保健室までの打ち合わせ
「どうするんだよ水嶋。このまま保健室に行っても、何も解決しないぞ」
廊下を並んで歩きつつ、俺は水嶋を見上げて、小さな声で話しかける。
「……相原くん。 私はこんな状況を待っていたんだよ! この非現実感、たまらないねぇ」
なるほど。こいつは多分バカだ。
今までバカを演じる類のエンターテイナーだと思って水嶋を見ていたが、恐らく彼女は本物のバカだ。
「相原くんが私の身体を操縦して、私が相原くんの身体を操縦しているこの状況……うん! たまらないねぇ!」
声がデカイなぁおい!
授業中の閑散とした廊下で上げる声のトーンじゃないぞバカ。
しかし今ので確信に変わった。水嶋は完全にイカレてる。
……それにしても、水嶋優羽凛の目線から相原の顔を見ると、こんなに見上げる形になるのか。 いつも水嶋からは、俺がこんな風に見えているのだ。とても奇妙な感覚だった。 俺の身長は標準的な男子高校生のそれで、実に平凡な体格である。水嶋が標準よりもだいぶ小柄なのだ。
……あれ? よく見ると相原の鼻から、鼻毛が一本突出している。 むしろ水嶋が斜めに顎を上げて、その鼻の穴をアピールしているように見えるのは気のせいか。 もしかして俺は今日一日、ずっと鼻毛を露出しながらのうのうと過ごしていたのだろうか?
「水嶋……ちょっと止まって」
「相原くん、と呼んでくれるかな?何故なら私は今、相原慶太くんなのだから」
「わかったわかった。相原くん、ちょっとこっちに顔を近づけてくれるか?」
「嫌だね」
「は?」
「鼻毛を抜くつもりだろ? そうは問屋が卸さない」
「……水嶋、俺の鼻毛が出ていることに気づいてたんだな?」
「もちろんだ」
「いつからだ?」
「君が私に、〝おはよう水嶋〟と言ったその時からだよ。鏡を見る習慣のない自分を恨むんだな」
この野郎……。 朝から気付いていながら黙ってやがったのか……! 俺が鼻毛を露出しながら平然と、むしろちょっとスカした感じでツッコミとかしてる様を見て楽しんでいたのか……!
「わかった。 俺が未熟だった。 今後は毎朝しっかり鏡を見て、身嗜みに気を遣う。 だから今はその鼻毛を抜いてくれ、頼む」
「……嫌だ、と言ったら?」
……この野郎、楽しんでやがる。 漫画に出てくる小賢しいキャラクターみたいな台詞回しを楽しんでやがる! 落ち着け、この異常事態で俺はこのノリに乗るわけにはいかない。
「わかった、鼻毛はとりあえず諦める。ここからどうするかっていう、建設的な話をしよう」
「いいだろう、忌憚のない意見を述べたまえ」
……腹立つ!こいつのドヤ顔本当に腹立つわ。
水嶋の顔で言われたら許しちゃうけど、顔が俺だからな。 猛烈に殴りたい。俺の顔を全力で殴りたい。
「水嶋……悪い、我慢できねぇわ。とりあえず一発殴っていいか?」
「よせよ、暴力では何も解決しない。その先にあるのは憎しみの連鎖だけだ。 君は歴史からなにを学んだんだ? 」
俺は対話を諦めた。 信じられない事だが、水嶋はこの状況を楽しんでしまっている。その事実を俺が受け入れないと、状況は一ミリも先に進まない。
「なぁ水嶋、提案が……」
居ない。慌てて振り返ると、後方で立ち止まっていた。俺は慌ててそちらに駆け寄っていく。
「ど、どうした?水嶋」
立ちすくむ彼女の目線の先には便所があった。男子トイレだ。
「相原くん……ごめんっ、行ってくる!」
「待てぇい! 」
俺は彼女の腕を掴んで食い止めた。
「ションベンか? 」
「せめておしっこって言ってくれる? 」
「……ひとまず落ち着こう。それは色々とまずいことになるぞ、その辺の打ち合わせもしっかりしないといけないんだ」
「大丈夫。私、小学生くらいの頃は頻繁にお父さんのやつを見てたから」
「遠い昔のお父さんのモノと現在の俺のモノではかなり意味合いが変わってくるんだよ」
「そんなに変わらないでしょ」
「メジャーリーガーと草野球の下位打線くらい違うんだよ」
