紫苑さんとの打ち合わせドライブ
俺たちはそれから、アパートと駅の道のりをもう一往復した。 途中から水嶋には足を存分に蒸らしてから嗅ごうという匂いフェチの極致ともいえる思惑があるのではないかと疑ったが、俺には『嗅いでる所を見せてくれ』なんて言える度胸はなかった。
会話が途切れても沈黙がちっとも苦にならなくて、二人で漠然と話をしながらテクテクと歩いているだけの時間が、ただただ夢みたいに楽しかった。
「そろそろママが心配する時間かも」
2度も折り返しをしていた踏切で立ち止まったとき、水嶋がスマホを取り出してそう言った。
「俺やっぱり元に戻りたいし、考えてどうにかなる問題じゃないかもしれないけど、色々やってみようと思う。 水嶋はどうだ? そろそろ飽きただろ」
「飽きてはいないけど……今日はね、『あ、このタイミングで戻らないかな』って思うことが多々あったよ」
「……そっか。 なんとか戻れるように頑張るな」
「頑張らなくていいよ」
こっちを見ようとはしないけど、鼻の下を指の腹で擦りながらにやにやしている。
「自然が一番。 頑張るっていうのは、実は不自然なことなんだよ」
水嶋はたまによくわからないことを言う。 俺の頭が追いつかないのか、彼女の思考が飛んでいるだけなのかはわからない。 でも、それを後で考えるのが楽しかったりもする。
「私さぁ、実は戻り方知ってるんだよね」
「なんだよ? なんか知ってるのか」
「そりゃあ、魔法をかけた張本人だから」
電車の音で語尾がかき消された。
踏切のバーが開き、待っていた人達が俺と水嶋を追い越していく。
「じゃあ帰るからな。 ……今日はありがとう。 実は遊園地なんて10年振りくらいで……本当に楽しかったよ。 なんかあったらメッセージ入れてくれ」
「うん、また明日」
「帰り気をつけろよ」
「うん、気をつける」
踵を返し、足元に注意しつつ、踏切内に侵入した。
「相原くーん! 」
呼び止められて振り返る。
「夜中、遊びに来てくれてもいいんだよ」
水嶋はそう言って、フードを両手で目深に被った。
「おう、抜け出せたらな!」
「水嶋家は深夜の外出に厳しいぞォ! 」
俺が片手を上げると、にっこり笑って両手を振り返してくる。 再び安全バーが下がって、それからは振り返らずに駅に向かった。
ホームで電車を待っていると、車両が滑り込んでくると同時に、紫苑さんから着信が入った。
【うぃー、お疲れぇ】
「どもども。 こんばんは」
【あれぇ、戻ってないんだ? 】
紫苑さんは俺たちが元に戻っているつもりだったのだろうか。 俺が発する水嶋の声に驚いた様子だ。 一本電車をスルーして、紫苑さんと通話を続ける事にした。
【今一人? どこにいんの。 ゆうりちゃんち? 】
「さっき水嶋と別れたところです。 ちょっと出掛けていて……今から電車に乗って水嶋家に帰ります」
【ほう、ゆうりちゃんちの最寄ってどこなの】
「高座桜ヶ丘ですね」
【あー、今近くにいるから迎えに行ってやるよ。 話もあるし、家まで送る。 ロータリーで待ってな】
「あ、本当ですか? 助かります。 ……酒飲んでませんよね? 」
【お前、私のことアル中だと思ってるだろ】
電話が切れた。 遅くなってしまったのでタクシーを呼ぼうと考えていたから、ありがたい提案だ。
次の電車に乗り込んで、高座桜ヶ丘で降りる。 ロータリーに向かい、一般車の送迎場所で待っていると、すぐに見慣れたミニクーパーが入ってきた。
「すみません、わざわざ寄ってもらって。 お願いしますぅ」
助手席に乗り込む。 車内には紫苑さんの好きな洋楽のロックバンドの曲が慎ましく流れている。 俺は乗り込む前から身構えていた。 きっと昨晩のことを色々と詮索されるはず。
