華麗なる有部咲一族とはぐれた狼たち
浴衣の美少女は自ら生成した厳ついウォーターガンを調整し始めた。 それを尻目に、シメたレムをマッサージしている2人の元へ向かう。 近くで見ると本当に面倒くさそうな個体だ、もし万全の状態でこの2人と捌けば、ちゃちゃっと処理が出来るだろう。
しかし今はこの身体。 手のひらも、いつもの半分くらいしかないのではないか? コントロールにも慣れないし、そりゃ捗るわけもない。
「そういえば聞き逃したけど、シオンさんと慶ちゃんのママはどういう繋がりなの」
「……あ。 水嶋、ちょっとそこ抑えてて。 手が短くて届かないんだ。 後ろからこう……」
「こう? 」
「あ、オッケーオッケー。 そんな感じ」
「慶ちゃん」
「ん? 」
「初めての共同作業だね」
「ぶふっ! ……あ、あぁ、ちょ、ちょっとズレちゃったよ……ったく……」
「なに赤くなってるの? ツッコミは? 」
「うるさいよ! いま集中してるから!」
「ゆうりちゃん。 桃乃さん……慶太の母親の旧姓はね、有部咲っていうんだよ」
「うぶさき? 」
俺が答えようとしていた質問に、紫苑さんが対応してくれた。 今になって考えると俺は、その答えに微かな後ろめたさを感じている。
「有部咲は紫苑さんの苗字だよ、言ってなかったっけ? 実は親戚なんだ」
その言葉を聞いて、目を丸くしている。
数秒間、俺と紫苑さんの間で視線を行ったり来たりさせた。
「……へぇ! なんだ、親戚ね親戚! はぁ〜あ……なるほどねぇ! ……どうして先に言わないの?」
「どうして胸ぐら掴むの? 」
「言うタイミングなんて幾らでもあったでしょう? 」
「なかったよ! 優先順位が低かったというか……あんまり説明すると情報が渋滞しちゃうだろ、だから……」
紫苑さんが含みのある笑いを漏らした。
母ちゃんは親父と駆け落ちをした際に有部咲家を勘当され、完全に絶縁した。 有部咲一族は三重県の、いわゆる名家と呼ばれる由緒正しき家系らしい。 俺がそれを知ったのは母ちゃんが死んでからだし、今考えると辻褄の合う状況がいくつかあったように思う。
紫苑さんは数年前、大学進学を機に上京してきた。 母ちゃんも学生時代、同じように三重から上京し、親父と恋に落ち、猛反対を押し切って、有部咲一族を裏切る形でこの地に根付いた。 紫苑さんは母ちゃんが東京に出る前、当時まだ高校生だった『有部咲 桃乃』の姿がぼんやりと記憶の片隅に残っているそうだ。
つまり俺と紫苑さんは遠い親戚に当たる訳だけど、その血の繋がりはもちろんの事、母ちゃんが勘当されている以上、親類としての関係性は寄せ鍋後半戦のポン酢くらい薄かった。
その上、紫苑さんの苗字を聞いたのは知り合ってからずいぶん経ってからだったので、親戚であるという自覚は今に至るまで芽生えていない。 彼女は俺にとってあくまで『幽体離脱について教えてくれた、綺麗なお姉さん』だ。
だけど、遠縁という事実を知らないままここまで仲良くする事が出来ただろうかと考えると、そうはならなかった気もする。
「私は慶太のひいお爺ちゃんの、弟の、孫の……娘だね。 桃乃さんから見ると大叔父様の孫だから……再従兄弟か、私はハトコのそのまた娘って事になるね。 その間柄の名称はわからんけど。 私にとって桃乃さんは……本家の破天荒なお姉さんって感じかな」
子供のように、顔をくしゃりと綻ばせて笑った。 紫苑さんは母ちゃんの話をする時、いつもこの顔をする。 彼女が始めて苗字を名乗った時、「私の桃乃さんへの想いは、もはや恋愛感情に近いものがあった」と語ったのを未だに覚えている。
「へぇ〜。 そうなんだぁ。 頭こんがらがりそうだし、もうどうでもいいや 」
「うん、些細なことだ。 実を言うと私、相原家と血は繋がってないんだけどね」
「……どういうこと? 」
「私と慶太はちょっと遠目の親戚ではあるけど、血は繋がってないんだよ」
「えっ、なんで!? 話が違うじゃん! 」
「水嶋ごめん、そこ俺が驚く所だから。 ……血は繋がってますよね? 有部咲一族なんですから」
