『ヒーローの資質』
水嶋はタクシーの車内から窓の外をじっと眺め、だんまりを決め込んでいた。俺から見えるその後頭部はピクリとも動かない。
「あ、そういえば、水嶋の妹って何歳なの?」
車内は沈黙に包まれている。
清々しい程の無視だ、うっすらと舌打ちのような音が聞こえた気さえする。……怒っているのか?
水嶋はおもむろにパーカーを脱いだ。白Tシャツ1枚の姿になると、脱いだパーカーをマントのように背負い、袖の部分を胸の前で結ぶ。サイドウィンドウを下げ、そこに肘を乗せて前を向いた。
排気ガスの匂いが混じった、少し冷たい街の空気が車内に侵入してくる。 水嶋は外の風をまともに受けて目を細めていた。ただでさえボサボサの髪の毛が暴れている。片手で髪を搔き上げると、ポケットからサングラスを取り出して装着した。
「……い、いやなんでだよ! このタイミングでサングラス!? 外真っ暗やないかい! ま、街のネオンが眩しいって? んなわけあるかい!」
俺は「太陽よりも明るく」をコンセプトに、拙いながらも精一杯のツッコミをした。
……完全に無視された。 それどころかちらりとこっちを向いて、ため息までつく始末。これは手に負えないかも知れない。
いや、諦めてはいけない、追撃をしよう。 俺が繰り出すキレキレのツッコミを皮切りに、いつもの楽しい会話に持っていく事が最善の策だ。
「晴天下のフェリーのデッキからお送りしてます、みたいな佇まいだけど!夜のタクシーで黄昏れるにはちょっとゴキゲンすぎるビジュアルだなぁ」
「ツッコミがクドいんだよブス」
思いもよらない返しにあっけにとられて、俺の身体は三秒ほど膠着した。 まず最初に、渾身のツッコミを足蹴にされた事で羞恥心という化物がジリジリと迫り寄ってくる。続いて、「ブス」という罵倒が水嶋自身の顔面を指しているであろう事に気付き、「それは自虐だろ」という新たなツッコミポイントを発見してしまった。
ここは冷静になれ、無闇なツッコミは悪手にしかならないことがわかっただけで良かった。
「なんで急に攻撃的なんだよ」
水嶋は紫苑さんから受け取ったタクシー代の一万円札を手渡してきた。先程俺が支払った一万円がチャラになった事に安堵しつつ、それを財布に仕舞おうとしていると、水嶋が「ねぇ」と声を掛けてきた。
「え? なになに?」
「好きなの? あの変態の事」
紫苑さんのことだ。俺があの人とつるんでいる事がまだ腑に落ちないのだろう、その気持ちはわかる。幽体離脱の件が無ければ俺と紫苑さんは決して交わらない存在である事は、あの人の煌びやかな外見からも容易に想像できる。俺自身も、そう思うのだ。
「好き……というか、やっぱりお金を貰えるのが大きいかな。 さっきは言わなかったけど、夜の仕事以外でもお駄賃をくれる。 買い物とか、家事とかも。 夜の仕事もそうだけど……頼まれた事はなるべくやる様にしてるのは、お金が貰えるからだよ」
「まるで召使いだね」
そっけなく返してきた水嶋の言葉には、侮蔑の感情が込められている様に感じた。しかし否定は出来ないというか、まさにその通りなのだ。
今後、大学では奨学金を借りる事になる。
お金は貯めておかなくてはならないけど、今はまだ幼い弟や親父のフォローもしなくてはならない。紫苑さんとの雇用関係は非常に融通が利くので、今までどれだけ助かっている事か。
「でも、本当に根はいい人なんだ。 それは理解して欲しい。 嫌だなぁと思うこともあるけど……うちは貧乏だし、それでお金を稼げるなら助かるしな。 だから水嶋とは変態倶楽部で仲良くしてくれたら嬉しいんだよ。 あの人があんなに水嶋の事を気に入ってくれるなんて、思ってもみなかったし」
「うん……そこまで言うなら、本当にいい人なのかもね。 頑張ってはみるけど、基本的には変態金持ちの道楽だと思ってるから。 ヤバイと思ったら引きずってでも脱退させるからね」
「うわぁ!」
運転手が急ハンドルを切ったのか、突然身体を揺さぶられ、甲高いブレーキ音と共に前の座席に押し付けられた。
急ブレーキ?事故か?
俺は咄嗟に水嶋の身体を抑えようとしたが、彼女が操る相原慶太の肉体は、逆に俺を弾き飛ばした。
「いってぇ。水嶋、大丈夫か!?」
「おい、君たち! 」
40代くらいのメガネを掛けた運転手が後部座席に身を乗り出し、血相を変えて俺を怒鳴りつけてきた。
「こんなにあどけない顔して……君はなんてことをしてるんだ!」
なんだ、何が起きた?
状況が理解できず、隣の水嶋を見ると、俯いてほっぺたをつねっていた。顔が紅潮している。
……もしかして、笑いを堪えている?
