【祥雲寺の昇り竜】と【嘉瀬寺の釣り師】
水嶋を圧倒し、形勢逆転する事は出来なかった。
逆転どころか謝罪まで要求された上に、今は彼女をおんぶして浮遊している。
彼女は俺の髪の毛を操縦桿に見立て、鷲掴みにして捏ねくり回していた。
「ドリ慶号、揺れが酷いぞ。もっと丁寧に飛びたまえ」
「もっと丁寧に運転して貰えます? 操縦桿の扱いが雑なんですけど」
「口答えをするな、鈍感のろま天パ変態」
ど、鈍感のろま天パ変態? 初めて聞いたわその詰め合わせ。罵倒をギュウギュウに押し込めば良いってもんじゃないだろ、罵りセンスゼロかこいつ。
どうして俺が『ドリ慶号』という名の水嶋専用輸送機に成り下がったかと言えば、【名刀・桃乃介】と【隠し剣・春秋】を紹介した件で一通りツッコミと罵声を出し切った水嶋が、いじけて一歩も進まなくなってしまったからだ。
『私の慶ちゃんを返してよ』
と、メロドラマも真っ青のセリフを最後に、彼女は六階建てマンションの外壁に貼られた小さなタイルを一枚ずつカウントする、という奇行に打って出た。
タイルの総カウント数が百五十を超えた時
『このタイルに羊の絵が描かれていたら、眠ってしまうかもしれないなぁ。まぁ既に夢の中なんだけどね……フハハ』
と、衣擦れの音にもかき消されてしまいそうな声量の囁きが聞こえた。
そこで俺はやっと事態の深刻さに気付き、軽妙なツッコミを二、三発撃ち込んだ。なんとかご機嫌を取って立ち直らせた所までは良かったが、次に水嶋の口を突いて出てきた言葉は「おんぶ」という幼児退行も甚だしい三文字だった。
俺は言われるがままに背負っていた【桃乃介】を脇に抱え直し、水嶋の搭乗スペースを作って受け入れ態勢を整えたのだ。
「進め〜進め〜ドリ慶号〜夢を乗せて〜優羽凛を乗〜せ〜て〜♪」
水嶋の新たな人格が、狂気の唄を歌い始めた。幽体離脱した水嶋の精神年齢は恐らく十歳を切っているだろう。夢の中で自由に感情を発露していると考えたら、割と本能に近い人格なのかもしれない。
「夜のハイウェイ飛び越えて〜♪見知らぬ街を泳ぐのさ〜♪」
普段の水嶋、入れ替わった水嶋、幽体離脱した水嶋。今日一日で、実に三つの人格を相手にするという過酷なトリプルヘッダーを強いられている。しかしまぁ、楽しそうなので良しとしよう。
「バタフラ〜イ! インザスカァイ! っフライアウェイ! ……あ〜ウェイ!ウェイ!」
うっせぇし歌詞がバカだなおい。何が『あー、ウェイウェイ!』だよ。歌詞の穴を勢いだけで押し切るんじゃないよ。さっきまで虚ろな目で外壁のタイル数えてた女とは思えねぇわ。
「水嶋、それってなにかの替え歌なの」
「ヘイ!ホー!我ら〜のドリーム慶ちゃん号〜♪」
「あ、まだ続いてたんだごめん」
「輝け〜!我ら〜の〜ドリーム慶ちゃん号〜♪」
終わったよな?顔が見えないからあれだけど、流石に終わりだよな。いや、なんか言えよ。歌いっぱなしか? これ褒めればいいのか?
