おやすみ、奇妙な素晴らしい世界
みんなに手を振りながら2人で団地を離れていくと、水嶋は「楽しいねぇ」と何度も声をあげながら踊るように宙を舞っていた。
「ボブは大丈夫かなぁ」
「大丈夫だよ、俺たちは痛みに強いから」
「もしあのまま食いちぎられてたらどうなる? 」
「食いちぎられる苦しみをじっくり味わって、夢から覚める。 それだけ」
「全然『それだけ』って過程じゃないね。 私も食いちぎられないようにしなきゃ」
「大型レムの解体見たかった?」
俺が声をかけると、彼女はくるっと身体を反転させて笑顔を向ける。
「うんにゃ、それは別にぃ。 みんなともっと話してみたかったけど……まぁいいのだ! それはそうと、私は慶ちゃんに乗りたい」
俺に見せたことのないようなだらしのない笑顔を恥ずかしげもなく振りまいていた。 その新鮮な表情と『慶ちゃんに乗りたい』というアドレナリン分泌促進ワードに唆そそのかされて、指示されるがままに彼女を身体の上に乗せた。
静まり返った街。 アスファルトや建物を這う虹色のレム。 どこまでも続く人工的な灯り。 夜空には薄雲に滲む月。
視界に入ってくる膨大な情報の中で、たかだか20㎝×15㎝くらいの小さな顔面が、群を抜いて価値のあるものに思えた。
この笑顔を独占したい、いつまでも守ってあげたい。 そんな風に、臆する事なく主張できる日はやってくるのだろうか?
夜な夜なレムを〆て、感情の色を抜き、トコロテンにする。 決められた手順に沿って解体し、『黒』を取り除く。 俺が毎晩のように没頭している作業には、現実では決して味わうことの出来ない爽快感がある。 現実でどれだけ打ちのめされても、この幽体で飛び回り、レムの駆除に没頭する事で全てを忘れる事ができた。
それはただ単に、向き合わなくてはならない問題を心の隅っこの方に追いやって、一時的に見えないフリをしているだけだ。
そんな事はもちろん自覚しているけど、心を守るための機能として絶大な効力を発揮しているのは確かだったし、それがなければ俺はもっと不安定な精神状態のまま、落ち着きのない毎日を過ごしていると思う。
実生活に、全てを忘れて没頭できるものなんてない。 だからこそ俺はレムの駆除が好きだし、レムという存在に敬意すら払っている。
さっきの大型も最高に面白かった。 後処理の工程を頭の中で組み立て、作業をイメージするだけで楽しくなってくる。 あの個体は牙の形状も身体の形も珍しいもので、ボブの部隊とシラスが処理に苦戦するのが眼に浮かぶようだ。
だから、彼達の前で自分自身がとった行動に内心では驚いていた。 自分で仕留めたレムの後処理を誰かに任せる、という選択をするのが初めてだったからだ。
想像するだけで楽しい大型の処理。
俺が居れば解体は倍以上のペースで進むだろう。
何故それをあっさり他人に任せて、すぐにでもあの場を離れたかったのか。 考えるまでもなく答えは目の前にあった。
……俺は水嶋優羽凛を独占し、彼女に没頭したかったのだ。 むせ返るほど甘ったるい言葉で言えば、ふたりきりになりたかった。
これ以上考えていると水嶋に執着し始めている自分がちょっと危険な人間に思えてきそうなので、瞼を閉じて飛行に集中する事にする。
「気分はどうだい? 慶ちゃん」
真上から水嶋の声。
「おかげさまで悪くはないぜ」
再び瞼を開く。 パジャマ姿の美少女が、仰向けになった俺の腹の上に仁王立ちして、風に髪をなびかせている。 腕を組んで進行方向を見据える瞳がとても凛々しい。 その立ち姿はまるで【我、この世界の頂に君臨せし者なり】と主張をしているような荘厳ささえ感じさせた。
一方の俺は簡単に言うと、マントをはためかせながら飛んでいるヒーローをくるっとひっくり返した姿だ。
飛行担当のキャラクターというのは様々なファンタジーにおいて活躍する。 ヒーローでも布の妖怪でも、ドラゴンでもいい。 それらは皆、背中に味方を乗せる。 何故なら彼らは見栄え良くデザインされた生物であり、画的にも機能的にも、それが最も合理的な空輸方法だからだ。 しかし、ドリーム慶太はそんじょそこらの『飛行キャラ』とは違う。
仰向けという無防備な姿でマイヒロインを腹の上に乗せ、醜態を晒しながらホバーボートと化すことで、世の飛行キャラ達に格の違いを見せつけていくスタイルを採用している。
尤もっともこれは、水嶋のアイディアに俺が乗った形だ。
『待てよ……? 仰向けってのはどうだろ……うん。 慶ちゃん、ちょっとひっくり返ってみようか? 』
挑発的で挑戦的な指示を放り込んできた水嶋に対し。
「なるほど。 逆にね」
俺は即答した。
「うん。 あえてね」
彼女は無邪気に笑った。