「いや。 血の繋がりで言うと全然違うんだな。 ……私はさ、母親の連れ子だから。 戸籍上は有部咲だけど、私に有部咲の血は流れてない」
「え? 本当ですか? それは、えっと……」
「東京に出てきて慶ちゃんのママと仲良くなったのは、その環境が関係してたりする? 」
水嶋が歯切れの良い発声で、間を置かずに割って入る。 なるほど、そういう事か……すぐには結びつかなかった。 紫苑さんが急にぶっ込んで来たので、頭の整理が間に合っていない。
「ゆうりちゃんは頭の回転が早いねぇ。 うん、それもかなり大きかった。 三重で桃乃さんの話を聞いてるだけで、憧れみたいな感情が湧いてたからなぁ。 それに彼女は大学のOGでさ、最初から話が合ったのもある」
……俺の知らないところにも沢山のドラマがある。 複雑に人の心が絡み合い、体現され、それぞれを取り巻く環境になる。 昔の自分はそれを理解出来ていなかったのだな、と改めて感じた。
あの頃、世界は自分を中心に回っていて、自分の物語に登場する人物だけが特別な存在で、いつまでも変わる事なく隣にいるような気がしていた。 きっと人生に酔ってしまって、脳みそが麻痺していたんだろう。 笑いの絶えない幸福で平凡な毎日は、頭の悪い俺の人生を、永遠に続く喜劇のように錯覚させていたのだ。
「ねぇ、シオンさんって何歳なの?」
「先日24歳になりました。 25歳は祝ってね」
「お仕事は? 」
「わたし院生だから」
「ふーん……大学はどこなんですか? 」
「早応大だよ。 ゆうりちゃんどこ受けるの? 家庭教師してあげようか? 1時間3000円でいいよ」
水嶋が俺の方を向いて『まじ? 』 と声を出さずに問いかけて来たので、『うんうん』と頭を二回振って答えた。
「三重か……全然、訛りがないけど」
「方言はコンプレックスだったし……こっちに来て五年も経つからね。 故郷に愛は微塵もない」
「なんか話が重そう」
「結構重いかもなぁ、ドラマにしたらワンクール保つね。 なにしろ一刻も早くこっちに来たかった」
「どうして東京に? 」
「いい大学に入って、東京で自分の世界を作ることが使命だと思ってた。 私が優秀になればママ達も楽になるし、堂々とできるんじゃないかって。 私自身もみんなを見返せるよな、っていうね。 復讐心みたいなもんだったのかなぁ」
「……いじめられていたの? 」
「……どうかな。 今思うとさ、イジメられてるって思い込んでいただけかもしれない。 お義父さまもずっと優しくしてくれてたしねぇ。 私も大人になったもんだよ」
水嶋がパーソナルな領域をグイグイ掘り進めているが、これは絶対におかしい。 紫苑さんが昨日今日会った水嶋や、よくわからんチャラい大学生の前でこんな身の上話をするなんて。 俺は3年の付き合いの中でこんな話を聞いたことは無かった。 彼女はどんな時でも高圧的で上から目線で、決して弱みを見せず、竜巻が発生するほどの姉御風を毎時ビュンビュンと吹かしているのだ。 きっと何か裏がある。
「……紫苑さん、どうして急にその話をしたんですか? 」
彼女は俺の顔をまじまじと見ると、その視線をゆっくりと水嶋へ向けた。 そして、ふっ、と小さく息を漏らす。
「……なんでかね。 自分でも不思議だよ」
あ、この顔は見たことがない。
憂いを帯びた微笑みというのか、こんな話をしている時に不謹慎だけど、今まで見た紫苑さんの、どんな表情よりも色気を感じてしまった。 不覚にも見惚れてしまい、タイトなニットでラインが強調された胸の膨らみに視線を動かした瞬間、水嶋の掌底がコメカミに入った。
「……シオン姉さん。 いや、シオンさん。 俺、ずっとあなたの事が好きでした……」
えっと……は? なんだこいつ。 ナルセこら。
「真剣に付き合って頂けませんか? おれ、本気です! 」
藪から棒になんだ、このうつけ者は。 大人しく作業に集中してるのかと思ってたのに。
