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相原慶子の誕生と即死


 キッチンの方から、ママの陽気な鼻歌が聞こえてくる。家庭内で勃発していた娘と父の諍いが解決への一歩目を踏み出したから、嬉しいのかな。

 きっとママも、すごく心配してくれていたのね。

 今までずっと、親娘の確執を嘆きながらも対処できずに、頭を悩ませていたんだろうな。


 今日はちゃんとパパに『おかえり』が言えた。頑張るワタシ、デビュー。なんてね。

 こんな事なら最初から、意地なんて張らないで勇気を出せばよかったなっ。


 ワタシは高級感の漂う革張りのソファーに腰を沈めて、テレビを眺めていた。

 隣では、妹の優羽菜が私の腕を抱え込んで、右肩に頭を乗せてきている。

 テレビにはスポーツニュースが流れていて、まぁ……そんなものにはちっとも興味が湧かない私だけど、優羽菜が甘えてきてるんだもん。離れたら可哀想じゃない。


 「優羽菜ちゃん、眠たいの?」


 私が声を掛けると、優羽菜は目をくしくしと擦りながら、「むー……眠くないよぉ」と甘ったるい声を出した。

 まったくぅ、意地張っちゃって。可愛いなぁ。


 ……ダメだ!全然ダメ!『女』に入っていけない。

 これから訪れる入浴という一大イベントに備え、この身体に水嶋優羽凛の心を憑依させれば平常心で入浴が出来るのでは、という試みだった。

 俺が性欲全開の男子高校生だから欲望と戦うことになる。それならばいっそ、心まで女になってしまえばいい。俺の低スペックな頭脳はそんな答えをはじき出したのだ。しかし、そんなことが出来るはずなかった。

 冷静に考えると、成功したとしても今後の人生を揺るがすような大事件に繋がる。

 なぜなら自分の肉体に戻れたとき、オスとしての性的嗜好に大きな闇を抱えてしまうからだ。


 隣の妹に目をやると、その視線に気付いた彼女はもぞもぞしながらパーカーのフードを被った。非常に可愛らしい振る舞いだ。

 藍色のナイロンジャージに、フルジップパーカーが全開になっていて、その下に安っぽい絵柄のTシャツが覗いている。デフォルメされた制服姿の男女が大量の風船を持っているイラストがプリントされていた。

 恐らく、文化祭かなんかで作ったクラスTシャツなのだろう。 きっと背中側にはクラス全員のあだ名とかが書き連ねてあって、「一致団結」とか「青春謳歌」とか、粘りつくような不快感の押し付けがましい文言が大きくプリントされているに違いない。


 何故この状況で、そんなどうでもいい事を思考しているのか、と問われたら「そこにおっぱいがあるから」としか言いようがない。

 俺の腕にがっしりとしがみ付いている妹の胸が、ずっと押し付けられているのだ。

 冷静になれ、と、今日は何度も自分に言い聞かせてきた。大丈夫だ、大抵は冷静になって切り抜けてきたじゃないか。

それに女は胸じゃない、その奥にあるハートだ。そうだろう?


 「優羽菜ちゃん、私たちってこんなに仲が良かったっけ?」


 「えぇ? 今日はゆーりちゃんが拒否しない日だからぁ」


 そう言って妹はズルズルと身体を滑らせて、俺の太ももに頭を埋めた。膝枕でテレビを眺めるスタイルに切り替えたらしい。

 なるほど、妹は中々の甘えん坊で、水嶋がそれを受け入れるかどうかにはムラがあるんだな。気分次第で突っぱねたり受け入れたりするのだろう、そう考えると、実に水嶋っぽくて辻褄が合う。

 双子といえど、ここまで性格が違うものなのか。


 妹の胸《推定Dカップ》の呪縛から解き放たれた俺は、気になっていたスポーツニュースに没頭出来るほどの余裕を取り戻した。

 

 ……心まで女になれれば、風呂で欲望と戦う事もなく鼻血を出すような珍事も起きない。これは割と理に適った対応方法だよな、あとが怖いけれども。

 1日くらい風呂に入らなくても死ぬことはないけど、今日はかなり汗をかいているし、水嶋の身体をこのままにしておくのは申し訳ない。正直に言うと、俺自身もゆっくり湯船に浸かりたい気分だった。


 うん、少し試してみてもいいかもな。


 「ゆうなちゃん、ちょっといい?」


 「んえ? なになに」

 

 ゆうなちゃんは俺の太ももから起き上がって、ソファーにちょこんと女の子座りをした。 俺は立ち上がって、妹の正面、巨大なテレビ画面の横に立つ。

 少しまごつきながらも髪を縛っているゴムを外し、頭を振って髪の毛を散らす。なんとなく手櫛で整えて、片側の髪を耳にかけてみた。


 右脚を軸に、くるりと一回転。

 腰をくねらせてポーズを決める。

 空気を孕んで浮かび上がったスカートと髪の毛が、少し遅れて静止した。


 「私って……かわいい?」


 「うんうん、凄くかわいいよぉ」


 ゆうなちゃんが両手を胸の前で合わせて、顔を綻ばせながら褒めてくれた。

 やだ……なんか、凄い嬉しい。『かわいい』って魔法の言葉だなぁ。かっこいいとか、イケメンとか言われたことなんて一度もないけど、そんな言葉よりよっぽど高尚な気がするわ。


