『献身的な妹』と『壊れかけた姉』
水嶋家の多彩なもてなしと、トドメの入浴によって精も根も尽き果ててしまった俺は、脱衣所で抜け殻のようになっていた。
そんな俺を案じてか、妹のゆうなちゃんがあらゆる世話をしてくれる。
ブラジャーのホックも留めてもらったし、小学生が着るような微笑ましいパジャマも着せてくれた。その時の俺はもはや、ゆうなちゃんのお人形のようなものだった。
今はドライヤーをかけ終え、丁寧に櫛でといて貰っている。
こうして腑抜けになった姉を、懸命に介護する妹のひたむきな姿を見ていると、夢見心地な気分から現実へと徐々に引き戻されていった。
鏡に映し出された水嶋の姿をまじまじと確認してみる。
ピンク色の生地に、白抜きされた星型が散りばめられている子供っぽいパジャマ。
……あまりの可愛さに胸が張り裂けそうだ! こんなファンシーなパジャマ姿の水嶋など二度とお目にかかれないだろうし、ここはしっかりと網膜に焼き付けてお持ち帰りするべきだな、うん。
「ゆうなちゃん、私っていつもこの子供みたいなパジャマで寝てる? こんなセンスで生きてる女だったっけ?」
「あ、いじわる言ってるぅ。こんなセンスで悪かったなぁ」
「……いじわる?」
ゆうなちゃんは鏡越しに俺を睨みつけて、頬を膨らませながら腰に手を当てていた。とてもあざといけれど、それが許されてしまう本物の可愛らしさがある。
水嶋優羽凛は、あざとい所作をナチュラルにかませる人間に囲まれて生きているのだ。
「そんなこと言うなら、私みたいに欲しいものを言えばいいじゃんかぁ。ゆうりちゃんいっつもお任せなんだもん」
はーん、なるほど。このパジャマはゆうなちゃんから水嶋へのプレゼントなのか。誕生日か、クリスマスだろうか? 姉妹でプレゼント交換をするのか。
水嶋が自らこのパジャマをチョイスするような女だとは思えなかったから、やっと腑に落ちた。
「いや、これを私に着せようと思った辺りに、ゆうなちゃんのハイセンスさを感じる」
「ふふ、だろぉ? 自分じゃ絶対買わないからって大喜びしてたもんねぇ」
「俺も大喜びです、ありがとう」
「『俺』って……」
最初から思っていたことだけど、この双子はビックリするくらいに仲がいい。双子界ではこれが普通なのだろうか?
もし俺に双子の兄弟がいて、ほぼ同じ顔の男が自分の周りをうろちょろしていたら、精神的に追い込まれていくような気さえする。酷く煩わしさを感じてしまいそうだ。
「よっしゃ、おーわりぃ」と陽気に声を上げながら、ゆうなちゃんがドライヤーを片付けている。その流れで2人分の歯ブラシを取り出すと、片方を俺に手渡してきた。
歯を磨きながら、俺は考える。
これから自分が起こそうとしている行動はアウトかセーフか。
その結論はすぐに出た。いや、考える前から決まっていた。「ギリギリセーフ」である。
「……ゆうなちゃん」
「ん?」
プラスチックの脱衣カゴに放り込んでいた自分のスマホを取り出す。
「一生のお願いがあるの」
「一生の? ここで使っちゃうのぉ?ていうか、このスマホ誰の……」
「私の写真を撮って欲しいの。このスマホで」
「え、どうして?」
「理由は聞かないで」
「いや、気にな……」
「聞かないで!」
「……まぁ、いいけどぉ」
カメラを起動させてから、再びゆうなちゃんにスマホを差し出す。
受け取った彼女は、すぐにレンズをこちらに向けてくる。
俺はとても照れ臭くて、顔が火照ってくるのを感じていた。
「ね、ねぇゆうなちゃん……どんなポーズがいいかな!?」
「いや、知らないよぉ!何に使うかも聞いてないのにぃ」
「ナニに使っ……!ナニ言ってるの!使わないよ!俺が悪用するとでも思ってるの!? 」
「ちょっと、急に白熱しないでよぉ」
「あ、ごめんね……私はただ、辛い時とか寂しい時にその写真を眺めたいだけなの!」
「自分のパジャマ姿を眺めて心を落ち着かせてるゆうりちゃんなんて見たくないよぉ」
「いいから、さぁ撮って!早く!」
この際なので、俺の生涯を懸けても見られないであろうポーズをとった。少年誌の巻頭グラビアでアイドルが決めていた可愛らしいポーズだ。
どうせ水嶋にバレて怒られるのならば、このくらいはしておきたい。
もしも俺が死んだら、この写真をポストカードにして火葬前の棺に放り込んで欲しいのだ。きっと神様が地獄まで配達してくれるだろう。
……レンズは向けられているが、一向にシャッター音が鳴らない。
一般人なら十年に一度するかしないかの奇抜な体勢なので、早く撮ってもらわないと脇腹が攣ってしまう。広背筋も悲鳴をあげている。
限界を迎えようとしていたその時、ゆうなちゃんが構えていたスマホを降ろした。
「どうしたの? ねぇ早く撮ってよ!」
「そのなんとも言えないポーズどこで覚えたのぉ……? 顔も引き攣ってるし無理しないでよぉ!なんの撮影なのこれぇ!」
何故だ?どうした? これだけ仲良いんだからお姉ちゃんが要求した写真くらいササッと撮れるだろ。今までずっと味方みたいなツラしてた癖に、ここに来ての謀反かよこのビッチが!