とうとう「紫苑さんを抱きたい」というエベレスト登頂並みの果てなき野望に匙を投げたのか? コイツのCPUがこのタイミングで告白を仕掛けるという結果を弾き出した意味が分からない。 バグとしか思えない。 目覚ましの意味を込めてノールックで叩き込んでやろうかな? 拳。
「ハハ、この状況で……? まぁ前向きに考えとくよ」
いや断れや。 何を半笑いで思わせぶり路線突き進んでるんだこの人。 そこのうつけ者もまんまとガッツポーズしてんなよ、誰に聞いても望み薄の解答が返ってくるぞ馬鹿野郎。 まったく、「……おめでたい頭だな。 完全にぬか喜びだぞ陽キャの権化が。 口じゃなくて手を動かせよ」
「……あ? ケイタてめぇ空気読めよ、全然面白くねーから。 あぁガチでイラついてきたわ……おいこっち向けや!」
「いや……水嶋に言ったんですよ今のは」
「えっ、ナルセさんが幾らバカでもちょっと無理あるでしょ」
やっべぇ、心の声がそのまんま言葉になってた。 唐突にツッコミどころをわんさか提示してくるお前らが悪いんだろ。 こっちのツッコミを誘ってるのかと思ってしまうわ。 全員何言ってもいいから、ここからは発言前に挙手してツッコミ機能のオンオフを指定してくれよ。
「ねぇ慶ちゃん。 シオンさん……狙いすましたタイミングで人間としての奥行きを出す演出してきたね」
奥歯に衣着せろサイコ水嶋。 そして俺に同意を求めるな、思わず下向いちゃったじゃないか。 ほら紫苑さん笑ってるけど絶対イラッとしてるからなこれ。
「ま、私の話はいいや。 ごめんね急に」
「えっと……」
ほら、変な空気になった。 全員自由過ぎるんだよ、どうしろっていうんだちくしょう。 結局みんなこっちをチラチラ見てくるしさぁ……頼ってくんなよ! 別に俺がMCやってる訳じゃないんだから。
「な、ナルセさん。 そこの黄色……先にほぐした方がいいですよ多分」
「え? あ、あぁ。 今やろうとしてたんだよ」
「紫苑さんそこ、青の濃いところ、ちょっと甘くないですか? 」
「あ、 そうか。 そうね、ボーッとしてた。 ごめん」
よし、こりゃダメだ。 俺には手に負えない。 水嶋さん何かありませんか? 喋る事、何かありませんか? 頼むからこの停滞気味の空気を打開してください。
「はぁ〜あ……なんっか地味なんだよなぁ! 」
「おっ! どうした水嶋!? なんか思うところあった? もしかして気になるとこある? なんなら詳しく解説して差し上げるよ! 」
「うん、レムを〆るまではいいんだけど…… ボブ達と一緒に戦った時も、作戦立てて追い込んでやっつけて。 楽しかったし、なんていうか……流れていく時間に華やかさがあった」
水嶋の興味はこの世界に向けられていた。 それもそうだ、他人の身の上話を聞くのはコーヒーの香りが漂う昼下がりのテラスくらいが御誂え向きだ。 素人にとって、このシュールな状況下では緊張感がないというか、言葉に乗った切実さがうまく伝わらないのも無理はない。
「なに、マッサージて。 みんなして寄ってたかって謎の生き物モミモミして。 画面が地味! せっかく訪れたちょっとしたファンタジーなのに、アニメ映えとか絶対しないやつだよ」
俺が見せてあげたかったこの世界。 当の水嶋が世界観に対して悪態を吐き始めた。 最初から上手に飛べて楽しそうだったし、なんとなくのイメージで水嶋好みなんじゃないかと勝手に思っていたけど、これじゃ物足りないっていうのか。
「それでね、倒したあと派手に『どっかーん! きらきらぁ! レベルアーップ! チロリーン! よーっしゃ今夜は魔物のステーキだぁ! 』……とかじゃないしなぁ。 変な液体がドロドロ出てきて人間の声上げながら蒸発していくって……どういうファンタジー? 」
「水嶋ってそういうゲームとか好きなの?」
「ゲームの世界に入って近接武器で無双するのが夢。 それが私の夢」
「インドでクリケットのトッププレイヤーになる方が現実的じゃないか? 」
「毎食カレーは耐えられない」
「インド人がカレーエネルギーだけで生きてる思ったら大間違いだからな」
「……まぁ言いたいことはわかるけど、現実はこんなもんだよ。 ゆうりちゃん」
