〝地獄でまた会おう〟
途中までなんとか食らいついていたが、とうとう水嶋の背中が見えなくなったので電話を掛けた。後方の車道を確認しつつ、乱れた呼吸を整える。逸れて電話を掛けるのは本日2回目だけど、今回は3コールほどで取ってもらえた。
「今どこ!?」
『ん? えっとね……目の前に電柱がある』
「うん。俺の周囲にも、もれなく乱立してるわ」
『相原くんは?』
「今コンビニの前……向かいに総合病院がある」
『あー、まだあの辺か。ついでに診て貰ってくれば?』
「診察は終わってるだろ」
『急患だからいけるでしょ』
誰が急患だ、と言葉が出かかったがなんとか飲み込んだ。取り敢えずこの時間に制服姿で街を歩くのはまずい。俺は人の目を避けようと考え、狭い路地裏へエスケープする事にする。
その路地裏は薄暗く、飲食店が入っている古いビルのダクトから吹き出してくる芳ばしい空気が充満していた。
「お前本当に、今日無茶しすぎだからな!ゴウさん唖然としてたぞ」
『面白かったね。ゴウ・ベニシグレ……惜しい人を振り切ってしまったよ』
「本当にさぁ、毎回俺が危険に晒される役回りになるんだから。あんなにクラクション浴びたの生まれて初めてだよ」
『その割になんか楽しそうじゃない?』
後ろから人の気配を感じたので、ビルのタイル壁に肩を凭れて道を開けた。足音が近づいてきている。
車も通れないような道だけど、ショートカットに使う人がいるのだろう。
「ランナーズハイだよ。今、路地裏に隠れてるから早く来てく……」
近付いてきていた足音が、すぐ後ろで止まった。
振り返ると、目の前に巨体が立ちはだかっている。見覚えのある顔とフォルム。背筋が凍り、全身が総毛立った。
「ふ、フランス……」
『フランス?』
「警察呼んでぇ!」
『フランス警察?』
「むぐっ」
口を抑えられ、スマホを取り上げられた。どうしてだ? 何故ここに? 偶然? そんな奇跡あるか?
「また会ったね。電話は彼氏かな?」
紛れもなく、駅で絡んできたフランスパンだった。
俺はスマホを取り返そうと必死で腕を伸ばした。相手はそれを簡単に躱してスキニージーンズにねじ込むと、尻のポケットからナイフを取り出して俺の前に突きつけた。色のない路地裏で、短い刃が鈍く光る。
「大きな声を出すなよ?」
その低い声を受けて、俺は何度も頷いた。
心音が外に漏れているのではないか、と思われるほどに鼓動が激しくなる。口を抑えられているので息が苦しい。鼻からの呼吸だけでは、充分な酸素が取り込めない。
悪意を持った相手に刃物を向けられると、人はこんなにも無力になるものなのか。下半身に全く力が入らなかった。膝が笑ってしまって、立っているのがやっとだった。
壁に押さえ付けられていた力が緩んだ。
ふっくらしたクリームパンのような手が口から離れると同時に、俺はそのまま脱力して、その場にへたり込んでしまった。
「聞いてよ。俺な、今日公園で生卵ぶつけられてさぁ?」
相手もしゃがみ込んで目線を合わせてくる。ベテランキャッチャーのように落ち着いた姿勢をとって、ナイフの刃で円を描くように、俺の顔の前でくるくると回している。
「共犯の女を見つけたんだけど、高校生のガキとマッチョの集団に邪魔されたんだよ。俺さぁ、ああいうガキ本当に嫌いなんだよなぁ。自分がイケメンだって自覚した上でヒーローまで演じようとする奴」
水嶋頼む、察してくれ。フランス警察の到着を待っている余裕はないぞ、日本の警察に通報してくれよ。
今欲しいのはパトカーのサイレンだ、こういう輩は不意に鳴り響いたサイレンで尻尾を巻いて逃げていくのが定石だ。この際、面倒な事になっても仕方ない。警察に保護してもらうしかないんだ。
「屈辱だったよぉ。虎の威を借るヒョロガキに丸め込まれて。プライドもズタズタだったけど、仕方なく諦めてさぁ、帰ってシャワー浴びようと思ったんだよ。シャワー。なんでだと思う? わかるよな? 頭にぶつけられた卵が臭かったからだよ」
