ピンクを基調とする部屋に一番似合わないのはアウストラロピテクスみたいなおじさん
ダイニングテーブルを挟んで向かい合う二人の男女。 40代半ば……くらいの夫婦だろうか。 男性の方はテーブルに突っ伏す形で頭を抱えているし、女性の方は顔を紅潮させて、瞳に涙を浮かべていた。 二人の頭上にぼんやりと浮かぶ電球色の灯り以外に光源はなく、辛気臭い雰囲気をより一層際立たせている。
「か、片付けたいっ」
「なんだよ急に」
水嶋が顔をしかめて覗いている隣のリビングは、たしかに酷い有様だった。
腰ほど高さのある観葉植物は倒れてしまって、高価そうな絨毯の上に土が散乱している。 ソファの配置は乱れ、小さな戸棚やローテーブルの上に置いてあったであろう小物は全て床に散らばっていた。
部屋にある全ての天板の上でテーブルクロス引きを実践し、悉く失敗したような様子で、さっきまでよほどの乱戦が繰り広げられていたのがわかる。
「片付ける時の虚しさを少しでも想像できたらこうはならへんやろがい! 」
なぜか相棒が取り乱している。 見知らぬ夫婦は整理整頓の鬼・水嶋優羽凛の逆鱗に触れたらしいが、当然その怒りの声は届かない。 旦那さんの方が高速の人差し指でテーブルを叩いている。 まさに魂の16連射だ。 この惨状に至るほどの戦いを経て、お互いまだテーブルを挟んで向かい合っているということは、休戦して話し合わなくてはならない事があるんだろう。
「よし、さっさと二階を確認して出よう」
「争いの原因を聞いておこうよ」
「聞いてどうすんだよ、ほれ、奥さん泣いてるし。 こんなに暴れた形跡があるんだぞ? 大の大人が観葉植物ぶっ倒すの見たことあるか? 」
「そりゃないけど……」
「俺たちの未成熟な心じゃ対応できないって。 サポート外のトラブルだよ」
「夫婦でテンション上がりすぎて踊り狂ってただけかもしれないでしょう? 」
「それはそれで相当ヤバいだろ、別の意味でサポート外だ。 いいから二階に上昇するぞ、ほら」
「あーいあい」
「お猿さんかよ」
水嶋が二階へ上昇していくのを見守る。
あえて時間差で上昇しようとしたのには深い意味があった。 俺は、彼女が幽体では何色の下着を履いているか確認したかったのだ。
そんなものが判明した所でなんの意味があるのか、と問われたら、俺は胸を張ってこう答えるだろう。 意味ばかりを追い求める人生に何の意味があるのか、と。
……暗くて色どころかお姿すら確認できなかったので素早く上昇する。
そこは、書斎のような部屋だった。 木製のデスクと革張りの椅子、後方には壁一面の本棚。 階下の惨状とは正反対に整頓されているし、人の気配はない。 水嶋とは上昇位置がズレていたから、別々の部屋に着いたみたいだった。
左側の壁にはジグソーパズルの完成形を額に収めたものが吊るされている。 階下での位置関係から見て、水嶋はその壁を隔てた先の部屋に上昇したはずだ。
隣の部屋に抜けようとしたその時、壁から水嶋のお尻が突き出してきた。 愛らしい小ぶりの尻に顔を埋めたい衝動をギリギリのところで抑制し、その尻に「どうした? 」と声を掛ける。
「あっいえ、名乗るほどの者じゃございやせんので! お邪魔しましたぁ〜……」
壁の向こうで誰かに声をかけている……?
水嶋は一度尻を引っ込めて、こちらの部屋へジリジリと後退してくると、くるりと振り返って俺と向き合う。 ……ん? なんだろうこの顔は。 全く感情の読めない複雑な表情だ。
「……慶ちゃん」
「なんだよ、誰と喋ってたんだ」
「隣は子供部屋だったんだけどぉ、先客がいた」
「……は? 先客? 子供部屋なら下の夫婦のお子さんだろ。 起きてたのか? 」
「違う、ちがう。 変なおじさんがいた。 ベッドの上にぷかぷか浮いてた」
「……変なおじさん? 」
「幽体離脱したおじさんが浮いてたの 」
「……え。 まじ? 」
「今シーズントップクラスのまじ。 めっちゃ睨まれた……『誰だおめぇ』 だって……なんかすごい怖かったぁ……今は無いはずのキンタマが縮み上がった」
「……ははっ、どうせドッキリだろ? 何を企んでる? 隣の部屋で何を見た! 答えなさい! 」
「違うよ、本当なんだって! 慶ちゃんも見てみなよ!変なおじさんいるから! 」
おそるおそる隣室側の壁に顔を通してみる。
——それはまさしく、子供部屋だった。
すぐ目に付いたのは学習机と、アニメやアイドルのポスター。 窓際のベッドの上で可愛らしい柄の布団に潜っているのは、小学生くらいの少女。 読みながら眠ってしまったのか、胸のあたりに漫画が伏せられている。 枕元の小さな照明は灯ったままになっていて、辛うじて部屋の様子が確認できる照度だった。
