相原慶太(14)はこの世で最も愚かな男を殺せるか。
この世で最も愚かな男を殺せるか?
結局、俺は自分を殺せなかった。
死ぬのが怖くて怖くて仕方なかったから。
ぼんやりとしていた死という概念が、はっきり現実の現象として認識できるようになっていたから。
人は死んだら居なくなる。 身体は灰になるまで徹底的に燃やされる。 至ってシンプルな話なのに、理解から遠ざけていた事。
『慶太、髪がボサボサだなぁ。 鬱陶しいだろ。 そろそろ切った方がいいんじゃないか』
そう言って親父は小遣いをくれた。
貰った千円札2枚を財布にしまってコンビニに向かい、無料の就職情報誌をかっさらって、学歴不問の仕事に片っ端からマーキングする作業を進める。 公園のトイレで、目を覆い始めてた前髪を、眉毛の上で真っ直ぐに切り揃えた。
日が暮れてから値引きの始まるスーパーに向かい、貰った二千円を使ってカレーの材料と、親父の好きなマグロの刺身を買って、駆け足でアパートに帰る。
空き容器や汚れた食器で埋め尽くされた台所に立ち、ギリギリ作業が出来るくらいまで応急処置を施すと、家庭科の調理実習で学んだ知識を総動員してカレーの創作に没頭した。
玉ねぎを切った後も涙と鼻水が止まらなくて、まな板や鍋に俺の出汁が落ちてしまわないように、何度も袖で拭いながら作業をした。
ハルとアキは俺が何をしているのか、見にこようともしなかった。 ただ何も言わずに、箸の置き場もないゴミだらけのテーブルを片付けて、磨き上げてくれた。
『慶太! お前、前髪まっすぐに切るだけで2000円取られたのか!?』
テーブルにカレーが並んだ時、親父からそんなツッコミは入らなかった。 本当はいつもみたいに、平凡なツッコミが欲しかった。
親父は俺が初めて作ったクソまずいカレーを食べて、なぜか子供みたいにぐずぐずと泣いていた。
『本当にダメな親父でごめんな。 ありがとうな。 ごめんな、慶太』
そんな風に呟いていたけど、俺にはその言葉の意味が全くわからなくて、返答を諦めてしまった。
結局、作った本人も唸ってしまうほどのクソまずいカレーをみんながお代わりしてくれて、あっという間に炊飯器と鍋は空になった。
——ありがとうな。 ごめんな、慶太。
なんで親父が感謝したり、謝ったりするんだろう。
本当に謝らなくちゃいけないのは俺だ。
母ちゃんが一番辛い時、人生最大の戦いに挑んでいる時、心無い言葉で追い込んでいたクズは俺です。 身勝手な理由、幼稚で短絡的な考えで、みんなの気持ちを汲み取ろうともせず、一番守ってあげなきゃいけない人や支えるべき人たちを蔑ろにしていたバカは俺なんです。
親父とハルとアキの前で、地面に頭をつけて謝らなきゃいけないのは俺なのに。
数日経って、アキは帰ってこない母ちゃんに待ちくたびれて泣きじゃくっていたし、ハルがアパートの駐車場でバットを振りながら泣いているのも見た。 涙はいつか枯れるものだと思っていたけど、俺はいつでも泣く事ができた。 少しでも心に隙があれば、涙を誘発する感情がどんどん雪崩れ込んでくる。 死への悲しみだけじゃない。 日常生活の全方位から、後悔とか、申し訳なさとか、罪の意識がにじり寄ってくる。
——俺は、毎日のように変化していく自分の身体が、嫌で嫌で仕方がなかった。
放っておけば馬鹿みたいに髪は伸びる。 爪だって伸びるし、身長もぐんぐん伸びていった。
生きていたいと願っているわけでもない。 生きている事に感謝しているわけでもない。
俺の意思とは無関係に、勝手に身体が生きていこうとする。 前へ、上へと進んで行こうとする。 こうやって価値のない人間に、無駄なものばかりが増えていく。
——どうしてだろう?