まんまと仰向けになった俺の身体に立った水嶋は、初めて波に乗ったサーファーのようにぎこちなくバランスを取っていた。 しかしすぐに感覚を掴んだようで、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべて腕を組むと、【我、この世界の頂に君臨せし者なり】をピシリと体現したのだ。
美少女に足蹴にされ、支配されている感覚。 俺は従順な下僕として彼女の専用ホバーボート……ホバーケータに成り下がっている。
本来屈辱的とも言えるこの体勢だが、これが厄介なことに……不思議と悪い気がしない。 もしかして俺は潜在的なドMだったのだろうか? ゴリゴリのマゾヒスト根性を胸に抱えたまま、『性癖は割とニュートラルな人間ですよ』みたいにすっとぼけた顔をして毎日を過ごしていたのだろうか? ハハッ、とんだ道化師ピエロだ。
しかし思い返してみると、マゾヒストとしての片鱗は随所で垣間見えていた気もしなくはない。
これは『性の目覚め』とは似て非なるもの。 もう一段階上のステージ……と言ってもいいだろう。
——俺には聴こえる。
……否、俺にだけ響いてくる音。
穏やかに流るる清流のせせらぎのような。 あるいは、木漏れ日を揺らす木々のさざめきのような。
——『性癖開花の音』がする————。
「なんで白目剥いてんの」
「……えっ! 白目剥いてた?」
「まぶたも痙攣してた。 スタンガン喰らってる人みたいに」
「スタンガン喰らってる人見たことあるの?」
「ないけど」
会話が止まる。 ……この間と、冷たい視線が怖い。
「あの……いや俺、あれだから。 振り切ったやつじゃないからね。 Mかもしれないけど、本意気の打撃とかで盛り上がるガチ勢ではないって事は先に言っとく。 比較的マイルドなやつだと思う。 うん、マイルド。 マイルドマゾ・マインド。 それにさ、攻撃的な態度をこっちから要求したりなんかはしないよ。 もっと罵ってくださいとか絶対に言わない。 だから怖がらないでほしいんだ」
「理解が追いつかないんだけど、助走なしで大跳躍するのやめてくれない?」
唐突に産声を上げた性癖に戸惑い、思考がバーストしてしまった。 水嶋はそんな俺を蔑んだ目で一瞥すると、すとん、と腹上に座る。
これはかの有名な『騎乗位』のポジショニングだ。 ……いや、『マウントポジション』の方が正確か。
「慶ちゃんちょっと膝を立ててくれる」
「膝を立てる? なんで? 」
「背凭せもたれにしたいから。 膝を立ててくれれば寄りかかれそう」
「あぁ、なるほど。 こんな感じか?」
「さんきゅう。 あー、しっくりくる」
仰向けのまま膝を立てると、水嶋はそこに背中を預けて夜空を仰いだ。 風圧で髪の毛が後方に流れ、靡いている。
「“ユリエルと空飛ぶ椅子”だねぇ」
「ユリエルってなに?」
「“大天使ユウリエル”。 略してユリエル」
「そっか、お疲れユリエル。 でも空飛ぶ椅子は的確じゃないだろ。 空飛ぶ“人間椅子”な。 二文字追加するだけで一気に不穏な空気が漂ってくるなぁ、堕天使様よ」
「よく喋るなぁ。 なんで急にテンション上がってるんだろ、この変態は」
「ミズシマのSはドSのSだな」
「ミズシマからSを抽出するのは無理があるでしょ。 慶太のKはクレイジーのKかね」
「……水嶋さんそれ天然ですか? crazyクレイジーはCですけど。 ちなみにワタクシの名前にCはございやせん。 あいはらけいた。 Cはどこを探してもございやせん。 ハハッ! 残念! ……んおぉ!? ひぃ、いぎぃ!」
水嶋は笑うでも怒るでもなく、ただただ冷酷な無表情のまま、俺の乳首の僅かに横を抓つねりあげている。 乳頭への直撃を免れたのは不幸中の幸いだったものの、両手で抱えた頭の中は下ろしたてのシャツよりも真っ白になった。
「おい慶ちゃん、どこに向かっておるのだ?」
痛みに悶絶し、溢れ出る涙を袖で拭っていると、顔を急接近させて尋ねてくる。 あてもなく飛んでいた気でいたけど、無意識に祥雲寺への直線上を飛行している事に気付いた。
「これ祥雲寺の方向だ、ごめん」
「うん、それも別にいいんだけどさぁ。 ちょっとそこに寄っていかない?」
コンビニ寄ってかない? くらいのニュアンスで示した視線の先にあったのは、建設中の高層ビルだ。
「なんで? あれ何が建つの? この辺よく来るのか? 」
「何が建つかは知らないし、この辺に来ることなんて滅多にないよ」
追求しようと思ったけど、彼女の真剣な表情を見て口を紡ぎ、言われるがままに方向転換をした。
「もっと上昇して。 あれに乗りたいのだ。 あれに」