「ヒュー!水嶋ってさぁ、歌が上手いよな」
「ドリィームゥ……けぇいちゃん号ぅ〜フゥ〜♪」
「リピートが残ってたのね。うん。いいファルセットだ」
「みんなぁ!あっりがっとぅー!」
周囲に手を振っているようだ。
深夜の閑散とした街は、孤高のシンガー水嶋優羽凛の声掛けには応じない。少しだけ哀れに思ったので、盛大に拍手をしてあげた。
「歌上手いな、水嶋。高音の伸びが抜群だ」
「はい、ありがとうございます。一万二千円になります」
「ゲリラライブで金取るのかよ、この幽体ヤクザが」
「法に触れる可能性があるので、入浴料というテイで」
「なぁ、お前自分で何を言ってるか分かってるのか?」
そんな救いのない会話を重ねていると、いつの間にか高層ビルが眼前に迫っている。それを大きく迂回した時、水嶋が背中から離れるのがわかった。
「どうした?」
「……なんで避けるのかなって。壁もすり抜けられるんだし、突っ切ればいいのに」
そう言って建物の内部に侵入しようとする水嶋の足を慌てて掴んで、引っ張り出す。
「ダメだよ! ダメ! 不法侵入になっちゃうだろ。この世界にもルールがあるんだから」
「夢の世界に法律があってたまるか。ここでは私がルールだ」
「お前はルールじゃない。ゆーりだ。そしてゆーりがルールの世界など存在しない」
性懲りも無く侵入を試みる水嶋を徹底的にブロックする。生意気にもフェイントをかけて俺を揺さぶろうとしているが、昨日今日デビューした素人に幽体のコントロールで遅れを取るような俺ではない。
すると突然、水嶋が距離を置いて遠くに視線を送り出した。呆けたように口を開いて、俺の左後方を注視している。
恐らく視線誘導によるフェイントだ。そう察した俺は、体勢を低くして彼女の動きだけに集中した。
「……慶ちゃん、向こうから誰か飛んでくるよ」
「その手には乗らねぇよ? さぁ正々堂々と攻めてこい! 最強のディフェンスでお前の進路を全て断つ」
「いや、ノリが鬱陶しいな。本当だから見てごらんよ、スーツ姿の人がこっちに向かって来てる。これ何? もしかして戦闘が始まる? 私が闘りましょうか?」
ノリが鬱陶しいのはお前に寄せたからだよ、という台詞を飲み込み、振り返って見てみると、本当にこちらへ飛んで来る人影が確認できた。
この場所は地理的に【嘉瀬寺】の管轄なので、嘉瀬の駆除隊だろう。祥雲寺のメンバーがこの辺りで活動することはない。
俺は嘉瀬寺にヘルプに行く機会が稀にあるので、こちらに向かって来るスーツの男性が顔見知りの可能性は高い。俺のことを知っていれば面倒な問答は回避できるはずだ。
「水嶋、適当に躱すから話を合わせてくれる? ツッコミとかは後で受け付けるし、ボケは要らないから」
「ふぅん、知り合いなんだ? まぁいいですよ、展開に身を委ねます。つっこむのも癪だしね」
「悪いな水嶋」
「構わんよ、慶ちゃん」
男性が顔を視認できる位置まで近付いた瞬間、少しだけ安心した。見覚えのある顔だったからだ。
二十代中盤くらいで、正に仕事の出来るサラリーマン、といった風貌。銀縁の大きなメガネを掛けていて、短い髪はぴっしりと七対三の比率で撫で付けられている。
名前はわからないが、かつてヘルプに行った時に見かけたのだろう。
「おはようございまーす!」
男性は少し離れた位置から大きな声で挨拶をしてきた。威圧感のある低い声だ。
この世界では自分の管轄で不審な幽体を見かけたら、声を掛ける規則がある。彼の規則に沿った行動に対し、俺は「おはようございます」と丁寧に会釈して返した。
「……おや? 祥雲寺のケイタさんではありませんか! どうしてここに?」
俺の事を知っているようだ。すぐさま返答しようと口を開こうとした瞬間、水嶋が俺と相手の間に割り込んで来る。
「夢の中でもおはようございます、か。社畜ここに極まれり、ってやつですね? サラリーマン」