「おう。 ……ん? ゆうりちゃんてそういう格好するタイプなの? 」
すっかり忘れていたポイントを突かれた。
「え? あぁ……これね。 むりやり着せられたんですよ。 気にしないでください」
無事回避。 車はロータリーをぐるりと回って駅前通りに合流した。
「つーかお前、なに上手くなってんだよ」
「上手くなった? 何の話です? 」
「待ってる姿とか立ち振る舞いが完全に女子だったんだが」
そう、俺はすっかり美少女である事実を自分のものとし、相原慶太の時には考えられないくらい周囲の目を意識して振る舞う習性をこの肉体に馴染ませていたのだ。
「はぁ。 このジェンダーフリーの社会で立ち振る舞いに男も女もないですよ、時代錯誤も甚だしい。 大学院生が聞いて呆れますね」
「なんだなんだ、生理か? 」
無事回避。 ……いや、そうか。 全く意識していなかったけど、その問題もあるのか。 俺は生理という現象を文字でしか知らない。想像するのも悍ましくて憚られるレベルだけど、水嶋の方からいまだに言及してこないということは、まだ準備をしておく段階ではないのかもしれない。
これはいよいよ早急に元に戻らないと、精神的なダメージに耐えられる自信がないぞ。
有部咲紫苑……厄介な女だ。 今や夢見心地で女体を操っていた俺を一気に現実へと引き戻す術を心得てやがった。
「昨日、幽体離脱らしいじゃん」
「あ、そうなんですよ。 水嶋は暴れるし、レムも多いしでバタバタでした。 誰に聞いたんです? 」
「しらすちゃんだよ。 で、今晩はどうすんの? 」
「水嶋も抜けたらとりあえず保護して……うーん、一緒にまた駆除するしかないだろうなぁ」
赤信号で停車し、紫苑さんは電子タバコを取り出して操作する。 トウモロコシが焼けるような、香ばしい独特の匂いが車内に広がった。 すると、思い出したように後部座席に身体を伸ばし、タブレットを持ってきて体勢を整える。
「ほい、今日の警戒区域な」
差し出されたタブレットには祥雲寺エリアのマップが表示されていて、赤枠の円と、一回り小さい青枠の円が記されている。
青の方は昨夜ボブと入っていた警戒区域、鵜ノ森団地だ。
「また自殺ですか? いや、それにしては範囲が広いか」
「ニュース見てない? 子供が2人居なくなってて、1人が死体で見つかった。 もう1人はまだ行方不明だ。 ヘルプは事前要請しといたけど、私も出ることになりそうだなぁ。 昨日並みに大量発生したら手が回らん」
「子供か、やばいですね。 もう1人も死んでそうだ」
「配置はどうしようかね? 」
「ヘルプはどこの支部から? 」
「嘉瀬寺、阿多良サイクル、清涼西小からそれぞれ一隊。 江戸川卓球センターから私のサポートを1人呼んでる。 あんまり期待は出来そうにないなぁ」
「それだけ呼べば余るくらいじゃないですか? でも警戒区域は祥雲寺から付かせた方がいいですね。 国道358号線を挟んで東側にアイカの部隊、西側にくーさんの部隊かな。 あとは広範囲に索敵の出来る幽体を1人づつ、密集した住宅街を中心に走らせる。 これはヘルプさんから選んでもいいですね」
「んー、無難かなぁ、それでいこう。 でも土曜の夜だから絶対に欠員出るんだよな、アイカなんて本当アテにならないから」
「欠員は紫苑さんが埋めればいいじゃないですか」
「やだよ他の隊のフォローなんて。 絶対サボる奴出てくるし。 私は単独遊撃部隊だから」
昨日紫苑さんが路肩に寄せて止まった場所に差し掛かると、水嶋家までの案内を頼まれた。 道路は交通量が多く、あまりスムーズとは言えない流れだ。
「今日は何してたんだよ? 」
「遊園地に行ってました。 えっと、凪町の……」
