水嶋の下着には、ちょっとしたヒラヒラが付いている
彼の本名は「田中 兼」
「田中くん」と一文字違うだけの名前を持つ彼は、周囲から様々なあだ名を付けられている。 俺の印象では、親密度が高い順に「けんちゃん」「けんけん」「けん」「たなけん」「田中くん」
彼の数ある愛称にはそんな序列が付いている。
……というのが、俺の認識だ。
つまり俺は田中くんと全然仲が良くない。あだ名と部活以外、何も知らないと言っても過言ではない。
その田中くんと保健室で二人きりだ。
俺は狸寝入りを決め込んでいるが、おそらく目の前のベッドに寝転んでいる。 俺は田中くんがベッドに入る直前に寝返りを打って、偶然にも彼のベッドの方向に身体を向けた自分を呪っていた。
怖いもの見たさでうっすらと瞼を開いてみる。気付かれないよう、ゆっくりと。
……一瞬で閉じた。田中くんは思いっ切りこちらを凝視していた。
「水嶋さん……やっと二人きりになれたね」
……いや、怖い怖い。 なんだこいつ!?
睡眠薬とか盛って女を監禁するタイプのサイコ野郎が使う常套句を……サラリと呟きやがった。
俺は様子を伺うべく、枕に埋もれた左眼だけをうっすらと開く。 ……ダメだ、めっちゃくちゃ見てる。視線で水嶋に穴開けようとしてるのか? ってくらい見てる。
その田中くんの顔面が相当ヤバイ。
普段から「こいつヌートリアみたいな顔してんな」とは思っていたけど。 腹痛に耐えるげっそりとした表情も相まって、見るに耐えない感じに仕上がっている。 そういえばうちの爺ちゃんが危篤の時に病院のベッドでこんな顔してたな。
途方も無い恐怖を感じていた俺は、そのまま寝たフリを継続した。
「やっと……二人きりになれた」
……二回目! 爺ちゃんを連想する余裕があるくらいの絶妙な間を挟んで……二回目をぶっ込んできた! 正気かこいつ……。 なんでスヌーズ機能オンにした?
……もしかして水嶋の反応を伺ってるのか……? 本当に寝ているのか、確認をしている?
「水嶋さん、相原の、あんな奴のどこがいいんだ? ……いつもあんなに楽しそうに喋って。僕には見せることのない笑顔を……彼には見せてる。僕はね水嶋さん、君が好きなんだよ。あの日から、ずっと……」
……恋愛小説のモノローグ並みの赤裸々さで語り始めたな。 本当に俺が寝てると思ってるのか?
寝たフリだったらそれはそれで思いが伝わるからいいって事か? まずいぞ、なんだかオセロで角三つ取られた時みたいな気持ちになってきた。
田中くんって水嶋のこと好きだったんだなぁ。俺と水嶋の絡みをそんな風に見てたのか。
どちらにしてもこの状況は色んな意味で俺の精神汚染が進み過ぎる。目を覚まそう、寝ていて何も聞いてなかったという芝居をすればいい。
……でも、もし田中くんが追撃してきたら? その可能性は大いにある。
『水嶋さん、今の話……聞いていたかい?』
『いやっ、寝てたから何も』
『じゃあもう一度言うから、聞いて』
そんな展開になったらどうする……?
果たして俺は正気を保っていられるか……というか、笑わずにいられるか?
俺に田中くんの追撃を受け流す対応力はない。突っ慳貪にしたり、下手な返事をしてしまったら水嶋のイメージにも関わってくるし、俺が田中くんと水嶋の関係に干渉しても、良いことは何一つない。
いや、何より怖いのはこれ以上の接近を許す事だ。俺がこのまま寝たフリを続けていたら、トチ狂ってキスとかしてくるんじゃないか?
そんな事になれば俺が想像する限り最も残酷な寝取られ展開になるし、そもそも田中くんとキスとか、想像するだけで胃の中の物が込み上げてくる。
うん、やっぱり目を覚まそう、速攻でトイレに立って先生の帰りを待つ!