紫苑さんの素っ気ない言葉に溜め息で返すと、後ろを向いてゴソゴソと何かをし始めた。 背負っている水嶋カスタムのウォーターガンはなかなかファンタジー映えしてるんじゃないか、などと思いつつ、彼女が何を企んでいるのかと一抹の不安に襲われる。
「ほら、手始めにショタ慶。 そのブカブカの服もなかなかどうして可愛いけど、着替えなさい」
「よくそんなポンポン新しいもの生成出来るな……本当に想像力どうなってんだよお前は。 えっと……? 短パンに、ジャケットに、蝶ネクタイに、黒縁メガネか。 うん、なるほどね、ほんとしつこいなぁ。 胃がもたれそうだわ」
「ほれ、早く着替えるんじゃケイイチ」
「それどっから声出してんだ? 変声機かなんか仕込んでるのか? 」
「じゃあこういうのはどう? 」
「なに、これ」
水嶋が両手で差し出したのは、フェイスタオルくらいのサイズの茶色い布だった。 レムを揉みながら目を凝らしてみたが、表面がやけにザラザラした馴染みのない質感だ。 この布はなんだ? 用途がわからない。
「……なんだ? これ」
「未開の部族が腰に纏う麻布」
「み、未開の部族が腰に纏う麻布!」
あまりに強烈なワードに怯んで、脳死の鸚鵡返しをしてしまった。 俺の中でご法度にしていた、一番やってはいけないやつだ。 そもそも未開の部族って麻布なんか腰に巻いてたっけ? 表面が半端じゃなくゴワゴワだし、散歩でもしようものなら15歩くらいでデリケートエリアがズタズタになりそうだ。 未開の部族ならおそらく、動物の骨とか角やなんかを加工して股間に被せるはず。
それを懇切丁寧に説明すると、溜息だけが返ってきた。
「これもダメならせめて、袖を破いちゃいなよ。 肩のところで」
「嫌だよ、肩の切り口がほつれてきたら格ゲーの看板キャラみたいになっちゃうだろ」
「……んふふっ。 あーもう、喋っててもつまんないしなぁ。 私もモミモミしよっと」
「今のは小笑い起きてただろ。 負けを認めろよ」
作業している俺の隣にベッタリと寄り添って、手元を凝視してくる。
「……ここ。 素人にはわからないと思うけど境目があるんだ。 青が強くなってくる境を見極めて的確に解すと……動く。 周りの近い色を吸収して、ひと塊りになろうとする」
「混じりあって離れた色を、近い色同士でくっつかせる作業なんだね? 」
「うんまぁ、大雑把に言うと」
見よう見まねでモミモミを始めた水嶋を観察して、開いた口が塞がらなかった。 紫苑さんもそれに気付いて呆気にとられている。 ナルセは無我夢中といった様子で自分の作業に追われていた。
「う、うまいな……モミ嶋……」
手つきもさる事ながら、何より目や、勘がいい。 モミモミすべき箇所を的確にモミモミし、その順序も的を射ている。
「器用なんだよ、私。 これは慶ちゃんのいやらしい手つきを参考にしてる」
「いやらしいって……そんなことないだろ。 ……あれ? 言われてみればちょっといやらしいな、その手つき」
水嶋がレムを揉み解す、その細く白い指がなんだか卑猥に見えてきた。 そして俺の揉み方にそっくりだ。 絵の上手さもそうだし、本当に手先が器用なんだなぁと感心していると、向かいから俺たちの手元を眺めていた紫苑さんが唐突に顔を上げた。
「いやらしく見えるのはお互いを性的な目で見てるからじゃないのか」
「ふへっ! 」
隣に寄り添っていた身体が一瞬だけ弾む。
「……水嶋、今変な声ださなかった? 」
「……は? 出してないけど」
「なんか耳が真っ赤だぞ」
「あ、あぁー……そう? じゃあ気をつけて。 急に天候が変わるかもしれない」
「何を感知したらそうなるんだよ。 気圧か? 気圧なのか? 」
水嶋が俺を無視して紫苑さんに指示を出している。 「シオンさん。 172番のCからF、クレッシェンドで」とかいう果てしなく見当はずれなセリフだったので、ただの上司ゴッコだ。 そして完全に無視されていた。
「よっし、俺は頑張ったぞ。 おいケイタ、そろそろいいんじゃないか!? かなり色が動いてる。 弁は誰が外す? 」