「どっちがメジャーリーガーなの?」
「いや、俺の息子がメジャー級とか、そういう事が言いたいんじゃなくてだな」
「下位打線の方にしておいた方がいいんじゃない? ハードル上がってるよ」
「やかましいわ」
ダメだ、どうしても水嶋のペースに持っていかれてしまう。というより、自らそっちに飛び込んで行ってしまっている節さえある。俺は一つ呼吸を挟んで、精神統一を図る。
「漏らしてもいいの?」
「正直、漏らしてもらっても構わないっていうくらいの気持ちになってる」
「目を覚まして相原くん。 漏らしたら結局は脱ぐことになるんだよ? 脱いだ上に、拭いて洗う、という手間が加わってしまう」
「……いや。 というか、そんなに耐えられないか? 一瞬の尿意なんか少し我慢すれば波のように引いていくだろうよ」
「また波のように押し寄せてくるでしょうよ」
「……あぁ、もうわかった。じゃあ目を閉じて放尿してくれ」
「目を瞑ったらエイムが乱れそう」
こいつ凄いなぁ。レスポンスが早いなぁ。入れ替わってからいつにも増してキレッキレだよ。
「なぁ、正気なのか?これはな、当然のように逆パターンもあるって事だぞ」
「うん、入れ替わったのが相原くんでよかったなって思ってる」
何を言っているんだこの女は。もはや恐怖すら覚える。水嶋優羽凛という美少女の心の引き出しにはこんなにサイコなキャラクターが隠れていたのか?
育った環境がどれだけ劣悪であったとしても、女子高生がここまでの怪物に仕上がるものとは思えなかった。
「わかった、なるべく見ないようにしてくれ。 俺もその時が来たら見ないようにする」
「信じてる」
俺は男子トイレに消えていく水嶋の後ろ姿を真顔で見送った。ズボンに引っ掛けないようにって注意喚起をするのを忘れたな、なんて事を考えてながらしばらく待っていると、水嶋が顔を微かに紅潮させて、にやついた表情でトイレから出てきた。
ゴホン、とわざとらしい咳払いをすると、 水嶋の制服のブレザーからハンカチをするりと引き出して、手を拭いている。そして、ふふん、と鼻から息を漏らす。
「おまたせしました」
「なに笑ってんだコラ」
「なんていうか……楽しいね」
「胸を引き裂かれる思いだよ」
保健室は一階にある。俺たちの教室は三階なので、保健室に辿り着く前にある程度の打ち合わせをしなくてはならない。鼻毛がどうとか俺の息子がメジャーリーガーだとか、そんなくだらない話をしている場合ではないのだ。
流れで行くことになった保健室だが、他人と絡む場所に行ったら水嶋がどんな行動に出るか予想もつかない。それがかなりの不安要素だ。早めに互いの身体の意思統一を図るというか、利用規約的なものを制定しないと大変なことになる。
「水嶋、とりあえず俺は残りの授業を保健室でやり過ごす。その間に元に戻れば最高だけど、放課後に教室で落ち合おう」
「次が体育だから? 着替えがあるから休んでくれるのかな? 相原くんは紳士だね」
体育か……!
「悪い、前言撤回するわ。 やっぱ授業はちゃんと出ないとな、うん。 ところで体操着は授業何回分洗ってない? 」
「毎回洗ってるから汗臭くはないと思うよ」
「チッ」
「なんで舌打ちしたの? あ、体育に出るならトイレで着替えてね。他の子の着替えは見ないでください」
「いや、トイレで着替えた事なんてないから無理だな。 床がほら、汚いから。 かなり難易度が高そうだ」
「なに笑ってんの」
「なんていうか……ちょっと楽しいな」
「気持ち悪いよ」
結局俺は次の授業を保健室でやり過ごす事になった。「体育はハンドボールだな」と俺が呟くと、水嶋が隣で「私、この身体で……どこまでやれるか試したい……!」と拳を握り締めた。そういうのはもういいからハンドボールは適当にこなせ。
保健室のドアをノックすると、「どうぞ」と言う声が聞こえてくる。 室内に入った瞬間、視界に飛び込んできたのは、顔面蒼白で長椅子に座っている田中くんだった。