その時、勢いよくドアを開く音がした。
「優羽凛ー!!だーいじょーぶかー?」
俺はカッ!と目を見開いた。
目の前の田中くんは既に目を閉じていた。狸寝入りへの切り替えが早い。さっきまで1人でペラペラ喋ってた癖に。
それにしても、なんて良いタイミングなんだろう。
ベッド脇のカーテンが開かれた。水嶋の親友である、バレー部の樫本紗江子が体育着姿で現れた。少年のようなベリーショートの髪型が似合う、八重歯が特徴的な元気娘である。
「ゆーりぃ、珍しいなぁ! 風邪か? 熱でもあるんか?」
「うん、大丈夫だ。ちょっと寝不足だったのかも」
「あれ……。 タナケン寝てんじゃんか。そういえば、こいつはどうしたん?」
樫本は隣の田中くんに気付いて、少しだけ声のトーンを落とした。
「なんか、生牡蠣にやられたらしい」
「生牡蠣? あぁ、当たるとヤバイっていうもんね……」
樫本は下を向いて、肩を震わせている。
「……超ウケる」
ウケるな。 肩を弾ませて笑うな。 田中くんは起きているんだぞ。
「ゆーり、熱あったん?」
「へ?」
完全に忘れていた。樫本の視線を追うと、花瓶が乗ったサイドテーブルに体温計が置いてある。
「完全に忘れてたわ」
「忘れるってどういうことなん」
続いて新岡先生が戻ってきて、「水嶋さぁん、体温測ったぁ?」と声を掛けてきた。
「この子、忘れてたとか言ってますわ。先生」
「あらぁ、樫本さん? いらっしゃい。水嶋さんは早く測っちゃいなさいねぇ」
雑念が多すぎて意識の外に追いやられていたが、体温を測るということは……。
突然、心拍数が跳ね上がった。
「ほれ、ゆーり」
樫本が体温計を差し出してきた。
「あー……えっと……このリボンってどう外すんだっけ?」
「何それ、ボケ? 面白くないぞ」
俺がリボンを外そうと襟元をまさぐっていると、「相原に優しくエスコートされてパニクってんのかぁ?」と言いながら、樫本が俺の首に手を回してきた。
おほぉ……体育着を身に纏った女子の臨場感がエゲツないよぉ……。
俺は樫本にリボンを外してもらうと、一呼吸置いてブラウスのボタンを外した。
「ゆーり、どうしたんだい固まって。ブラしてくるの忘れたんか」
「いや。 とても素晴らしい下着だな、と思って」
樫本の笑い声が遥か遠くから聞こえてくるような感覚に襲われた。
俺は何を言っているんだ? 今、声を出したのは俺じゃない。俺の下半身だ。表層意識からかけ離れたところから発せられた言葉だ。
「マーベラス……」
「んぇ、なんて? マイコラス? いいからはやく測れよぅ」
俺は目を閉じて天井に顔を向けながら、脇の間に体温計を滑り込ませて、挟み込んだ。
加速した精神と胸の鼓動を諌め、安定させろ。本能から発せられた叫びに蓋をするんだ。それが水嶋への礼儀であり、直前に愛を告げた田中くんの為でもある。
ピピッ、と体温計が勤務終了を告げる。
俺は「無」の精神で脇からそれを引き抜き、表示された「36.3」という数値を確認する。
「平熱だぜ……? 樫本紗江子さんよ」
俺は樫本に体温計の表示を掲げた。
「あ、うん。 ゆーり……。 鼻血出てるぞ」
一時、保健室は騒然となった。
「その騒がしさを受けて目覚めました」という、俺しか見ていない芝居を一つ挟んだ田中くんが、
「水嶋さん大丈夫かっ! すぐに戻ってくるからな!」
と言いながら腹を押さえて保健室から飛び出して行った。波が来たのだろう。
俺はその間、ブレザーの内ポケットから振動を感じていた。多分、水嶋のスマートフォンが震えているのだ。
好きな女子の下着と胸の膨らみを直視したくらいで鼻血を出すなんて、中学生にも起こり得ない生理現象だ。 許されるのは少年漫画の主人公までだよ。
——俺はきっと、童貞界に燦然と輝くピュアな精神の持ち主なんだ。
そんな事を考えながら鼻にティッシュを詰め込み、ハンドボールの授業に心を弾ませる水嶋を想った。