〝保健室の攻防〟
俺が先に保健室へ足を踏み入れる。 田中くんの姿を確認した瞬間に振り返り、後に続く水嶋を制止した。
「みずし……相原くん! ここまででいいぞ。ありがとうな! 君は授業に戻りたまえ……! 」
「嫌だね。 僕も少し頭が痛いからサボっていく」
こいつ今、堂々とサボっていくって言ったな。百歩譲って診てもらう、だろう。 俺はその場にいる全員に聞こえるくらいの舌打ちを響かせた。
「私の姿で舌打ちとかやめてよね」
今日一番のか細い声で水嶋が囁く。
「だったら鼻毛を抜いてよね!」
今日一番の声量で答えてやった。
「なぁにどうしたの、2人とも。みんな具合が悪いの? 今日のB組は呪いでもかかってるのかしら」
保険医の新岡先生が、まったりとした口調で言った。 そうです、今日の2-Bは呪われているんです。先生。
新岡先生は特別美人というわけではないが、若々しくとても理知的で、穏やかな人柄と滲み出る色気によって、男女問わず生徒からの絶大な人気を獲得している「保健室の女神」である。
「水嶋さん……」
田中くんがげっそりとした顔をこちらに向けていた。あ、そうか俺が水嶋なんだ。こいつは今、水嶋を見ているのか。ええと、なんて言えばいいのだろう。 とりあえずふわっと心配しておけばいいか。
「田中くん、大丈夫か?」
「うん……昨日パパと食べた……生牡蠣にやられてしまったみたいでね……パパの誕生パーティだったんだ。パクパク食べてしまった。迂闊だったよ」
そうか、牡蠣に当たった腹痛で半狂乱になっていたんだな。可哀想に……。
どうでもいいけどパパパパうるせえなこいつ。それより、よく恥ずかしげもなくパパとか言えるな。俺たちもう高校2年だぞ田中くん。恥じらえよ、パパをパパと呼ぶことを恥じらえ。
「生牡蠣って、当たるとそんなにやばいの……?」
水嶋ぁ! ただの食あたりだ。 深刻そうな顔で話を広げなくていい。 お前は迅速に教室へ帰れ!
「生牡蠣は一発当たると、屈強な男でも二度と生では食べれなくなる程の破壊力を秘めているのよ」
先生、その情報の真偽は問わないけど、どうかそいつにだけは絡まないでください。
「で、水嶋さん。顔真っ青ねぇ。大丈夫?」
俺は先生のいるデスクの前に進んで、小さな丸椅子に腰かけた。
「あのぉ……ちょっと、身体が……」
えーと、なんて言えばいいんだ? 顔が真っ青なのは、この非日常的な状況と先の見えない現実に絶望しているからだ。どうしよう、当たり障りなく「風邪気味」でいくか。うん、それでいいな。
すると新岡先生は、田中くんと水嶋をちらりと見てから、俺の耳元に顔を寄せた。
「……重いの?」
「……重い?」
重い!?何が!?
この状況に対する俺の気持ちは重いけども!
苦し紛れに水嶋の様子を伺うと、ブレザーを脱いでシャツの袖をまり、前腕の筋肉の稼働を確認している。何してるんだあの野郎。 視界の隅で田中くんは、長椅子に寝転んで腹痛に悶え苦しんでいた。
「いや、あのぅ……ちょっと昨日から風邪気味で……怠くって」
「ふむ、そのほかは? 吐き気とか頭痛はない?」
「あ、はい。そんなに酷いわけじゃないんです」
「じゃあとりあえず熱を測ってみようか。ベットに横になる?」
「あ、すみません、ありがとうございます」
寝れる。 やったぁ! よし現実逃避だ、全てを忘れてまずは寝よう。勝負は放課後なのだ。 その為に体力の回復・温存を図ろう。
俺はすぐさまベットに滑り込んで布団を被り、枕に顔を埋めた。
「で、相原くんはー? 水嶋さんに付き添ってくれたんでしょう? ありがとうね。でも、サボりは許せないからねぇ」
「うすっ! 自分、保健委員っすから。当然の務めっす」
水嶋ぁ……もう余計なこと喋らないでくれ。俺はな、そんな体育会系のノリで喋るタイプの人間じゃないぞ。 知ってるだろ? ボソボソ喋れ! 慎ましく!