「えっと……このお嬢さんはどちら様で……?」
男性はあっけにとられた様子で、水嶋越しに俺を覗き込んでくる。
「この世界を司る神である私の名を知らぬとは……なんたる無礼。慶さん!叩っ斬っておやりなさい」
「実はですね、この痛い子が幽体でふらふらしていまして……追いかけて保護したところなんです。彼女は何も知りません」
水嶋を無視して説明する。
ポカンとしていた男性はまじまじと彼女の全身を睨め回すと、二、三度大きく頷いた。
「はぁ、なるほど。迷い子でしたか。お嬢さん、失礼ですが……お幾つになられますか?」
「失礼と知りながら女性に年齢を尋ねるとはなんという無礼者。慶さん!合わせて二度、叩き斬っておやりなさい」
「おい水嶋コラ。展開に身を委ねろよ」
スーツの男性は口元を抑えながらクスクスと控えめに笑って、「なんだか面白い方ですね」と呟いた。
「うーん、中学生くらいですかね? その歳で初離脱ですか。実に珍しい事です」
「すみません、彼女混乱しているみたいで、失礼を……」
「いえいえ、とんでもない。最初は誰しも、混乱するものです」
ふと隣を見ると、水嶋がこちらに手を差し出していた。
「どうした?」
「【名刀・桃乃介】をこちらへ」
「渡してたまるか。自ら叩っ斬るつもりだろ」
中学生と間違えられたのがよほど悔しかったのだろう。鬼の形相で向かいの男性にメンチを切っている。
俺の世代……つまり女子高生は、何かと大人っぽく見られたい願望があるみたいだが、俺には理解できない。中学生みたいな高校生なんて可愛い以外の何者でもないと思うからだ。
「あ……申し遅れました。私、嘉瀬寺の【イサミ】と申します。それにしてもケイタさん。昨年の年間駆除記録には御見逸れ致しました。百三十六体。えぇ、当分は破られる事のない記録でしょう。この度は祥雲寺の若頭就任、本当におめでとうございます」
イサミと名乗った男性が握手を求めてきた。彼の口上も相まって非常に照れ臭かったが、「ありがとうございます」と深々とお辞儀を返し、握手に応じた。イサミさんがもう片方の手を添えてくる。
イサミさんはおそらく二十代ではない。幽体の若々しい外見と実年齢にはかなりの差があるだろう。
単に落ち着いた振る舞いと言葉遣いからの推測でしかないが、そういった事例はこの業界では珍しい事ではない。
紫苑さん曰く、過去の自分に強い執着を持つ人間は、その当時の姿で幽体離脱する事があるらしい。
例えば、身体の自由が効かなくなった老人が若かりし全盛期の自分に強く想いを馳せる事で、幽体の風貌が当時の姿に変わったりする、という話を聞いたことがある。
「えっと、去年の記録はですね……隊員が優秀だっただけです。出没率も他所より高かったので……それに、ウチの記録は有部咲のフォローに依るところが大きいです」
「またまたご謙遜を……私は長い事この業界に居ますが、部隊長にもなれません。未だに捌くのが不得手でして……いやお恥ずかしい。実は以前、ヘルプにお越し下さった際にケイタさんの捌きを拝見したのですが……えぇ、圧巻でした。あそこまで迅速で丁寧な仕事は中々お目にかかれるものではない。美しい、とさえ思いました。機会があれば、是非ともご教授頂きたいものです」
「そ、そんな大層なものではないです…… 僕なんか周りが優秀で運が良かっただけで……自分の拙い部分を隊員が補ってくれたからこその記録でした。僕の力ではありません。人に教えられるほどの実力ではないです」
祥雲寺のメンバー以外とこうして会話をするのは初めてかもしれない。業務上の「声掛け」程度はあっても、仕事をする際に私語などは一切交わさない。他所へのヘルプであれば尚更だ。
