好奇心は月明かりに照らされて
夜空の闇に滲む満月を背景に、水嶋が上空で平泳ぎをしていた。俺は彼女の平泳ぎを、電柱のてっぺんに腰掛けて見上げている。
「慶ちゃん、見てますか!」
「おう、見てるよ。綺麗なフォームだ」
途中まで大人しく付いて来てくれていた水嶋だったが、祥雲寺に向かっている事を察した瞬間にダダを捏ねた挙句、平泳ぎで上空を旋回し始めた。
祥雲寺に行きたくない理由は、『紫苑さんが出て来そうだからヤダ』だそうだ。
「女子の平泳ぎを真下のアングルから眺める機会なんてないだろう!貴重な映像だぞぉ」
言われてみれば、プールの底で待ち構えていないと見れないアングルだ。惜しむらくは今の彼女がパジャマ姿という事。これはこれで可愛らしいけど、水着姿の平泳ぎを真下から眺められるならそれに越したことはないし、いつか見てみたい。
そして、そんなバカな事を考えてる場合ではない。
水嶋はこの状況を『自分だけが見ている明晰夢』だと思っているらしい。しかし実際は『幽体離脱』。この世界には俺の意識もあるし、祥雲寺に行けば紫苑さんやバイト仲間たちの意識も存在しているし、つまるところ、あらゆる幽体離脱者が共有している世界なのだ。
「水嶋ぁ、ちょっと降りて来て」
「なぁに」
彼女は潜水をするように、下にいる俺に向かって泳いでくる。数メートル先で静止して「なんじゃ?」と、改めて言った。
「そのパジャマ気に入ってるんだ?」
「うん、すごい気に入ってる。可愛いでしょ? 妹が買ってくれたの」
「かわいいぞぉ」
「慶ちゃんは制服だね。まぁほとんど制服姿しか見た事ないし、当たり前か」
「制服だけどさ、なんか気になるとこない?いつもと違うなーってところない?」
「ない」
「あっそう」
突っ込んで欲しい部分があったが、華麗にスルーされたので本題に入る。
「仮にね? 今、目の前に紫苑さんが現れたら水嶋はどうする?」
「滅する」
め、めっする!……めっする?
破滅の〝滅〟の方の滅する?いや、それ以外にないか。紫苑さんが現れたら滅しちゃうんだこの子。ふぅん。
「えーっと……滅せる?」
「うん、滅せちゃうよ」
「どうやって滅するのかな?」
「強く願えば滅することが出来る。シオンさんも、この世界さえも。何故ならばこの世界を司っているのは、私自身に他ならないから」
まずい、非常にマズイ。水嶋がこの世界を司る神と化している。入れ替わりを楽しんでいた怪物が紆余曲折を経て、とうとう神になってしまった。
俺は明晰夢を見た事がないけど、夢の世界を自由に改変できるとしたら、神になったような気分にもなるかもしれない。
しかしこの幽体の世界において、水嶋が神ではない事を俺は知っている。
「慶ちゃん、今のあなたも……私の深層心理が生み出した夢の中の存在なの。念じたら現れたように、念じれば消せる。つまり……ドリーム慶ちゃんなんだよ?」
「誰がドリーム慶ちゃんだ」
入れ替わりであそこまで弾けた水嶋の事だ、このまま『明晰夢』だと勘違いさせたら大惨事を招きかねない。
彼女はほんの小手調べで平泳ぎをしてみせたのだろうけど、その行動はエスカレートしていくに決まっている。何をしでかすかわからない。入れ替わった時もそうだったじゃないか。
「なぁ、紫苑さんの話を覚えてるか?これは明晰夢なんかじゃなくて、幽体離脱だ。紫苑さんが話していた世界観の中に飛び込んできたんだよ、水嶋は!」
「黙りなさい。さぁ、慶ちゃんも空を泳ぐの。この星空の下でバタフライをして。そしてそのバタフライをローアングルから眺めさせて。話を聞くのはその後!ほら!早く!」
「水嶋ぁ……目を覚ましてくれ」
「ふふっ!世迷言を……こんなに素敵な夢の中に居るのに、目なんて覚ますものですか。私はあなたに恥ずかしい角度からの平泳ぎを見せました、次はあなたの番ですよ!バタフライなさい!ご機嫌な蝶になるんだ、慶ちゃん!」
「くっ!」
俺はゆっくりと上昇し、目を輝かせている水嶋を見下ろした。今から深夜の上空で、躍動感のあるバタフライを彼女にお披露目するのだ。
ふと視線を感じて横を見ると、マンションのベランダから外を眺めているおじさんと目が合った。
おじさんから俺の姿が見えているわけではない。彼は一人夜風を浴びながら黄昏ているだけだろう。けれど、その瞳は俺への憐れみに満ちているように思われた。
……ちくしょう、なんだこのもどかしさは。胸を締め付けられるような敗北感は。
唯一、水嶋より優位に立てる筈の『幽体』ですら翻弄されてしまうのか?