20階くらいまで立ち上がっているだろうか。 建設中の建物には、巨大なクレーンが設置されている。 現状の最上階からニョキッと生えたようなシルエットで、赤と白が交互に塗装されたアームが斜め上に伸びている。 アームの先端は周辺の建物よりも遥かに高く、所々に灯る赤いランプが、イルミネーションのようだった。
「あのクレーンのてっぺんで、『イキってる癖に守りの硬い堅実な戦い方する格闘家』についてディベートしよう」
「奇抜なお題だな。 俺格闘技あんまり好きじゃないから盛り上がらないと思うぞ」
「実は私も全く知識ないから大丈夫」
高度を上げて先端まで上昇していくと、水嶋はホバーケータから飛び降りて、アームをまじまじと観察しながら「武骨! 思ってたより全っ然、武骨! 」とよくわからないテンションの上げ方をした。
たしかに下から見上げるのとでは桁違いのインパクトがある。 ワイヤーで繋がっている吊り具も、口から火を噴く怪獣の爪みたいな禍々しさがあった。
「さてさて。 お話をしようじゃないか」
アームの先端にちょこんと腰をかけて、彼女は俺に手招きをする。 普通に考えて現実では経験出来ないようなシュチュエーションだし、目の前に広がる風景は、絶景といって差し支えないものだ。
「あぁ、でも、もう朝になっちゃうかなぁ」
そう、幽体でいられるリミットが来る。 東の空が白みがかっていた。 もうじきオレンジ色の朝日が顔を出して、街がじわじわと体温を取り戻すだろう。
「そうだな」
「綺麗だねぇ。 なんだかもう、夢が終わっちゃうような気がする。 朝が来るとどうなるの? 」
「朝が来る前に帰れるよ。 もう始まる」
「帰れる? 始まる? 」
「目の前のビルに張り付いてるレムを見ててみな」
俺が指をさすと、水嶋は亀のように首を突き出して、眉間に皺を寄せた。
「おぉ〜、綺麗! 」
レムが光の粒になって空に昇っていく。
途中で風に煽られて、空中をはらはらと漂ってからビルの谷間へと流れていった。
「こうやって高いところから見てると、風の動きがわかる。 ほら、一斉に帰りはじめた」
それまで形を保っていた全てのレムが、七色の光の粒になって、舞い上がる砂埃みたいに大気中を漂っては流されていく。
「綺麗だねぇ。 これ、私たちはどうなるの? 」
「同じように、指の先から分解されてく」
「怖っ! グロい? 痛い? 」
「全然。 血なんて出ないし、むしろ眠ってる身体に戻ってくから、気持ちいいくらい」
人間はレムと違って空に消えてく訳じゃない。 風向きとかは関係なしに、自分の肉体がある方に飛んでいく。 俺の幽体が光の粒になって、俺の家の方角に飛んでけば、元に戻るということだ。
「水嶋、なんか話したいことあったのか? 」
「ううん、やっぱり今日はいいや。 またこんな夢が見れたら、その時に話すことにした」
指先から分離して、水嶋の家の方角に流れはじめた。 やっぱりな、と考えながら、腕を上げて水嶋に見せてやる。
「あぁ……もう行っちゃうんだ……」
水嶋は悲しそうな顔をして、俺の頬を撫でてきた。 その手も俺とは逆方向にサラサラと流れていく。
「なんか、眠くなってきた」
「そうだろ。 眠りに戻るからな」
「またこんな夢が見れるかなぁ」
「……なぁ水嶋。 また明日もこんな夢が見れたら、この場所で落ち合わないか? 」
「二夜連続ぅ? あるかな、そんなの」
なんとなく、明日は俺が迎えにいく気でいた。 でも相原家で待たせるより、ここに来た方が安全だ。 ここは工事中なので人がいないし、人が居なければレムが群がることもないから。
水嶋のスピードなら相原家からそれほど時間はかからない。 俺が先に着いてしまったら、相原家までの直線上を辿って迎えに行けばいい。
もう肩まで霧散した。 足先も消えはじめている。
「頼む。 明日もこの夢が見れたら、全速力でここまで来てくれ。 またここで会って、今日の話の続きを聞かせてほしいんだ」
「……はい。 わかりました……」
俺の真剣な顔に威圧されたのかはわからないが、後が怖いくらい素直に聞き入れてくれた。 水嶋も俺も、既に下半身が消失している。 彼女はそれを見て、顔をぐっと近づけてきた。
「いや、近い近い」
「またねのキスは……? 」
「お前、真顔でよくそんなセリフ言えるな。 誰の演技指導だよ 」
完全に消えるまであと10秒くらいだろうか。
眠気が凄かったが、水嶋が突然ぶっ込んできたせいで吹き飛んでしまった。
「んだよぉ、ドリ慶のくせに! 肝心な時ばっかりよおぉぉぉ」
そんな断末魔の叫びを残して、水嶋は俺の身体に帰っていく。 それからワンテンポ遅れて、俺の意識も塵のように分散され、少しずつ水嶋の身体へと引き戻されていった。




