ふたりは水嶋っ!
流れのタクシーを捕まえて乗り込んだ時、俺が真っ先に確認したのは運転手さんの名前だった。
表示されていたのは全く印象に残らないありふれた名前で、ほっと胸を撫で下ろす。
タクシーなんて滅多に使わないけど、当分は乗った瞬間に名前を確認するクセが抜けないだろう。
それ程までに『タクシードライバー・紅時雨 豪』という存在の破壊力は凄まじかったのだ。
そんな俺の様子に気付いたのか、隣に居る水嶋が顔を覗き込んできて『よかったね』と囁いた。
俺は世の親たちに物申したい気分だった。
今日という日にこの世に生まれ落ちた子供には、ありふれた名前をつけて欲しい。それが俺の切なる願いだ。
例えば、自分の息子や娘が大成する確率はどれ程だろうか? 立派な人間に育つ保証はどこにあるだろうか?
子供が産まれたからといって一時の舞い上がったテンションに身を委ね、無垢な人間に禍々しい名を与えてはいけない。
「こうなって欲しい」という願いを込めて名前を付けました、なんて戯言を抜かしている大人がいるけど、それは大人のエゴでしかない。
名前だけが先走り、追いつけずに藻搔いている「名前負け」の犠牲者はごまんと居るのだ。それどころか昨今、最初から大気圏を飛び出して宇宙空間を漂っているような名前すらあるらしい。
「キラキラネーム」と言うそうだ。
まさに、いくら本人が手を伸ばしても届かない「夜空の星」のような名前である。
豪さんの親は、何故『ゴウ』という名を授けたのか。代々受け継がれてきた『紅時雨』という姓の時点で欲張り過ぎるほどの主人公ネームなのに……解せない。俺がその命名に立ち会っていたら迷わず『ウェイト』と叫んだだろう。
仮に自分が紅時雨という苗字を持っていたら、俺は子供にどんな名前を授けるだろうか?
「一郎」「ゆずる」「太郎」「まさる」「達也」いいところこの辺だろうな。
強い苗字に強い名前は戦闘力が渋滞しちゃうから。名前にも侘び寂びがないと。緩急を付けていかないと。
「おい慶ちゃんや」
「え、なに?」
「心の中でアホな事喋ってるでしょ」
「あれっ?なんでわかるの?」
「ふはは、わかる。そーいうところある」
水嶋はニヤニヤと笑いながら、俺が戦闘後から解放したままだったブラウスのボタンを留めてくれた。リボンを整えて、スカートの折り目を軽くなぞる。そして肩に手を置いて「ありがとうね」と呟きながら俺の口角をハンカチで拭った。
「路地裏で小太りのお兄さんの背中にくっ付いて失神させてる女子高生って……一生に一度見られるかっていうシュールな光景だった。一瞬、そういう妖怪かと思ったよ」
「あぁ、子泣き爺的な?」
「相原くんって強いんだね」
「いいや、全然強くないよ。水嶋の身体だったから出来たんだ。あいつ、めちゃくちゃ油断してたもん。まさかこの風貌から関節技繰り出してくるとは思わなかっただろうな」
「格闘技とかやってるの?」
「やってないけど、たまに紫苑さんが教えてくれる」
「かぁー、出た出た。まーたシオンかよ。おっぱい締めの練習台にでもされてんのか? お?」
「んはは、おっぱい締めってなんだよ。史上最強の絞め技じゃねぇか」
……そこから水嶋は一言も喋らなかった。
《ママが怒ったらどんな感じなの?》とか、《妹の歳は?》といった単発の質問をいくつも浴びせたけど、返ってくるのはシラけた表情だけだ。
「なぁ水嶋、俺は妹の名前しか知らない状態で水嶋家の敷居跨ぐの?少しは情報をくれよ」
「忘れた」
「なるほどね。家族のこと忘れちゃったかぁ……ニワトリ以下の知能だな」
聞こえるか聞こえないかの声量で皮肉を漏らすと、忘れかけていた「チュパカブラァ」という水嶋のオリジナル技が太ももに炸裂した。
「それやめてぇ!本当に痛いんだよ、嫌なところを思いっきりつねるやつ!ばか!」
「慶ちゃんちょっとやさぐれてきてない?」
「お前に似たんだろ」
そのタイミングでタクシーが止まり、ドアが開く。俺は水嶋を睨みつけながら外に出た。
「じゃあ……またな、相原くん。私はちょっとものたりないんでね、帰って一杯やるから」
「社会に出た事ないけど、会社の上司みたいな振る舞いやめろよ」
「何かわからないことがあったらすぐにメッセージを入れなさい。秒で返すから」
「面倒見の良い上司だな」