懇切丁寧にここまでの経緯を語り始めたけど一体なんなんだよこいつ、駅での一幕とは全く別種の【狂気】が滲み出ている。
「でな、バイクで帰ってたらさぁ、お前らが路肩に座ってたのよ。そんな奇跡あるか? 俺は運命を感じたね。神様がくれたチャンスだと思った。やっぱり悪いガキには天罰が下るんだ」
路肩に座ってた……。 紫苑さんの車からタクシーに乗り換えるタイミングだろうか? あの時に前を通ったのか……? 完全に油断していた、全く気がつかなかった。 そんな奇跡あんのかよ、こっちが聞きてえよ。
「そりゃ追うよね。追ってる時に考えた。あのスカしたガキと卵投げてきたガキ、両方ぶっ殺したいって。2人とも炙り出すなら女を使った方が手っ取り早いし、楽しいだろうなって。何があったか知らないけど、タクシーから飛び出してきて君が1人になったからさ、このタイミングしかないと思ったんだ」
気味の悪い薄ら笑いを浮かべている。こいつはヤバイやつだ、今まで出会った人間の中で最大級のイカレ野郎だ。俺の本能がそう告げている。もう入れ替わりがどうこうとか言っている場合じゃない。
「立て」
そう言われても、腰が抜けて立てない。
どうやって逃げる?
考えろ、脳に酸素を回せ!
全力で大通りまで出て、助けを求める?
そんなことをして背後からナイフを振られたらどうする。
これは水嶋の身体だ。絶対に無理をする訳にはいかない。なんとか時間を稼いで助けを待つ、あいつの事だから通報してくれている可能性が高い。
というか生卵ぶつけられたくらいでここまでするか?お前の情緒どうなってんだよ本当に。
スマホのカメラを向けられていた。カション、というシャッター音が鳴る。
「可愛いなぁ、画になるね。これはいい餌になるだろうなぁ、小遣い稼ぎにもなりそうだ。じゃあ、脱いでもらおうかな」
「え……」
こいつはエロ画像で強請って弱みを握ろうとしているのだ。逆らえない状態に持っていって利用しようとしている。やばい、この状況はやば過ぎる。どう逃げればいい?考えろ。最善策を。
いや、早く来てくれ誰か。神さまでもいい。助けてください。
「脱げよ。脱がしてやろうか? 制服破ったら流石に怪しまれるもんな」
内腿にナイフの腹が当たった。
俺はその手を押さえて睨みつける。
突然、右頬に強い衝撃を受けた。
瞼を開くと、目の前に地面があった。
頬がジンジンと熱を持って、口の中に鉄の匂いが広がっていく。
「強気だな。泣けよ、ほら」
今度は反対の頬を殴られた。
髪を掴まれて激しく揺さぶられる。
これは水嶋の身体だぞ?
口の中が切れていた。唇に指を添えてみると、指先が真っ赤に染まっている。
それを見て、心の奥の方でアドレナリンが沸々と沸き立っているのを感じた。
全身に力が入る。身体が熱い。意思に反して、瞼に涙が溜まっていく。
相手は右手でスマホを翳し、左手にはナイフを持っている。
俺は小刻みに震える手で、焦らすようにゆっくりとブラウスのボタンを外していく。
この震えはもう、恐怖からくるものじゃない。
……怒りだ。心の底でグツグツと煮え滾る怒りが、俺の手を震わせている。
相手はスマホのカメラ越しに俺を見ている。その下から覗く気色の悪い口元が、俺の感情をさらに逆撫でした。
「そっちより、まずはパンツ脱いで股開け」
俺はブレザーのポケットからサングラスを取り出して装着する。
胸元に向いていたスマホのカメラが顔面に向けられた。
「……なんでサングラス?」
お前を油断させて、視線を隠すためだよ。
ナイフが隙だらけだ。
俺は向けられたスマホを左手で弾き飛ばす。
反対の手に飛びついて、捻りあげる。
紫苑さん直伝、『小手返し』関節技だ。