……その、ピンクを基調とした可愛らしい部屋に本来、立ち入ってはならないはずの異質な存在がふわふわと浮かんでいる。 俺はその光景に固唾を飲み、カップ麺にゴキブリが混入していたニュースを見たときと同じ嫌悪感に包まれた。
——無精髭を生やした中年の男。 その幽体が、胡座をかいて浮かんでいる。 眠っている少女を見下ろしているように見えた。
頭の中で情報の整理を試みたが、全く処理が追いつかない。 ひとまず顔を壁から抜いて水嶋の様子を確認しよう、そうすれば少しは冷静になれるかもしれない。
「……よし! さぁて、どうする? 水嶋。 見なかったことにしとこっか? 」
俺の口をついて出たのは現実逃避の一手だった。 正直、動揺を隠しきれない。 「変なおじさん」という表現でイメージしたよりもずっと変なおじさんだったし、状況に加え、シンプルに顔の造形が怖かった。
「えっ。 その選択アリなの? 状況的に、幽体離脱を悪用した変態の可能性がかなり高くない? 」
的確な情報分析。 まいったね、どーも。
こいつの適応能力には毎度驚かされる。 責任が一切ないから冷静に判断できるっていう側面もあるだろうけど。
「まぁ……ルール的に俺が見逃すのはナシだよな。 レムのいない家に、しかも幼女の部屋に単独で潜伏おっさんとか……完全に懲罰もんだしな。 ……こんなの初めてだよ」
「懲罰って、なにされるの? 」
「あぁ、ルールを破った幽体は、上層部のマインドクラッシャーズが幽界と現実の双方からブレイン・ウォッシュを施工して、ソウルヴァーナップ……あ、つまり魂の雫火現象を経てから幻界経由で今とは違う時間軸に放流されるんだ」
「……はぁー、なるほどねぇ。 ……あなたは一体なにを言っているの……? 」
「急いで紫苑さんに報告するかな……色々とめんどくさいし」
「まーた困ったらしおんしおんって! ……ねぇ、取り敢えず、ちょっと私が話しかけてみていい? せっかくの出会いだし」
「それだけはやめてくれ。 水嶋が出しゃばるとロクなことにならないから」
「はぁ? なにそれ。 まるで私がトラブルメーカーみたいな言い草じゃないか! 」
「そうそう、やっと気づいたか? 仰る通りなんだよ。 是非ともこの機会に自覚してくれると助かるわ! 」
「なんだとぉ! うわぁー、やばい、ひっさびさにアッタマきた。 ……じゃあこれからご覧に入れて差し上げましょうか? 」
水嶋は俺を見上げて睨み付けると、大きく息を吸い込んだ。 悪寒が全身を走る。
「……本っ当のトラブルメイキング、ってやつをなぁぁあ!! 」
「声がデカイっつーんだよ! 何回俺に指摘されたら気が済むんだバカヤロウ! 訳わかんないこと言ってないで大人しくしてろよ! 」
「オォ、さっきからうるせーぞクソガキども。 静かにしろォ。 殺すぞ」
「あ、すみません」「ごめんなさい」
「この家にレムはいねぇよ。 さっさと仕事に戻れ! シッシッ」
壁から出現した濃厚で厳つい顔のおっさんに突如威圧され、俺と水嶋は反射的に謝罪をかまして顔を見合わせてしまった。
おっさんは「チッ」と舌打ちをして、俺たちをギロリと睨み付けると、再び子供部屋へと戻っていく。
「ね? 怖かったでしょ、顔」
全く見覚えのない顔だった。 仮に突発的な幽体離脱にしても、どこかの駆除隊に属する幽体だとしても、俺たちの存在に狼狽ないのは不自然だ。
「なんか、昭和の銀幕スターみたいな顔してたな」
「あー、わかるわかる! 白黒映画に出てくる顔だよね」
「いやっ、それにしても濃かったな〜顔。 最近あんな濃い顔の奴いないだろ。 なんて言うんだっけ、ああいうの」
「アウストラロピテクス? 」
「アウス……なんだっけそれ」
「縄文人のことじゃなかった? アウストラロピテクスって」
「……いやなんていうか、うん。 凶悪なレムが出るよりよっぽど怖えわ。 なんなんあいつ。 そろそろ出ようか? 」
「いや素人の私に聞かれても。 でも危害を加えてきそうな雰囲気はなかったよ? 」
「いやいやお前耳どっかに落としたのか? 殺すぞって言ってたから。 侮っちゃだめだ、あいつ威圧感が獣のそれだった。 あれ絶対何人か殺ってるわ。 おっさん本人がやってなくても、前世で確実に何人か殺ってる」
「もう! ビビりすぎでしょう! 」
「イレギュラー過ぎてパニックなんだよ! 今脳みそ整理中! 察してくれるかなぁ!? 」
「もう私が突撃するから、腰抜けいちゃんはそこで指くわえて見てなさいっ! 」
「チョット待てまてマテ水嶋マテマテ」
「変な呪文唱えないで! 」
「オォ! うるせーっつってんだろ! さっさと出て行けクソガキ共! 3秒以内に消えなきゃこっちで消すぞオラっ! 」
おっさんの恫喝に一瞬たじろいだが、今度は謝らなかった。