「コスパ? 」
「あー、そうそう。 コスモパーク」
「ふはは、緊急事態のくせに普通のデートしてんじゃねぇよ」
「強引に連れてかれたんですよ。 まぁ、全力で楽しんだ俺が言うのもあれですけど」
「ゆうりちゃんも思いっきり楽しんでんなぁ」
「凄いですよね、あいつ」
「実はゆうりちゃんが、誰かと魂をスイッチできる入れ替わり能力の持ち主だったりしてな」
「もしそうなら俺なんかと入れ替わらないでしょ」
信号が青に変わっても車は動き出さなかった。 運転席の方を見ると、不思議そうな表情を浮かべた紫苑さんと目があった。
後続車から短いクラションが鳴る。
「あぁ、悪い悪い……。 うーん、もし別のやつと入れ替わってたら彼女はどうしたかね」
「きっと同じですよ。 全力で楽しんでヘラヘラしてる」
しばらく沈黙が続いた。
車外には既に夜の帳が下りていて、街は土曜だけあって人通りが多い。
俺が道順を指示すると、紫苑さんは無言でハンドルを切る。 それを何度か繰り返した。
「一体、どうしたら元に戻るんですかね」
「元に戻らなくてもいいだろ。 ゆうりちゃんはむちゃくちゃ楽しそうだし、お前はあの冴えないビジュアルから解放されて美少女に進化した。 ウィンウィンだ」
「……何言ってるんですか。 でもなんとなく紫苑さんは、俺たちが元に戻るのを確信してる節がありましたよね。 他人事なだけですか? 」
「確信? してない、してない。 入れ替わりなんて漫画とか映画でしか知らないし、完全にファンタジーの領域だもん。 何もわからないから楽観的なスタンスを見せてるだけだよ。その方がお前らも安心できるだろ? 」
「なんか嘘ついてる顔だなぁ。 うーん、どうだろう、心配された方が嬉しいですよ」
「そうそう、昨日、お前らが帰った後に思い出したんだけど……むかーし見た入れ替わり物の演劇では、入れ替わった時と同じ状況を作って元に戻ってたな」
「どんな状況ですか? 」
「暴風雨の中でな、精霊の宿る御神木の下で2人で立ちションして、おしっこをクロスさせるんだよ。 そんで、雷に打たれる」
「その脚本家は今ごろ路頭に迷ってるでしょうね。 あ、紫苑さん。 その信号を左です」
「現実はそうはいかないよな。 もっとこう、一体なんだったんだろう、みたいなモヤっとした感じで終わる気がする」
「フィクションとしては最悪の終わり方ですね」
「そう? 私は嫌いじゃないよ。 あとはご想像にお任せします〜みたいな終わり方」
「よくありますよね。 でもそれ、なんか物語に逃げ切られた気分になりません? 」
「物語に逃げ切られる」
紫苑さんはその言葉を2回言い直して笑った。
車は住宅街を入っていく。 水嶋家の前の道は一方通行だったらしく、その手前で停車してもらった。
「ありがとうございました紫苑さん。 また夜中、幽体で」
「……あのさ、今日、幽体離脱しても無理して合流しなくていいからな」
「え、どうしてですか? 」
「出くわしたレムを仕留めてくれれば、それでいいよ」
「よくわからないですけど、まぁ幽体離脱してから考えます。 どうなるかわからないし……何もかも」
「一寸先は闇か。 世の中はわからないことだらけでかったるいな」
「闇なら希望がありますよ。 暗くて見えないだけで、足元に百万円が落ちてるかもしれないし」
「足元が崖じゃないといいな」
「……今日の紫苑さん、なんかいつもと違いますね。 気のせいかな? 」
「……またな、おやすみ慶太。 百万落ちてたらちゃんと拾うんだぞ」
「はは、ありがとうございます。 おやすみなさい」
紫苑さんの車がゆっくりと走り去っていく。
手を振ると、パッ!と短いクラクションで返してくれた。