ナルセの言葉を受け、レムの全身を見渡してみる。 まだ8割ってところだろうか? それでも、色を抜くには充分な頃合いだ。 頭の方へ回り、上顎と下顎を抉じ開け、口内を観察。 牙の排出口も削ってある。
「排出口作ったのどっちですか? 」
そう尋ねると、私だよん、と紫苑さんが即答した。 側で見ていたであろうナルセが必死に紫苑さんの作業スピードを賞賛する句を述べていたが、彼女は相変わらず仕事が雑だ。 この荒い切り口じゃスムーズに色が抜けないだろう。
「最初のレムはセイウチみたいな牙だったけど、この子はまた全然違うね。 富士山みたいな形してる」
「これはもう色を抜く為に折ってある状態だから、本来ならこの先があったんだけどな 」
「ねぇねぇシオンさん、折った右の牙は風に乗せて左の牙は月に還したの? ちゃんと祈り捧げた? 」
「……ん? 何の話? 」
「さて、弁だけど誰が外します? 俺は手が小さいし短くて感覚がおかしいんで、どっちかにお願いしたいです。 それとも水嶋やってみる? 」
「口から手突っ込んでおはじきみたいなフタ取るやつ? それなら絶対やりたくないです」
ナルセが立候補したので任せる事になった。 紫苑さんがレムの後頭部を支え、両サイドから俺が上顎、水嶋が下顎を担当する。 こんなにサポートしなくても弁は抜けるけど、突っ立ってるだけなのもあれかな、と考えた末の、ポーズ程度の補助だった。
「さて……」
場違いなアイスホッケー選手が、遂にそのユニフォームを脱ぎ去った。 テロテロの生地をした青とオレンジのユニフォームが、ヒラヒラと宙に舞う。
「ふははっ! 」
堪えきれず漏れた笑い声が水嶋とユニゾンする。 ワンテンポ遅れて、紫苑さんが鼻で笑った。
「ちょっとその、プロテクターって言うのかな? それガチ過ぎません? 」
ユニフォームの下に仕込んであったそれが露わになった。 なにかプロテクター的なものを着けているんだろうな、というのは一見して分かる程度の着膨れだったけど、まさかここまでガチっぽい装備をしているとは思わなかった。 なんというのか、プロテクターのデザインがカッコよすぎる。 この状況でカッコよすぎる事が、酷くかっこ悪く見える。
「これが……俺の正装だからな」
ナルセはそう呟いて得意げに顎を突き出すと、ぎょろぎょろと大きな目で俺たちの顔を一通り見回して、なぜか異様にカッコつけながら腕に付いたプロテクターを勢いよく外した。
「外さないと仕事も出来ない正装なんてやめちまえよ」
さすが紫苑姉さん。 ごもっともだ。
「行くぜ……こんな厳つい大型でも、秒で片付けてやるさ……! 」
口の中に腕を突っ込んで、そのまま奥まで捻じ込んでいる。 レムの口からは、グチャ、グチュ、と腕が潜っていく汚い音が漏れ出てきた。 ナルセは弁にたどり着こうと必死だ。 様子を見るに、まだ奥に進もうとしているので、弁には届いていないのだろう。
……顔が真っ赤だ。 目が血走っている。 息遣いは獣のように荒々しく、少しでも多くの酸素を取り込もうとしているのか、鼻の穴が極限まで開いていた。 こいつなんで俺の方を向いてやってんだよ、水嶋の方を向けよ。
必死な人間を笑い者にする、という光景を今まで何度も見てきた。 歳を重ねるにつれ、その状況に身を置く事が増えていったように思う。 「必死すぎだろ」 「うわ、めっちゃ頑張っててウケる」 俺はそんなスカした言葉や笑い声が耳に入るたび、嫌悪感に襲われてきた。
必死な人を笑ったり、頑張っている人の足を引っ張って嘲笑したりする。 そんな性根の腐った奴は大抵、自分が頑張れないか、必死になった事のない奴だ。 頑張って必死になったとき、打ちのめされてしまうのが怖いんだ。 何故ならそこで、自分の限界を知ってしまうから。 それならば、全力や必死さを最初から遠ざけておけばいい。 大方、そんな貧弱な行動原理なのだろう。