紫苑さんクラスになると、地方に出張してぺらぺらと講釈を垂れながら駆除する仕事も振られるらしいが、若頭の俺には関係のない話だし、そんな仕事には携わりたくないと常々思っている。
「なるほど……噂通り、殊勝な方だ。あぁ、お話ができて光栄です。この業界の若い実力者は、勘違いされてしまう方が多いのです。己の才能に心酔し、『自分は強い、だから優位だ、特別な存在だ』と自らに暗示をかけて他人との距離感を正常に測れなくなってしまう。古参の間ではそれを、【ものさしが折れる】と言います。ものさしが折れた若者にどんどん追い越されていく老害の遠吠えと捉えてもらっても構いませんけどね」
イサミさんは自虐するように顔を顰めて苦笑した。やっぱりこの人は相当なベテランだ。自分を老害と称する程だから、実年齢は六十代くらいか? 色んな場所を渡り歩いて、数多くの幽体と交流を持ってきた事が伺える。あと、実力のある若者に虐げられてきた怨念も伺える。
それにしても、俺を誉め殺すつもりなのか。堪えていたが、釣り上がる口角を抑える事が出来なかった。
「……そういうものですか? 僕はこの界隈から出たことがないので、あまり知らないんです。他の幽体を」
「ええ、その傾向は顕著です。あなたのように、実力を伴いながらも物腰の柔らかい、謙虚な姿勢の若者は中々おりませんよ。祥雲寺はメンバーに恵まれているのかもしれませんね」
「……イサミさんは、この業界で長いのですね」
「はい、私は鹿児島の壱岐之島という離島の生まれでして……進学を機に本州へ渡って、自動車メーカーに就職してからは各地を転々と。実は嘉瀬寺でお世話になって、まだ日が浅いのです。東京に来る前は、名古屋に居ました」
イサミさんはとても珍しい部類の幽体だ。
基本的に、祥雲寺のメンバーは自分の事を語らない。見た目と実年齢のギャップもそうだが、たとえ相手の何かを察した所で干渉はしない。なるべくプライベートな部分には踏み込まない事が、幽体の世界では暗黙の了解として成り立っていると思っていた。しかし彼は自分のプライベートな情報を自ら開示していくスタイルだ。こう言っては何だが、『その情報いる? 』ってくらいに自分語りの刃が鋭い。初めて出会うタイプの幽体に、新鮮さを感じた。
「シオンちゃんは相変わらずお元気ですか? 私がこっちに来ていることは知らないでしょうけど」
「シオンちゃん? お知り合いなんですか?」
「彼女が祥雲寺の親方になって間もない頃ですかね? 名古屋の方で、三日間ほど指導を受けました。彼女も実力は本物で、いい子なんですが、驕り高ぶりが酷くてねぇ。本当にね、散々コケにされましたよ」
俺とイサミさんは大声で笑いあった。紫苑さんのものさしは折れていたのだろうか? いや、そうは思えなかった。彼の綻んだ表情から、紫苑さんに対する愛情が感じられたからだ。これは陰口ではなく、一種の「イジリ」なのだろう。
そんな事を考えつつも、水嶋が気になったのでちらりと見やると、まるでリビングでテレビを観ているかのように寝転んで、こちらを観察していた。
「それはそうと、イサミさん。今日はどうです? 出てますか?」
「それがですね。ちょうど索敵を入れていたのですが……全然出ません。私、実は【釣り師】でして、先程まで糸を垂らしていたんですが……全くのボウズです。今日は祥雲寺さんの方に偏っているかもしれませんね」
「え、イサミさんて【釣り師】なんですか? 珍しい! 道具はどんなものをお使いに……」
爆音の咳払いが三発投下され、俺の言葉を遮った。音量の調整をしくじって喉をやられたのか、隣で水嶋がむせ返り、悶えていた。彼女は肩で息をしながら呼吸を整えている。
「おい、貴様ら……」
「貴様ら!?」
「それ以上、訳の分からない会話を続けてみろ。そろそろ泣いちゃうぞ」
「あぁ、そうですね……お嬢さん、申し訳ありませんでした。祥雲寺の昇り竜にこんな所で会えるとは思わず……舞い上がってしまいましたね。ついつい長話を……いや、かたじけない」