この無駄な生命力を、どうして少しでも母ちゃんに分けてやれなかったんだろう。
神様は母ちゃんをあんな細かい粉になるまで減らして、俺みたいなしょうもない人間のくだらない部分ばかり増やしてく。 それが虚しかったし、歯痒かった。
——母ちゃんに謝りたい。
でも、その前にしなくちゃいけない事が沢山ある事に気が付いた。 いや、本当は最初から気付いていた。 死んでしまおうだなんて、母ちゃんに謝りに行こうだなんて、現実から全力で逃げようとしてただけだ。
めちゃくちゃになった部屋を、あの頃と同じに戻したい。
みんなが好きだった母ちゃんのカレーを、完全に再現したい。
少しでも親父が楽できるように、仕事を始めたい。
ハルには新しいグローブを買ってやりたい。 アキが寝小便を何リットル漏らそうが、ドンマイ、と優しく微笑んで処理してあげたい。
あの頃の、母ちゃんが笑っていた平凡な毎日に少しでも近付けるように。 母ちゃんの魂が、安心して天国に行けるように。 みんなの笑い声が、向こうまで届くように。
親父とハルとアキが、ずっとずっと、平穏に暮らしていけるように。
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「ケイタぁ! 大丈夫か、おいー! 」
ナルセの声が遠くから聞こえる。
ナルセ。 俺の大好きな水嶋にちょっかいをかけようとしてる憎い奴。
……身体に力が入らない。 眼球の可動域分だけ周囲を見渡す。 足元に自分のスニーカーが転がっていた。 自分で脱いだのだろうか? わからない。 さっきまで三年前の出来事がフラッシュバックして、当時の映像と思考がごちゃ混ぜになって頭の中で暴れていた。
まだ酔っているような感覚が残っていて、気持ちが悪い。
「おいマジで大丈夫かよー!? どうしたん……あれ? 」
……現実だ。 ここは現実で、俺はこのナルセとかいうイキリシャバ憎に言ってやりたい事が山ほどあるんだ。 だから立たなきゃ。
過去のどろっとした記憶を自ら手繰り寄せて、勝手に肩まで浸かって、ダメージを喰らっている場合じゃない。
立て、立てなくても立て。 自分の力で。 こいつに弱みを見せるな。 負けても負けるな。
「だ、大丈夫に決まってるでしょ。 ちょっと幽体酔いしただけですよ……」
「……いや、ごめん。 どちらさまですか?」
「え? 」
「お前ケイタなの……? 」
あれ? なんだかやけに身体が重いと思ってたけど違う、服が重いんだ。 袖が余りすぎてキョンシーみたいになってる。
スニーカーが脱げたのは足が小さくなったからか。 ズボンもズルズルで、立ち上がろうとしたけれど転んでしまった。
「……さっきから、どういう現象なんだよ? 」
「俺、さっきどんな感じでした……?」
「震えだして過呼吸……みたいになったと思ったら、蒸気機関車みてぇに頭から煙を出して、そのまま墜落した」
「全然ピンと来ませんわ、すみません」
「ふらふら墜落してったし、こっちもちょっと一悶着あったから見失ったけど、狼煙が上がってたから見つかったわ」
「俺、まだ狼煙上がってますか? 」
「えっと……狼煙は上がってねーな。 だいぶ治まって、今は湯上りくらいの感じ」
「まだほんのり上がってるんかい」
やばい。 小さくなった事はもちろん、幽体のコントロールが覚束ない。 どういう事だ?