男は低い呻き声を上げながらナイフを落とす。
俺はすぐさま反応し、それを蹴飛ばす。
ナイフは回転しながらアスファルトの上を滑っていく。
間髪入れず、バランスを崩した相手の股間目掛けて思い切り踵を叩き込む。
悶絶している男の顎に左の蹴りを合わせる。体勢を立て直して、逆足でもう1発。
どうだ、ローファーのつま先は硬いだろう。
身体が軽い。このまま動き続けるんだ。
反撃の隙を与えるな。
動きを止めたら、やられる。
相手が獣のように唸りながら片膝を立てた。
俺は後ろに回り込み、背中側に組み付く。
両脚で男の身体をホールドし、首と頭に腕を回して圧をかける。
チョークスリーパーだ。完全に入った。
「絶っ対に離さねぇ。お前が死ぬまで離さない」
耳元でそう呟くと、男は立ち上がって抵抗しようとしたが、膝から落ちて地面に倒れ込む。
「死ね! 死で償え! そして地獄で待ってろ! 今度は自分の身体でもう一度殺してやる!」
奥歯を思い切り食いしばりながら、さらに圧力をかけていく。
絶対に落とす。そこまでやらないとダメだ。余力を与えてはならない。
「え!なにこのシュールな画! ちょっと、怖い怖い怖い!私の声で物騒な事言わないでよ!」
俺の声が、意識の隅に響いた。
向こうから俺が走ってくるのが見えて、我に返った。
フランスパンはまるでフランスパンのように微動だにせず、既に抵抗をやめている。
苦しい。酸素が欲しい、とにかく今は酸素だ。男の身体から離れ、仰向けになって大きく深呼吸をする。
「あ、泡! 泡吹いてるけどこの人! 死んでないよね?気絶してるだけだよね?」
水嶋は「確認しないと」と呟きながら、ボロ雑巾のようになったフランスパンの胸倉を掴んで強引に上体を起こすと、女性的な弱々しいフォームで顎に右ストレートを叩き込み始めた。
「よかった、息はあるみたい。 相原くん! どう見ても過剰防衛だよ!」
俺を叱責しながらも水嶋はフランスパンをマウントポジションで殴り続けている。思ったより拳が痛かったのか、時折ビンタを交えながら拳を振るっている。
「人の身体で殺人に手を染めないでよ!」
「俺の手を返り血で染めようとしてる奴に言われても」
正気を取り戻した俺は、慌てて水嶋を押しのけた。スキニージーンズから自分のスマホを抜き取る。
「水嶋、こいつ相当ヤバイやつだ。放置でいい!早く行こう」
「私は相原くんがヤバイやつだと思ったけど。あれ?口から血が出てる」
「ごめん!ごめん! 1発殴られちゃったんだ、本当にごめん」
「痛かった?」
「え? あぁ、うん。 あと、エッチな動画を撮られそうになった」
水嶋はフランスパンの頭をスニーカーで踏み付けて、グリグリと地面に擦り付けている。
「ちょっと、水嶋さん!これ以上死体蹴りしてる暇はないです! 行こう!」
俺は水嶋の袖を掴んで走り出した。
『向こうにナイフを持った男がいます』と叫びながら走り抜けると、周囲がどよめいていた。
パトカーのサイレンが鳴っている。きっと水嶋が呼んでくれたのだろう。
「あいつヤバイよ水嶋!絶対に余罪あるよ!」
「ごめんね相原くん。私のせいで」
「どうした急に」
水嶋が足を止めて、俺にスマホの画面を見せてきた。
優羽菜: 【ゆりちゃん、ママが発狂してるよ】
「ゆう……な?」
「ゆうな、妹ね。遅いからママが激怒してるみたい」
俺は思わず、大きな声をあげて笑ってしまった。
ママが激怒?ちょろいちょろい。ちょろいもんですよそんなもの。ここまでの事を考えたら、どんな困難も打ち破れる気分ですよ。
こっちもスマホを操作して、親父からのメッセージを水嶋に見せた。
親父:【まだ早いとは言わないけど、ゴムはちゃんと付けるように。ゴムと言っても輪ゴムじゃ全然意味ないぞ(笑)】
水嶋はそれをしばらく眺めると、「あぁ、凄い。凄くおっさんぽい」と失笑していた。