するとイサミさんは、水嶋を嘉瀬寺で保護する事を提案してきた。祥雲寺に行くよりも近いので、彼なりに気を遣ってくれたのだろう。
「あ、いえ、お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。こちらで責任を持って保護しますので」
もう少し話してみたい欲求を抑えて、その場を離れた。「また、機会があれば是非」という言葉に振り返ると、イサミさんが後退しながらこちらに手を振っていた。
俺が深々とお辞儀をすると、水嶋がその背中に覆い被さってくる。
「おい慶ちゃん、例のバケモノはいつ出てくるんだい? 人間の感情を食べる怪物」
「え? 小さいのはさっきから下をうろちょろしてるよ。やっぱ慣れてないと見落としちゃうかぁ。そうだな、駆除対象が出たら見せてやんよ、俺の仕事をな」
「ふふっ、イキってんなぁ」
「あ? 」
「なんか凄い褒められてなかった? あのリーマンに」
「ん? まぁね」
「合コンでね、ダサくてモテない上司を、部下が急に持ち上げだすの。この人は仕事が出来て、謙虚で素晴らしい方なんですよ〜って必死で女子達にアピールする訳よ。モテない上司に気を遣ってね」
「なんで急に合コン? 水嶋合コン行ったことあるの」
「いや、ないけどさ。雰囲気だよ雰囲気」
「雰囲気? なにが?」
「さっきの会話」
「いやいや、イサミさんのまっすぐな目を見てなかったのか? 多少はお世辞もあったかもしれないけど、純粋に褒めてくれてただけだよ」
「イサミさんに幾ら払った?」
「仕込みじゃねぇわ」
「こっから慶ちゃんをやたらヨイショする謎の勢力が怒涛の勢いで押し寄せてくるんだろ? そういうイベント用意してるんだろ? 違うんか? ん?」
う、うぜぇ! 経験すらない合コンの勝手なイメージをねじ込んで来てまで俺を貶めたいのか? この野郎。俺が褒められていた現実を是が非でもぶち壊してやろうと言わんばかりのスタンスだ。
「ま、まぁ俺の仕事を見てもらえれば凄さがわかりますから? 覚えとけよ」
「あぁー、早く見たいなぁ!駆除対象とやらはいつ出てくるんですかねぇ、慶太さん!」
水嶋は俺とイサミさんの会話内容をしっかり聞いていたようで、耳元でいくつか質問をしてきた。俺は周囲を注意深く観察しながらそれに答える。
眼下には川が流れていて、この川を境に、祥雲寺の担当エリアに入るということを伝えた。
「でも、なんでお寺に集まるの?」
「場所によっては学校のグラウンドだったり、公園だったりもするよ。偶々ウチと嘉瀬はエリアが隣り合ってて、寺を拠点にしているだけで」
「不法侵入じゃん」
「まぁその辺はね。悪さする訳じゃないし、誰のプライベートも侵害しないから」
「ルール、ガバガバだね」
ここまできたら、やはり俺の仕事を見せてやりたい。不思議な生物に恐れおののく水嶋の前でいとも簡単に薙ぎ倒し、バケモノの解体ショーをご覧に入れたい。「やだ、慶ちゃん……ステキ」と頬を染める水嶋に唐突なフレンチキッスをかましてやりたい。
……なんだ? まて、今日の俺はおかしいぞ。今までこんなことを考えたことはなかった。自意識がムクムクと肥大しているのを感じる。
「慶ちゃん、もしかしてあれ?」
「ん?」
水嶋が示した先に、橋がある。川を跨ぐ国道を大型トラックが通過するところだった。その橋の欄干に、見慣れた生物が這っているのが見えた。
「あぁ、あれがそうだ! 近くで見るか? 紫苑さんの話は覚えてる?」
「人間の感情を食べる生物……進化するんだよね? 名前はないの? 」
「そう、あれは幼生だね。手も足も生えてない、最初の段階。進化前って言ったら分かりやすいかな? 俺たちはレムって呼んでる」