「あ、玄関の鍵はリュックのポッケに入ってるから。またねぇ」
タクシーのドアが閉まると、ゆっくりと走り去って行く。窓越しに笑顔で手を振っている水嶋の姿があった。憎い。
結局、ほとんど水嶋家の情報がないままだ。
『妹のおっぱいは水嶋よりも大きい』
という頼りになるようでならない、嬉しくも照れ臭く、ほんのりと切ない情報しか持っていない。
ブレザーのポケットに入っているメモには、部屋の間取りや日常生活に必要な情報が書かれているが、家族に関する情報は何も書かれていなかった。
……思えば、このメモを渡されたのが随分遠い昔のように感じられる。
目の前には水嶋の家。ボロアパート暮らしの俺からすると、足を踏み入れる事すら躊躇するような豪邸だった。
まず、表札が厳つい。非常に堅苦しい書体で『水嶋』の2文字が彫られている。これが仮に『Mizushima』だったらもう少しアメリカンな軽いノリで入っていけたかもしれない。……うん、そんな事はないな。
【御託はいいから早く入りなよ】
まずいまずい、水嶋の声で幻聴が聞こえた。ここまできたら本当に病気だ。俺は水嶋という妖怪に取り憑かれているのかもしれない。
意を決して門を開け、玄関へ進む。左手に見える大きな窓から明かりが漏れて、広い庭をぼんやりと照らしていた。
リュックから鍵を取り出して玄関ドアの前に立つ。
……か、鍵穴が上下に二つ!?
落ち着け、見た事はある。
今時の高校生が縦に並んだ二つの鍵穴くらいでビビってどうする。
うちのボロアパートはドアノブのど真ん中にアナログな鍵をぶっ刺して捻るタイプだが、今はどちらかというとこっちのほうがメジャーだろ。
……いや待てよ。まさかこれ、順番とかあるのか? 下を先に開けたら警報が鳴るとか、警備会社に通報が入るとか、そういう小賢しいトラップがあったりするんじゃないだろうな? そしてカギってこの一つでいいの?二つの穴に対して一本?
「やっぱり!ゆーりちゃーん、おかえりぃ」
突然、庭の方から気の抜けた声が届いた。
刺客か?御庭番衆が居るのか?
声の主は庭先の窓からひょっこりと顔を覗かせている。逆光のため表情は確認できないけど、おそらく妹だろう。
「たっ、ただいま!」
「なに? ビビってるのぉ?大丈夫だよぉ」
妹はサッと室内に頭を引っ込めると、ピシャリと窓を閉めた。
ドタドタと家の中を走ってくる音が聞こえていたので、待つことにする。
目の前のドアの内側で、鍵を開ける音がした。俺は少しだけ後退して扉が開くのを待つ。
「おかえりゆーりちゃん、よかったねぇ。パパが帰ってなくて」
目の前に現れたのは〝茶髪の水嶋〟だった。
「水……嶋……?」
「え!? ……ふふっ、そりゃあ水嶋ですがなぁ」
玄関を入ると、右側に据えられた下駄箱であろう扉に姿見が設置されていたので、自分の姿を確認する。間違いなく水嶋の顔と身体だ。
……ただ、目の前にもう1人の水嶋がいる。
素人目に見れば茶髪か黒髪か、それが長いか短いか、という差でしかないだろう。しかし水嶋を毎日観察している俺からすれば僅かな違いがある。
水嶋よりも微妙に下がった目尻、頬にある小さなホクロ。これは、俺じゃなきゃ見逃しちゃうね。
「えっと……と、トイレ!」
困った時のトイレ!エスケープ!
「あ、どうぞどうぞ」
妹のゆうなちゃんはそう言いながら道を開けて、ご親切にトイレの方向を指してくれている。実は水嶋のメモを見ているので、トイレなどの配置は大体頭に入っていた。
……前方に伸びている廊下がツヤッツヤだ。何回ワックスをかけて、どれだけご丁寧に歩行すればここまで美しい廊下を保てるのだろう。当然、物などは一つも置かれていない。
「ボーリングのレーンかぁい……!」
ローファーを脱ぎながら声に出してツッコんでしまった。
「え? なんてぇ?」
「ボーリングのレーンと見紛う廊下だな! そして我々はおそらく双子だな!」
廊下を歩きながら振り返りつつ、玄関で立ち竦んでいるゆうなちゃんを指差して言い放ってやった。もう、どうにでもなればいい、という気持ちで。
あぁ、また幻聴だ……脳内に水嶋の笑い声が響き渡っている。
右手のドアを開く。あれ?トイレじゃない、ここは何者かの寝室だ。何者かっていうか普通に考えてご両親の寝室だよな、ここで双子作ったのかな?