「ナルセさん、鏡とか出せます? 」
「当たり前だろ。 え、お前出せねぇの? 出勤前に鏡見て身嗜み整えるだろ普通」
「いや見ないです。 早く鏡出してもらっていいですか? 」
「“ナトリ” の安い姿見だけどいい? 」
「ヌトリでもネトリでもいいから早く出してもらっていいですか」
思いのほかしっかりとした作りの姿見を生成したナルセは、これ2980円なんだぜ? とドヤ顔を作り、俺より先に全身を映してユニフォームの着こなしを確認した。 思いっきり大腿骨に前蹴りをかませる位置だったけど、今の短い脚では届かない可能性がある。
「離脱後の年齢変化は聞いたことないわ、ははっ、なんかウケる」
ナルセを押しのけて姿見に全身を映す。
「……これ、小学生……? 10歳くらいか……? 」
我ながらクソほど生意気そうなチビだ。 中学に上がるまで、俺は同級生の中でもかなり小さい方だった。 何かを企んでいそうな眼光。 現在の俺とは違い、生き生きとした輝きを感じなくもない。 毛髪も比較的整っていて、多少天然パーマの片鱗は見えるものの、もっさり感はなかった。
「あ。 そう言えば……拡声器担当の猫はどうしました? 紫苑さんの」
「墜落してった時、お前の事ホーミングしてったけど? その辺に居るんじゃねぇの? あー、あとさケイタ。 ちょっと報告が」
周囲を見回してみたが、猫はいない。
路上駐車されている車の下なんかも覗いてみる。 もしかしたら紫苑さんの元に帰ったのかもしれない。 あのネコ言いたいことだけ言って逃げやがって、みたいな気持ちになったけど、そもそも仕組んだのは全部紫苑さんだな。
「ケイタ聞いてる? さっき俺、パック打ちまくってたじゃん? 」
「パック? あー、あの今川焼きみたいなやつ。 ……パッコンパッコン打ってましたね」
「今川焼き? 今川焼きってなんだっけ?」
「あ、大判焼きって呼ぶ人ですか? 」
「あぁ大判焼きの事な! あはは! 確かに大判焼きっぽいな! 」
「……そんで、どうしたんです? 」
「うん。 あれさ、例のクソ強そうなレムに偶然当たっちゃってたみたいで」
「へ? 」
「うん。 なんか食事終わって出てきたところだったのかな? パッコーン当たっちゃったみたいで。 そいつがまたクッソ攻撃的でさぁ、さっきからめっちゃ追いかけられてて……多分そろそろ見つかっちゃうんだけど……」
ポンコツイケメンはそこまで捲し立てると、緩慢な動作で振り返って後方確認をした。 再び俺に向き直り、片手を顔の前に掲げる。
「迎撃の方、お願いしていい? 」
「いや、アンタ目ぇ開いてます? 袖から手も出ない小学生にレムの迎撃お願いして恥ずかしくないんですか? 」
「いやいや、違うよ? 俺、急いでシオン姉さんたち連れて来ないとだからぁ……ちょっと時間稼ぎしといて欲しいんだよなぁ」
声がむちゃくちゃ震えている。
よく見たらコイツ、顎の下真っ赤だけどなんだこれ? 虫かなんかにやられたのか?
「いや逆でしょう、逆。 俺いま未曾有のアクシデントに見舞われてるのわかってますよね? 万全のアンタが時間稼ぐのが筋でしょうよ」
「いやー、なんつーか、ここだけの話よぉ? あんな強そうなレムさん見たの初めてだし? どう斬り込んでいいかわかんねぇっつうか。 まぁ……ビビってる訳じゃないけどな」
「うわぁ、何ウルってんだこの人。 あんたレムに追われてたとき高確率でチビってただろ」
「うるせぇなバーカ! 目がウルってんのは猫アルだよ猫アル、猫アレルギーだよ! 蕁麻疹も出てるし満身創痍なんだよ察せよ! 」
その時ナルセの背後にひょっこり現れたのは、レムではなくあの猫だった。 何処かに隠れていたのだろうか? 拡声器を抱えていないので、紫苑さんを呼びに行っていたのかもしれない。
「ミャーァオ! 」
