に行くって言ってたぞ」
なんで俺の名前が出るんだろう。
田中くんもそうだし、多分こいつも勘違いしてるんだな。 傍から見ると、俺と水嶋はそんな風に映っているのか。
「前にも言ったけど、俺のことは気にするなよ。それは俺に対する侮辱でもあるからな」
ほほう、安心しろよコバ。 俺と水嶋はそんな関係じゃないし……。 お前みたいな奴に好かれて嬉しくない女子なんて、この学校には多分居ない。水嶋だって例外じゃないはずだ。
俺は田中くんよりもお前を応援する。その方がすんなり諦めもつく。
「どうした、ゆーり。今日は随分大人しいな。 慶太はお前を保健室に連れていってから、異常な程ハイテンションなのに」
コバはどことなく物悲しげな表情を俺に向けていた。目が合って、何故か言葉が詰まってしまった。
「俺は慶太の事を本気で愛してる。 その気持ちに嘘はないからお前に相談した。 自分一人で抱えきれない程、気持ちが大きくなっていたんだと思う。 俺はゆーりにそれを伝える事で、自分の気持ちに終止符を打ちたかったのかもしれない」
……ん?
「『叶わない恋なんて、男と女の間にも数え切れないくらい転がっている。そんなのちっとも特別な事じゃない』……って言ったよな。 はは……。 すっげぇ刺さったよ」
……んん?
「お前にそう言われて、なんていうのかな……上手い表現が見つからないけど、俺は一つ大人になれた気がしたんだ。 本当に感謝してる。 まぁ、さっきの件はちょっと嫉妬しちゃったけどさ」
コバは少しはにかんで、微笑を浮かべている。
「そういえば大丈夫だったのかよ、身体の方は」
「カラダハダイジョウブデス」
心は大丈夫ではなかった。 よく考えたら身体も全然大丈夫じゃない。 ……今、俺の目は凄まじい勢いで泳ぎまくっているだろう。 視点が全く定まらない。 冷や汗も止まらない。
「慶太、未だかつてないハイテンションでハンドボールに臨んでるよ。 はは。 ぶっ壊れたかと思って話しかけたら、なんだかゆーりがダブって見えてさ。 やっぱり相性の良い奴らって、長く接してると似てくるんだよなー。台詞回しとか、立ち振る舞いとかさ」
末恐ろしい洞察力である。
一刻も早くここから離脱したい。田中くんとは異なる意味の居心地の悪さだ。
色んな感情が渦巻いて収拾がつかなくなっている。とにかく一人になって、心を落ち着かせないといけない。課題の山は途方も無い高さで聳え立っているのだ。
「私……早退して病院に行けって言われているから、そろそろ行くね」
「慶太のスマホ持って?」
「あ、えっと、そのぉ」
「ま、いいや。 なんか悪い事する訳じゃないだろうし。慶太はなんでも許してくれるけど、イタズラは程々にしとけよな。じゃ、お大事に」
俺の気持ちなど御構い無しに、コバが飄々と教室を後にする。
水嶋の身体から眺める世界は、想像を遥かに超えた魔境だった。
水嶋は相原の身体から、どんな世界を見ているのだろう。
きっといつもより高い視線から、ボールと相手ディフェンスの動きを見ているに違いない。