あぁもう、思考ノイズがえげつない。
トイレに入って便座に座る。スマホを取り出して水嶋へメッセージを飛ばした。
【水嶋って双子なの?】
一瞬で既読が付いた。
ゆうり:【あれ?わたし双子だったっけ?】
【言ってなかったっけ?みたいなノリだけどおかしいからな】
ゆうり:【(笑)】
「(笑)」じゃねぇよ、なんだこいつ。こういうやりとりって真顔で打ち込むのが常だけど、あいつは本当に笑ってそうだから腹立つわ。
「ゆーりちゃーん、お腹痛いのー?」
妹!この無礼者が!トイレに入ってる人間に絡んでくるんじゃないよ、ここは聖域だぞ!最近の風潮ではここで昼飯を食べる事すら許される聖域だぞ。トイレはなぁ、孤独に戦う俺をいつだって守ってくれる要塞なんだよ。
「あ、大丈夫!まだ止まらないだけ」
「大丈夫じゃないじゃんかぁ」
落ち着け、もうメッセージを送るのはやめよう、スマホ越しに嘲笑われるだけだ。
「双子」という重大情報を隠匿する事でドッキリの仕掛け人を気取っている水嶋からは、俺の生リアクションは楽しめないのだ。
慌ててメッセージを送り、自ら驚きを表現することは、あの女の術中に嵌っている事に他ならない。
そして、この強烈な双子姉妹のサンドイッチに耐えられるほど俺の心は強くない。まずは妹から確実に処理する、何故ってそれは、ラスボスであるママの雷に備えなくちゃいけないからだ。
大きく深呼吸をする。
トイレを出て、もう1人の水嶋の前に立った。
「大丈夫ぅ?ゆーりちゃん」
「おい、その茶髪はあれか? 顔がほぼ同じだから差別化を図ろうという意思の表れか?」
「単純に性格の違いが髪の色に表れてるだけだと思うよぉ。ゆうりちゃん、なんで高圧的なんだぁ?」
「【双子だし声も似てるから語尾でも弄ってキャラ付けしようかしらぁ、ゆうりちゃんはハキハキ喋るからぁ、アタイはゆっくり喋って語尾をだらしない感じにしてぇ。守ってやりたい系?うん、そっちでいこぉっと】ってか?」
「ゆうりちゃんめっちゃ喋るじゃん、私に八つ当たりしても門限破りの罪は消えませんよぉ」
なるほどね。この程度の煽りでは動じない……と。 破天荒な姉の言動には慣れっこ、って訳だな。
さすがは水嶋の名を冠する者、と言ったところか。
……ははっ!おもしれぇ、やってやるよ!
俺が密かに心で燻らせてる『破天荒』を燃え上がらせて、水嶋家の退屈な日常に大旋風を巻き起こしてやるよ。水嶋が俺の家でやらかしてくれたようにな。
俺の中で眠っている『破天荒慶太』を呼び覚まし、暴れる叫ぶの大立ち回りをお見せしてやるよ。
さぁ、始めようぜ!パーティをよぉ!
「ゆうりちゃん、ほら。現実逃避してないでちゃんと向き合わないと。まずはごめんなさいしよ?ね?」
袖を引っ張られてバランスを崩す。
妹のゆうなちゃんはリビングに繫がる扉に手を掛けていた。
「あ、いや、ちょっ、待って待って? 心の準備が。今怒られたら泣いちゃうかも、ねぇ泣いちゃうよ!?」
「泣いて謝った方が効果的かもねぇ」
扉が開かれた。
清潔感と高級感のハーモニィ。
ホームドラマのセットのようなリビング。
キッチンのカウンター越しに、ママの後ろ姿が見えた。
「ゆうりちゃん。そこに座りなさい」
「本日は誠に申し訳ありませんでしたぁ!」
ママが振り返るより先に、最短のモーションで土下座した。