「ウッ、ウワァァァァア!! で、出たぁぁぁあ! 」
「ちょっとナルセストップ! ちょっと、何攻撃してんすか、それレムじゃない! 猫ですよ猫。 紫苑さんの猫! 」
「猫だから攻撃してんだろうが! 離せコラァ! 」
猫はナルセが振り回すスティックをヒラヒラと躱し、再び可愛らしい鳴き声を放つ。
俺は錯乱したナルセを制止しつつ、がっしりと羽交い締めにした。
「聞いて、ナルセさん聞いて。 俺さっきまで人生変わるレベルのトラウマと3年ぶりに向き合ったの! だからちょっとそういうノリ一回辞めてもらっていいです? なんていうか、まだそこに向かって調整出来てないんで」
「猫コワイ猫コワイ……猫嫌いは人にあらず、みたいな風潮とかも合わせて怖い」
「おいナルセぇ! 目を覚ませぇ! 」
暴れていたホッケー選手が身体を震わせたのがダイレクトに伝わってきた。
「あ、漏らしました? 放尿の際の震えである事は明白ですよね今の」
そのお漏らしが意味するところ。
それは、レムとの会敵。
すぐ前方に視線を移す。 走り去っていく三毛猫ちゃん。 建ち並ぶビルの外壁には、レムの幼生が大群でへばり付いていた。
「……あぁ、あれは確かにやり手っぽいなぁ……」
目測で約3.5メートル。 ボブ達と殺った大型は横にもデカかったが、こいつは細身だ。 無駄な感情を食ってない。 洗練された身体に、美しいマーブル色。 バランスよく様々な感情を喰らってきた証拠だ。
「何あれぇ……何回見ても何あれぇって言っちゃうよぉ。 怖……くはないけどヤバいだろお? なぁケイタぁ」
「まぁ普通に大丈夫ですよ。 下にいてください、大きさが大きさなんで捌くのだけ手伝ってもらえれば」
「強がんなよぉ。 2人で逃げつつシオン姉さんお迎えに上がろうぜマジで。 ……うわぁレムこっち見てるわ目ぇ合わさんとこ。 パックぶつけただけでどんだけキレてんだよあいつ! 沸点低すぎてドン引きだわ、絶対友達になりたくねぇタイプだわそう思わない? コウタ。 ……あれ、コウタだっけ? ケンタ? 」
絶妙に、程よくパニックに陥っている。
少し前まで「女に戦わせない」という騎士道を説いていた体育会系とは思えない。
「ズボン、冷たくないですか? 」
「あ、いや、そんな一気に漏らしてないから。 おしっこタンクの容量が10だとしたらまだ3くらいしか出てない。 多段漏らしって言うんかな、うん、節目節目でちょっとずつ漏らしてる感じ? 」
「テンパるとむちゃくちゃ面白いじゃないですか、ナルセ兄さん」
ブレザーを脱ぎ捨て、ワイシャツ1枚になる。 下に関しては空中戦を展開すれば特に気にならないだろうと考え、脱がなかった。 小学生の姿とはいえ、パンツ一丁で戦うのに躊躇いもあった。
桃乃介に手をかける。 抜こうとしたその時、幽体になって初めての感情に襲われた。
——やばい、感覚が全然違う。 桃乃介が重い。 これはちょっと戦えないかもしれない。
そういえば水嶋の身体に入った時、なんであんなに順応出来たんだろう?
そんなこと考えてる場合じゃないな。
刀を構えて、振るう。
振るうと言うより振るわれた。
「あ、ナルセさん、すんません前言撤回。 一旦退避して紫苑さんを……あれ? ナルセさん? ……ふふっ! 」
ナルセは遥か後方で立ち小便をしていた。
後輩の前で恥をかかぬよう、おしっこタンクの残り7をゼロにするのが彼の最優先事項なのだろう。
あ、くだらないことを考えてたらレムに捕まった。 両手で包み込むようなスタイルで、桃乃介もあっさり完封された。
「ごめん、ナルセさぁん! 撤退! ……ちょ、これヤバイわ、殺られる。 あのー! ナルセさぁん!? フォロー来れますぅー!? 」
大声で叫んだ瞬間、ナルセとかいう首都圏一の腰抜け、日本を代表する薄情者が視界から消えた。