「ゆうなちゃん。 せっかく最高のポーズ決まったんだからさぁ! 全く同じポーズしろって言われても二回は出来ないと思うの。 二度と訪れない『今』この瞬間をカメラに収めたいの」
「……全然決まってないって言ってるじゃん」
「四の五の言わずにちゃちゃっと撮ってくれるかなぁ! 怒るよ? お姉ちゃんの雷落ちるよ? 見てこの脇腹。普段使わない筋肉がプルプル震えてるよ。 こう見えて広背筋も限界なの!妹なら察してよ!迅速にシャッター切ってよ!」
「今日のゆうりちゃん怖いよぉ!ママァ!」
大きな音を立てて、背後の引き戸が開かれた。
背中に殺気を感じる。
目の前で怯えているゆうなちゃんの表情が、状況を物語っていた。
「ゆうり、ゆうな」
振り返ると、ママが鬼の形相で立っていた。
「はい……」
「今何時だと思ってる? ママの言いたいことわかるよね?」
「とてもよくわかります」
「ママが優しいうちに寝たら?」
「ごめんなさい……寝ます」
「はぁい。寝まぁす……」
そそくさとママの脇をすり抜けて、脱衣所を後にした。
姉妹の部屋が二階にあることは知っているので、迷いなく進路を決められる。
少々取り乱してしまったな、と反省しながら二人で階段を登っていく。
「……ゆうりちゃんのせいで怒られたじゃん」
階段の踊り場付近で、ゆうなちゃんが口を尖らせながら呟いた。
「はぁ?言うよねぇ。ゆうなちゃんが素直にシャッター切らなかったから思わず熱くなっただけなんですけど」
「あんな滑稽なポーズの写真撮れって言われて戸惑わない人がいるなら連れてきなよぉ!」
俺がとった最高のポーズに嫉妬しているのだろう。舞い上がってしまった自分のせいだとわかっているが、どうしても挑発的な返しをしてしまう。
ゆうなちゃんが漂わせる『ビッチな妹』感に、どうしてだか対抗心が芽生え始めた。
不思議な事に、【この子には負けたくない】という気持ちが燃え上がっている。
水嶋とは質の異なる可愛らしさを持ったこの女を、ねじ伏せてやりたい。今ここで圧倒しておきたい。
「大体あんなの自撮りすればいいじゃんかぁ!ゆうりちゃんバカなのぉ?」
「バカぁ? 自撮りのアングルじゃ自分大好き女みたいな雰囲気が出て痛い感じになるでしょ。そんな事もわからない?」
「さっきのポーズだって自分大好き女じゃなきゃ到達できない痛さだったんですけどぉ!」
「俺は今日、色々と我慢してるの!我慢できたの! 少しはご褒美貰ったっていいだろ!」
「ちょいちょい一人称変えて別人格出してくるのやめて貰っていいですか? 振られたからって私に当たらないでよねぇ!」
「はい? 俺まだ振られてないんですけど。そのステージまで行ってないんですけど」
「相原くんの事を語りながら泣いてたじゃんかぁ」
「そりゃ涙も出ますよ、あんな圧迫面接!」
ゆうなちゃんはドスドスと足音で苛立ちを表現しながら階段を登っていった。二階に到達し、踊り場で戦慄いている俺を冷酷な目で見下ろすと、「私の方がおっぱい大きいこと忘れないでよね」と言い放った。
小癪な女め。いつも水嶋をその台詞で煽っているのか? 女の子の魅力ってのはなぁ、胸の大きさで優劣が決まるほどシンプルじゃないんだよ。
なんなら物理的にねじ伏せてくれようか?