 「ねぇねぇ、妹だからってさぁ、ちょっとお姉ちゃんをヨイショしてない?」


 「なんで双子の姉をヨイショするの?妹だからこその正当な評価じゃないかなぁ」


 「んふっ」


 「ゆーりちゃん、もっと自信持った方がいいって私はいつも思ってたよぉ」


 「スカート……もうちょっと短い方がいいかな?」


 「ちょうどいいんじゃないかなぁ? ゆうりちゃんは制服の着こなしも清楚な感じだから、私みたいに短いと逆効果になりそぉ」


 スカートを少しだけ持ち上げて、太ももをちらりと覗かせる。


 「エロい?」


 「うんうん、エロい。太もも綺麗だもんねぇ」


 エロい……私エロいんだ。

 あれ? 来た。何かが来た。いや……来る!何かが来る!新しい感情が発芽して、グングン育っているのを感じる!心に根を張って若葉を広げている!


 「髪の毛とかもさぁ、ちょっと弄ってみたら?ツインテールとかあざといのやってみなよぉ」


 「ツインテール、かわいくなっちゃうかも!」


 もっとちょうだい!ゆうなちゃん、ガンガンアイディアを出してくれ。もう少しで覚醒しそうなんだ、この扉を開けられるのは君しかいない。


 「ニーソとか履いちゃったり」


 にーそ?ニーソってなんだっけ?

 あ、わかったあれだ、あれのことだ。

 すんごいあざといけど、俺がいっちゃん好きなやつ。本当は大好きだけど周りには好きって言うの憚れるやつ。

 

 「でもゆうりちゃん嫌いだよねぇ。私が履いてたら『エロあざとい』って小馬鹿にしてたもんねぇ」


 「履きたいっ!履いてみたいっ!」


 ゆうなちゃんは目を丸くして、人差し指を口元に添える。「静かに」のサインを出してきた。


 「ゆうりー、もう遅いんだからあんまり大きな声出さないでよー?」


 ママがダイニングテーブルの方から私の昂りに釘を刺してきた。

 甘いぜ、水嶋家の女子たちよ。今の私は誰にも止められない。


 2人の熱い視線が注がれていた。

 私はそれを全身で受け止める。

 まず右の拳を握って、『ゲンコツ』を作った。

 そのゲンコツを右側頭部にコツン、と添える。

 僅かに顔を傾けて、ペロリと舌を出す。

 ……よし、決まった。最高に気持ちがいい。

 

 その流麗で淀みのない愛らしい仕草に、2人は心を奪われてしまっている。表情筋が硬直しているようだった。


 「ゆうりちゃんが……てへぺろを……?」

 

 行ける!これ行けるぞ!

 『水嶋優羽凛』にはなれないけれど、『相原慶子』にはなれるんだ!

 私は相原慶子!この身体は相原慶子のものであるからして、性的な対象にはなり得ないのよ!自分の身体に興奮する人間などいないのだから……。


 「ゆうな!はやく!ツインテールとニーソを用意するのよ!」


 「えぇ?今ぁ?」


 「私が、私になるの」


 「は?」


 「ねぇ今日だけ、今日だけはケイコって呼んでくれる?」


 「ママァー!ゆうりちゃん様子おかしいよぉ!!」


 「2人ともいい加減にしなさい!そろそろ怒るよ!」

 

 ママは本気で怒ったら相当怖そうだ。

 「そろそろ怒るよ!」でもう既に怖いのだから、全力で怒った時の絶望感は計り知れない。


 「ゆうり!パパ出てきたみたいだから、お風呂入っちゃいなよ!」


 「はいっ!」


 リビングを飛び出してバスルームに向かう。心に慶子が残っているうちに全裸になって風呂に飛び込むのだ。

 パパがバスタオルを肩にかけて廊下に出ていた。


 「ゆうり、お湯張っといたよ」


 「サンキューパパ!」


 パパの脇をすり抜けて脱衣所に滑り込む。

 

 洗面台の鏡を見てしまったその瞬間に、俺の中に生まれた『慶子』という人格が悲鳴を上げながら消し飛んだ。鏡に映っていたのは『水嶋優羽凛』以外の何者でもなかった。


 目を瞑って全裸にはなれないし、シャワーからお湯も出せない。シャンプーのラベルも確認できなければ、ボディーソープも泡立てられない。


 俺は意を決して、制服を脱いだ。

 普段と逆のボタンに手こずりながらも、半ば強引にこじ開けていく。スカートの脱ぎ方もわからない童貞が、女子高生の着衣を全て引っ剥がした。

 

 ……童貞の夜明け、とでも言うべきか。


 「なんて素晴らしい……」


 何が視界に入ってそう呟いたのか、もう記憶が曖昧だった。

 それはまるで、夢を見ているような気持ちだったのだ。

 今は白濁した湯に身体を沈めて、天井を眺めている。入浴剤と言う名のモザイクが発動しているからか、とてもリラックスできた。


 ぼうっと天井を見上げていると、「大丈夫?」という声が響いた。ゆうなちゃんが心配して見にきたのだろう。


 「うん、もう大丈夫。ごめんね」


 「どうしたのぉ? 何見てるの?」


 「月が綺麗だな、って」


 「ゆうりちゃん、明日病院に行こう」


 ゆうなちゃんの真面目な声を初めて聞いた気がした。歯切れの良い透き通った声色は、水嶋によく似ていた。

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異世界転生チーレムギャグ小説も書いております。 『始まりの草原で魔王を手懐けた男。』 ←よかったらこちらも覗いてみてください!
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