……そんな思いの中、必死なナルセから目を背けた。 水嶋の方を見て、ちょっとエッチな妄想でもして逃げようと思った。 水嶋は声を出さず、顔を引きつらせるように笑っていた。 多分ナルセの不自然な体勢が面白いのだろう。 踏ん張りすぎて下半身がプルプルしているし、膝の関節外れてんだろってくらい明後日の方向に捻れている。 女性2人の様子を見るに俺にしか聞こえていないのかもしれないが、そのタイミングで小さな放屁テロも勃発していた。
——俺は高らかに声を上げて笑った——。
「なに笑ってんだよオイ! ちゃんと上顎! もっと開いとけよケイタ! 」
「し、失礼しました! ……ていうかまだですか? 届きました? 」
「指先は届いてるんだけど……引っかからないんだよ。 すげーヌルヌルする、普通の奴の倍はヌルヌルするわコイツ」
「倍ヌルヌルですか。 じゃあヌルヌルヌルヌルですね」
「いや慶ちゃん、倍ヌルヌルだとヌヌルルヌヌルルだよ」
「あ、そっちか。 ヌヌルルヌヌルルらしいです、紫苑さん」
「私を巻き込むな」
「……ねぇ、そう言えばさ、レムの色ってピンクが見当たらないね? 」
「あ、気付いた? ピンクって性欲系なんだよ。 レムって性欲関係の感情はあまり食べないんだ、なんでかはわからないけど」
「へぇ。 レムって慶ちゃんより品があるじゃん」
「そっくりそのままお返ししてやるよ」
「そっくりそのまま返されても自虐にしかなってないけどね」
「水嶋さん。 あなたね、幽体離脱の序盤からむちゃくちゃ下ネタ連発してましたからね」
「……下ネタなぁ。 恥ずかしい上に、私のエッチな引き出しの多さがバレてしまったよなぁ」
「『顔射』が入ってない引き出しなんて小学生の学習机みたいなもんだろ」
「乙女に向かってそんな単語をサラッと言えちゃうあたりが品性不足だって言ってるんだよね」
「……チッ。 ……でも話戻すけど、レムのピンク色って貴重でさ、一体から一滴しか垂れなかったりする部位なんだ」
「大トロ的な? 」
「うーん、大トロはなんだかんだで結構取れるイメージだなぁ。 もうちょっと希少部位で例えられそうな気が……なんかある? レア度究極の希少部位。 一滴だぞ? 一体から採れて一滴。 紫苑さん何か思いつきません? 希少部位」
「私を巻き込むな。 2回目だぞ」
「じゃあ今度さぁ、焼肉いこうよ慶ちゃん。 牛かなんかの希少部位食べたい」
「いや希少部位って高いだろ。 こんな貧乏丸出しの高校生が焼肉屋で『すみません、この店で一番の希少部位を』とか言い出したら百戦錬磨の店員さんでも躊躇うわ」
紫苑さんが「久し振りに食べたいなぁ、焼肉」と空を仰ぎ、「希少部位の名称くらいは調べとかないとね」と水嶋がへらへらしながら俺の肩を叩いた。
「……なぁお前らさぁ! ちょっと静かにしてくんねぇかなぁ!? こっちは集中してるんだからさぁ! 」
ナルセの咆哮に、驚いた顔の水嶋が『お口チャック』のジェスチャーを俺に向ける。 俺はあえてその指示には従わなかった。
「だって暇なんですもん! 早く弁外してくださいよ、流石にちょっと手こずり過ぎでしょ! 」
「おいケイタ、お前マジで張り倒すぞ? この個体がどんだけ面倒かわかってんの……あ、来た。 来たよぉ! はい来ましたよみなさん! 手応えあり! ……っし! 弁、外すぞ! 」
「水嶋、色抜けるってよ。 耳栓する? 」
「最初は何色が出る? 」
「えっと……何色かな。 あ、ちょっと先走りが出てる。 黄色だ、黄色が出る」
「黄色かぁ。 楽しい声が上がるよね? 赤が出始めたら耳栓しよっと」
俺が生成した耳栓を受け取って、袖の中に仕舞う。 ナルセは外した弁を仰々しく掲げ、デロデロになった右腕にプロテクターを着け直していた。 紫苑さんは握りこぶしを一定のリズムでレムの頭に振り下ろしている。
「紫苑さん、それなんか意味あるんですか」
「ん? こうすると勢いよく抜けるんだよ」
「……聞いたことないですよそんなの 」
「ま、裏ワザだからな。 誰にも言うなよ」
この顔はきっと嘘だな、この人たまに訳のわからない嘘つくからな。
隣の水嶋はと言えば、レムの口内から黄色い液体が滴り落ちるのを、興味深げに見つめていた。