「れむ? あれは駆除対象じゃないよね? 近づいてみる!」
俺と水嶋は橋へ近づいていく。欄干の上をゆっくりと這いずるカラフルな生き物を目の前にして、彼女はいろんな角度から眺め始めた。
「お、思てたんと違う! なんだこのマーブル色の巨大ナメクジ!」
「おぉ……こいつ、発色がいいな。いい感情食ってるわ」
「なんか……外国のグミみたいじゃない?あのどぎつい色のやつ」
水嶋のコメントに思わず声を上げて笑ってしまった。そんな例えは聞いたことがなかったし、何より的を射ている表現だと思ったからだ。確かに、こんな色のグミがあった気がする。
「水嶋、ちょっと触ってごらん。こいつは今、俺たちには見えてないと思ってる」
「え、どういうこと? 指でツンツンすればいいの?」
水嶋が戦々恐々とした面持ちで、人差し指をゆっくりと近付けていく。俺はその真剣な横顔をじぃっと眺めていた。彼女の驚く顔が見たかったからだ。
「ぎゃあーっ!」
水嶋の悲鳴がこだました。驚いた顔を見れたのは一瞬で、水嶋は瞬時に身体を引いて俺に抱きついてきた。
「め、め、目が……目が出た」
指で突かれたレムは静止して、大きな目をパチクリさせながらこちらの様子を伺っている。
「人間がなんか喋ってるわぁ、くらいの感じで移動してたんだ。物理的に触られてビックリしてる。『あれ、こいつら俺に触れるのか?』って目を見開いた状態」
「かっ、かわいいゾ! なんかアレみたいだね、ゲームのキャラで……なかなか出ない奴。溶けたスライムみたいな、クリクリお目目の。これもう一回触ったらどうなるの」
「触ってみれば?」
「よぉし」
水嶋はパジャマの袖を威勢良く捲って、ペロリと舌を出した。
「目は突くなよ、可哀想だから」
「おわぁ! 凄い、指がどんどん潜ってく。あぁ〜……なんかヒンヤリして気持ちいい」
レムに指をずっぽりと潜り込ませた水嶋が、恍惚とした表情を俺に向けてきた。「あはぁ」と声を漏らし、人差し指を何度も抜き差ししている。
「十五、十六……慶ちゃぁん、この子何ピストンで怒るかなぁ」
「絵面が結構やばいぞ。おいヨダレ出てるから。口を閉じろ、口を」
「あれ? なんか振動し始めたよ! なにこれ! 大丈夫なの!? 」
「その個体は相当鈍いな。普通は三回も触ったら速攻で逃げるんだけど」
プルプルと震えていたレムが大きな目をさらに見開いた。水嶋が反射的に指を引っ込めると、ものすごいスピードで欄干の上を滑って行く。瞬く間に橋を渡り切って、再びゆっくりと移動を開始するのが確認できた。
「あぁん! くっそぅ、逃げちゃった! 記録は十八回だったよ慶ちゃん!」
「めちゃくちゃテンション上がってるな。でもそういう遊びじゃないから」
「今の奴が人間の感情を食べて、成長してくんだね?」
「そうそう、手足、頭、羽根の順番で変態していく」
「駆除するのは羽根が生えた子だけ?」
「うん、でも最近は羽根が生える直前の個体も対象に追加されたんだ。背中側に親指くらいの突起がある奴がそう」
「私の想像力って豊かだなぁ。紫苑さんから聞いた話だけでこんな夢を見ちゃうんだから」
ものすごく、駆除対象が出てきて欲しい。もっともっと、水嶋の色んな表情が見たい。楽しませたい。ドキドキさせてやりたい。
「慶ちゃん、橋の向こうを歩いてる、トカゲみたいな顔の奴はどうなの?」
「えっ」
橋の先に、のそのそと歩いている人間大のレムがいた。
水嶋を残して高速で上昇し、気づかれないよう背後に回り込む。親指大の突起が二つあるのを確認。急いで水嶋の元へ戻る。
「きたっ! 願いが通じた! やったよ水嶋! これから俺の仕事を見せてやるからな! ッフゥ!」
「めちゃくちゃテンション上がってるじゃん」
水嶋を横目に桃乃介を抜刀。虚空を一閃。
さぁ、見せてやろうぜ桃乃介。
水嶋優羽凛に、新しい世界を。