「新岡先生、自分の筋肉……どうっすか?何点っすか」
「あら、相原くんって見かけによらずいい筋肉してるのね。もっとひょろっとしてる印象だった」
「見てくださいよこの上腕二頭筋。結構逞しいでしょ? 75点くらいあるんじゃないすか」
「うん、いいかも。でもどちらかと言うと私、筋肉よりもこの血管が好きなのよね。前腕に浮かぶ血管。飲み会とかで男性の手が目の前に来た時、ちょっとドキッとする」
「ちょっと新岡先生、くすぐったいっすよ! やめてください! ははは!」
こいつ……俺が未だ体験した事のない戯れ方で「保健室の女神」と絡むんじゃないよ畜生め。 声だけ聞こえるのが逆にもどかしいわ。 俺だって上腕二頭筋触られたいよ。 はぁ〜あ、 そろそろおっぱいでも揉みしだいたろうかな。
「おい!! 相原ァ!!」
あれ? なんだ? 田中くんが唐突に絶叫した。俺の名前を叫んでる。 今の相原は水嶋だぞ、なんて言うわけにもいかないし、そもそも俺と仲良いわけじゃないのによく簡単にブチギレたな田中くん。
「相原、お前……この状況を理解しているのか……? ここには2人の病人が居るんだぞ。 僕はまだしも、水嶋だって苦しんでる! お前はこの場にいるべき人間じゃない。思いやり、という言葉を知っているか? 今すぐ辞書で引いてこい、この無神経野郎!」
ごもっともだ。 水嶋の悪ふざけが、腹痛に悶える田中くんの逆鱗に触れたらしい。
へぇ、田中くんってそんなに激しい感情を露わにできたんだなぁ。 学年に三人くらい田中って苗字の生徒が居るけど、『最も静かな田中』って言われてるの聞いたことあるぞ。
でも言っている事は正論だし、水嶋への優しさに溢れている。 水嶋は田中くんのこんな優しい一面をどこかで知って、気になり始めたのかもしれないな。
そんで、相原が結構ボロクソに言われてるわ。そこそこ的確にディスってきてると思うし、中身は水嶋だけど俺に程よくダメージが入ってる。水嶋と体力ゲージ共有してる感覚に陥ってる。
あぁ。 なんかもうキッツイわ、精神的に。
「な、なんかごめんね、田中くん……」
あら水嶋さん、今日1番の素直さで謝りましたね。
それは謝るかもしれないけどさ……。
お前は俺の鼻頭に偶然ヒジぶつけちゃった時も爆笑してたよなぁ? 鼻血出してる俺を見て「鼻低くなったらサーセン」とか言ってふざけてましたよね。 あぁ、風船のように膨らんでいた恋心に極太の注射刺された気分だ。
水嶋がおとなしく去った保健室は静まり返った。
俺はちょっとだけ泣いていた。
チャイムが鳴って、授業の終わりを告げている。新岡先生が薄緑色のカーテンから顔を覗かせて、「ごめんなさい、ちょっと10分くらい出るけど大丈夫?」と尋ねてきた。
「大丈夫ですぅ……横になっていると随分楽なので」
「うん、すぐ戻ってくるから。体温計置いておくね」
俺は寝返りを打って目を瞑った。
「田中くん、あなたもしんどかったらベッドに横になっていいんだからね」
……え?
先生が出て行くと、一瞬で田中くんが隣のベッドに潜り込む気配を感じた。