まぁ、よく考えれば、写真に関しては焦ることはない。まだまだ時間はある。明日も明後日もこの状況が続く可能性が高いのだ。
……そうだな。みんなが寝静まった後に、セルフタイマーで1人撮影会と洒落込みますかね。
「おーい、ママ怒ってるぞ」
階段の下からパパが声を掛けてきたので、「ごめんなさい、もう寝ます」と返した。
「あー……ゆうり、今日はもう遅いから明日にでもゆっくり話そう」
「オッケー、パパ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
水嶋とパパの喧嘩の原因は知らないし、実際あまり知りたくない。明日になってしまったら何らかの会議が開かれるのだろう、この点については水嶋に意見を仰がなくてはいけないな、と考えながら階段を登りきった。
正面のドアには「ゆうり&ゆうな」と書かれた木製のプレートが掛けられている。
謝ろう。さっきはつい熱くなってしまったが、折角パパとの戦争が終結に向かっているのに、妹と開戦したのでは意味がない。
といっても、このくらいでガチ喧嘩が始まるような姉妹ではないだろうという安心感も多少ある。
室内に足を踏み入れた。
意外にも、なんとなくオーガニックな雰囲気が漂う落ち着いた部屋だ。
パステルカラーを多用した乙女チックな部屋を想像していたので、少し驚いた。
重厚な2段ベッドが存在感を放っていて、毛の長いラグの上には無垢のローテーブルと、座椅子が二つセットされている。
女子高生姉妹の部屋に、相原家と同サイズのテレビが鎮座しているのがなんとも言えず憎たらしい。
ゆうなちゃんはといえば、すでにベッドに潜り込んで布団を被っている。
俺は、二つ並んだ勉強机の前に立った瞬間、込み上げてくる笑いを堪えきれずに吹き出してしまった。
「なに笑ってるの」
「ゆうなちゃん、当ててあげようか?」
「……なに」
「右側の雑な机がゆうなちゃんのでしょ?双子なのに本当に性格が違うのなぁ」
「バカにしてるの? バカのくせに!」
並んだ机の、あまりに対照的な様子がおかしくてたまらなかった。たしかにテンションがバカになっているのかもしれない。
水嶋の机には余計なものが一切なく、綺麗に整理整頓されている。一方ゆうなちゃんの机は小規模な爆発でも起きたのか、と思われるほどの煩雑さだった。
漫画や雑誌が不揃いに積まれているし、参考書やノートは開きっぱなし。ペンなども一度使ったら仕舞わないスタイルのようだ。
水嶋の机に格納されている椅子を引き出す。立膝をついてその匂いを嗅ぐ。
「おバカさん、なんで椅子の匂い嗅いでるの?」
「あっ、えっ?ウソ、やだいけない。無意識だった」
危なかった、自分の身体なら変態認定されるところだった。
改めて椅子に座り、スマホを構える。水嶋に確認のメッセージを送らないといけないからだ。
【起きてるよな?】
ゆうり:【おう】
【元に戻る気配がないけど、明日どうする?】
ゆうり:【デートでもするか?】
【デートて。でも明日が土曜でよかったな。会って今後の方針を詰めよう。朝からの方がいいな?】
ゆうり:【おう、ウチまで迎えに来いよ?】
【高座桜ヶ丘の駅で待ち合わせ】
ゆうり:【へいへい】
【へいは一回な】
ゆうり:【Hey!】
……あいつ相当暇だな。
【今なにしてるんだ?】
ゆうり:【お父様に慶ちゃんの事を根掘り葉掘り】
根掘り葉掘りか。暇じゃねぇなあいつ、相当楽しんでるわ。
「ねぇゆうりちゃん」
「えっ!なに?」
不意に声を掛けられて、咄嗟にスマホを伏せた。
「その引き出しの中見せてよ」
ゆうなちゃんの人差し指が示した先に、鍵のついた引き出しがある。俺は水嶋のプライベートスペースを漁る暇があるなら椅子の匂いを嗅いでおきたい派なので、正直あまり興味のない所だ。
「ゆうりちゃんが男子の絵を描いてたの知ってるんだよぉ。先週、その机に突っ伏して寝ちゃってた時」
男子の絵……? そういえばさっきもそんな話を聞いた気がする。終始テンパっていたので、どのタイミングで聞いたかは覚えていない。
「……それってどんな男の子だった?」
「ゆうりちゃんが描いたとは思えない、リアルな男子高校生の絵だったよぉ? 見てはいけないものを見てしまった気がしたからねぇ、目を伏せてしまいました。あれが相原くんなんだね?」
違うし、絶対に見たくないわそんなもの。
水嶋は誰を描いたのだろう?
あいつがもし好きな男子の姿を絵にしているとしたら、この引き出しの中には俺への戦力外通知が入ってるようなもんだ。
入れ替わって実感した事だけど、俺は水嶋のことをほとんど何も知らない。
スマホを手にとって、メッセージを打ち込んだ。気になって仕方がない。とても堪えきれなかった。
【鍵のついた引き出し開けてもいい?(笑)】
既読は付いたが、水嶋の返事はない。
「どしたの?ため息ついて」
「いや、俺って女々しいなって」
机の上でスマホが振動した。
ゆうり:【鍵の場所がわかるなら開けてもいいよ】
……あれ? 動揺したり、リアクションに困ったりしないのか? 鍵を見つけたら開けてもいいと…… ?
いや、狼狽えるな。これは、そもそも家に鍵を隠していないパターンだ!自分で持ち歩いてるのかもしれない。うん、その可能性が高い。
あの野郎。こっちが仕掛けたつもりだったのに、逆に仕掛けられるとはな。
「ゆうりちゃん? あらぁ、今度は急に黙ってしまったか」
俺はじっと引き出しを見つめていた。