正直、幽体の世界ではベテランの域に達している。後輩だって沢山いる。昨日今日、幽体離脱したばかりの水嶋に屈するのか俺は。本当にそれでいいのか?
……俺は、覚悟を決めた。
「ほれぇい!どうだ水嶋ぁ!真下から眺めるバタフライはかっこいいだろう!」
屈した。とりあえず水嶋の要求に応じて全力のバタフライ。これで溜飲を下げてもらおう。それから丁寧に解説して、ここが夢の世界ではない事を理解してもらおう。
「おい!どうだみずし……ま……?」
水嶋は俺に背を向けて、遠くの空を眺めていた。
そんな殺生な。こちとら大切なプライド捨てて全力でバタフライしてんだよ、こっち見とけや。『ごめん見てなかったわ』みたいなベタベタなノリで俺の心を折れるとでも思ったのかな?
……そうだよ折れたよ、完全にな。ポッキリいかれたよ。
水嶋の方へ降りていき、肩を叩く。
彼女は振り返ると、飄々としながら「今、何かやってた?」と尋ねてきた。
「うん、神の指示でエアバタフライしてたわ」
「横暴な指示を出す神もいるもんだね。褒めてくれた?」
「いや。見てなかったみたい。信じられるか?クズみたいな神だろ?」
今日は諦めよう。この世界は水嶋の明晰夢、という認識を受け入れる。
随分と楽しそうだし、それでいいじゃないか。どうせならもっともっと楽しませてやろうか。
実際、俺だってそれなりに楽しめるはずだ、という淡い期待からも目を逸らせなくなってきている。
「水嶋、祥雲寺には行かないよ。今日はこの夢を楽しもう。俺のオススメスポットは閉園した遊園地だ。これが意外とわくわくする。静止した観覧車の中で、世界平和をテーマに討論でもしようか」
俺どころか水嶋まで幽体離脱をしてしまうという想像を超えた異常事態。俺はもう、どうしていいかわからないのだ。
さっきまでは、『困った時の紫苑さん』という発想で祥雲寺行きを決意していたが、水嶋には断固拒否されている。もう為す術なしです。流されるままに進もう。
彼女が一人で何処かに行ってしまったら危ないけど、俺が隣に居れば大丈夫だ。そう考えると早い段階で出くわした事は幸いだった。
彼女はなにやら難しい顔をして、俺を睨んでいた。『閉園した遊園地』という提案は、それなりに心踊るものだと思ったが、水嶋の感性にはハマらなかったのだろう。
「……それも楽しそうだけど。祥雲寺に行ったら、あの胡散臭いファンタジーの世界が広がってるの? 紫苑さんが言ってた……人間の感情を食べる生物を駆除する、とかいうやつ」
「……ん? あぁ、覚えてたんだ。そうだよ、別にファンタジーではないけどな。もうバイト仲間も集まってる頃だなぁ」
「バイト仲間?」
「うん、祥雲寺には幽体離脱者が25人所属してるんだ。レギュラーは俺を含めて13人。シフト表よく見てないけど、週末だから20人くらいは集まってるんじゃないかな」
「んふっ」
「あれ?なんで笑った?」
「あ、ごめん」
「でも逆に良かったよ、今日は新人の教育が入ってたから。人に教えるのって難しいし、面倒くさいんだ。まぁそんな事はどうでもいいや、どうする?どこに行く?」
「もう少し詳しく聞いてもいい?新人教育のくだりとか」
……あれ?なんだか楽しそうな顔だ。
もしかして、何気ない俺のバイト話に食いついてきてる……?
「新人教育って言うのは……幽体離脱を覚えたばかりで、現場に出たことのない人の研修みたいなもんだな。ベテランが付いて色々と教えるんだ」
「何そのバイトみたいなシステム。慶ちゃんはベテランなんだ?」
「バイトみたいっていうか……バイトだからね。俺は勤続年数的には大した事ないけど、年間の駆除数がベテラン以上だから。割と実力主義なんだ」
「どのくらい駆除したの?」
「去年は百三十六体かな」
「……物凄いドヤ顔してるけど、基準がわからないから」
「うーん……基準……?一年目の俺が入ってた部隊の隊長が、年間六十体くらいだったかな」
「部隊?」
「うん。駆除は基本、四人編成のチームで動くんだ。祥雲寺には隊長格が三人いて、そいつらが率いるチームが毎晩、三チーム現場に出る」
「慶ちゃんは隊長格の一人なの?」
「いや、俺はその上。〝若頭〟って言う役職なんだけど……紫苑さんの補佐で、なんていうか、バイトリーダーみたいなもんかなぁ……」
水嶋がニヤニヤしている。これ絶対に食いついてきてるわ。湧き出た興味が、表情から滲んでいるのがわかる。このまま連れ去って、俺のバイトを見せてあげたら水嶋も楽しいんじゃないか?閉館した遊園地よりも、よっぽど。
「水嶋、興味ある?もっと聞きたい?」
「別にぃ? まぁ……話したいなら? 聞いてあげてもいいけど」
ツンデレみたいな言い回しするじゃん、こいつ。もうひと押しで落ちる感が凄い。
「……それなら、祥雲寺に行ってみる?仲間も交えてもっと事細かに説明してあげられるけど」
「さっきからやけにグイグイ喋るけど、絶対につっこまないからね」
「え?そもそもつっこまれる要素ないから。真面目に話してるだけだし」
「どうしても私を祥雲寺に連れて行きたいみたいだな、ドリーム慶ちゃん」
「いや、別に……水嶋が行きたくないなら行かないよ」
「……ちょっと、一つ聞いていい?これはツッコミじゃないからね」
「どうぞ?なんでも真面目に答えるよ」
「その、いつのまにか背中に背負っている剣は何に使うんですか?」
やっとこれをイジってきてくれた。いつ来るか、と構えていた。あまりにも触れてこないから、見えてないのかな?なんて思ってワザと背中を向けてチラつかせたりしていたんだけど、『つっこんでなるものか』というプライドが邪魔をしてたんだな。
俺が霊体で背負っている日本刀は、仕事をする際に使う道具だ。
「あっ? 気付いちゃいました? 」
「なんか腹立つな。これツッコミじゃないからね。ただの疑問です」
「これは……【名刀・桃乃介】」
俺は背中に担いだ鞘から日本刀を抜いて、水嶋からよく見えるよう、水平に構えた。刃先が月光を反射して、鈍く光る。
彼女は目を丸くして美しい直刃を眺めていた。俺は刀を鞘に仕舞い、腰に隠していたもう一本の短刀を素早く引き抜いて、水嶋に手渡した。
「そっちの短刀は【隠し剣・春秋】この二本が俺の商売道具だよ。かっこいいだろう?」
「っせぇい!」
「えっ」
水嶋は何を思ったのか、俺の【隠し剣・春秋】を全力で放り投げた。
「なっ!何すんだ!春秋ぃー!」
「……いやダサいよ!ネーミングも、君の佇まいも果てしなくダサいよ!あぁ……つっこんじゃったよ、もう!」
「おい!なんで春秋を捨てた!俺の大事な相棒だぞ!」
「その制服姿で剣を背負ってるのがね、修学旅行で木刀買ってはしゃいでる中学生みたいな青臭さで痛々しいの!すごく鼻に付くの!」
「えぇ……」
「ねぇ、それコスプレなの?なんかのキャラを模してるの?もしそうなら一言だけ言わせて。……模すな!安易に模すな!現実の相原慶太は創作キャラのコスプレが許される存在じゃない!」
「どうした水嶋……俺はオリジナルだ、何かのキャラを模して刀を携えてる訳じゃない。ちょっと落ち着けよ。これはお前の『夢』なんだろ?クールに立ち回ろう」
「このドリ慶ほんと腹立つわ!」
「その略称はやめてくれ」
俺は掌の上で【隠し剣・春秋】を再構築して、腰の鞘に収めた。
「いやマジシャンか! 春秋の無限ループやめてよ!」
「無限ループ? まだワンループ目だけど。なんならまた放り投げてみるか?本当の無限ループをお見せしてやるよ」
「変なキャラクターに入っていかないでよ!」
差し出した【春秋】が、はたき落とされる。
すかさず空いた手で再構築。水嶋に微笑みを向けながら鞘に収める。
「なんなのこの人ぉ!」
……あれ?これは勝てる。この世界なら水嶋に勝てる!
そうだよ、やられっぱなしでいられるかってんだ!翻弄される側から、大逆転劇を演じてやろう!
「へへ……さっきから怒涛のツッコミじゃねぇか、えぇ!? 水嶋さんよぉ!ここはあんたの思い通りになる夢の世界じゃなかったのか?ん?残念だったな、ここは皆の世界なんだぜ」
水嶋が目を瞑ってお祈りのポーズをとっている。
「消えろ……こんな慶ちゃんは私の慶ちゃんじゃない……消滅しろ……」
俺は彼女が目を開いた瞬間に備えて、【桃乃介】と【春秋】の二刀を交差させ、イカしたポーズを決める。
「消えろ〜……消えろ〜……ヤァ!」
水嶋が片目を細く開けているのが確認できる。恐らく今、彼女の視界にはイカしたポーズを決め込んだ慶太と言う名の剣士の姿がボンヤリと映っているだろう。
「ダサいよぉ!この人すんごいダサいよぉ!」
目を見開いて、俺を指差している。
なるほど、照れ隠し……か。そりゃ普段あれだけイジってる相手に、カッコいいなんて言えないよな。素直になれよ水嶋。夜はこれからだぜ?