「な、なんの事だか……」
周囲を見回すと、タクシーはハザードを焚いて路肩に停車している様だった。
「聞き耳を立てていた訳ではない、一介のタクシー運転手が他人の事情に口を挟むものではないと言うこともわかっている。しかし私は……この事実を聞かなかった事には出来ない。ミズシマくん!」
「はいっ!」
水嶋が裏返った声で返事をした。
「キミは……男だろう? そんな方法でお金を稼ぐガールフレンドを見てなんとも思わないか?」
「とても安易で……汚れている、と思います」
「ミズシマくん、こんなしがないタクシー運転手に言われても説得力がないと思うけどね……男ってのはみんな、ヒーローになれる資質を持ってる。君が立ち上がるのは、今なんじゃないかな?」
「運転手さん……でも、相手が悪すぎます」
「顔をあげなさい、悪いことをしているのはその……変態倶楽部の方だ。いいかい? 戦う手段は一つじゃない。何百通りとある手から最善手を探せばいい。さっき君たちを見送っていた卑猥な女が変態倶楽部のブローカーかい?」
「はい……あいつが裏で糸を引いているドスケベ女です」
「やっぱりそうか……私の見立ては間違ってなかった」
なんの茶番見せられてんだ俺は。
そんでこのタクシーのおっさんどんだけ聞き耳立ててんだよ。そんなデカイ声で喋ってたつもりはないけどな。既に水嶋の名字から変態倶楽部って名称まで網羅して、そこに紫苑さんまで絡めてきちゃってるわ。
でも確かに、赤の他人が俺たちの会話聞いたら穿った解釈してしまっても仕方がないのかもしれない。事情を話して納得してもらおう。
要はこのおっさんは俺たちの会話を聞いて、【女子高生が変態倶楽部でいかがわしい事をしてお金を稼いでる】と思ってるんだな。
ん? この誤解を解くの結構難しくないか? というか水嶋はどうしておっさんに乗ってんの? 俺が捻り出した満身創痍のツッコミには全然乗ってくれなかった癖に!バカ!
「君、名前は?」
タクシーのおっさんが尋ねてくる。
『水嶋』の名字が使えない、と瞬時に思考した俺は、反射的に「相原 優羽凛です」と答えた。
「そうか、ゆうりちゃんか」
水嶋が運転席の裏に隠れながら、何故かウインクを飛ばしてきた。こういう状況を楽しむ事に関しては右に出る者がいない事は認めてやる。おそらく、こいつのハートは鉄で出来ているのだ。
「私の名前は『豪』と言うんだ。『ゴウさん』でいい」
ゴウさんか、ゴウという名字は有名人の芸名でしか聞いた事がない。もしかして下の名前なのだろうか? それにしてもアニメのキャラクターでしか聞いた事がない名前だ。
視界の隅で水嶋が動いているのが見えたので確認すると、助手席側のダッシュボード付近を指差していた。
そこには、顔写真と共におっさんのプロフィールが書かれたプレートがあった。
会社名の下に本名が記されている。
【紅時雨 豪】
べ に し ぐ れ、ご う!
これは自分を潜在的なヒーローだと勘違いしてもおかしくない名前!主人公ネーム!
「ゆうりちゃん、色々と家庭の事情もあるかもしれないけどね……君はご両親の気持ちを考えた事があるかい?」
「あのぉ、ゴウさん何か勘違いされてるみたいなんですけど……変態倶楽部ってのは架空の組織で……元々は変態妄想倶楽部って言って……」
「ゴウさん、高校生の僕たちじゃ立ち向かえない組織なんです!力を貸してください……ちなみにさっきのドスケベ女は祥雲寺の隣に住んでます」
こいつ迫真の演技で『紅時雨 豪』になんて情報渡してくれてんだよ、このおてんば娘が。そんなの教えたら本気で突撃するぞこのおっさん、だってこんなにヒーロネームなんだもの。
「うん、もう少し詳しく情報をくれるかな」
紅時雨はボールペンの先をペロリと舐めると、小さなメモ帳に何やら書き込んでいた。意外に冷静なヒーローだ、一つの情報で走り出してしまうような主人公タイプではないらしい。
「私にも、君達くらいの娘がいてね……」
待ってくれ、要らない要らない!語り始めるな、それ長くなるやつだろ? 紅時雨家の家族事情とか全く興味がないし、聞いてる暇もないんだよ。
……でも紅時雨家はさぞかし由緒正しい家系なんでしょうなぁ。 ほれ見た事か、隣の水嶋さんが目を輝かせて聞き入ってるので目を瞑ります。
もう嫌だ。俺は疲れたよ。
「ここで君たちに会ったのも何かの縁だ。私は何年もタクシーを転がしながら、心を燻らせていた。君たちは迷い、戸惑い、葛藤しながらも……悪い大人達に流され、利用されている……。 なんというかな、話を聞いていて、心にボッ、と火が灯るのを感じた」
勘違いで灯る火なんて一息で消えるからさっさと吹き消せよ。
「僕も目が覚めました。 僕たちは、大人の玩具じゃありません!」
うん、俺たちは大人のオモチャじゃないな。おっさんのスケベ心にガッと食い付くワードチョイスだけはなんとかしろよ水嶋。
「よし!よく言ったミズシマくん!」
ゴウさんは大袈裟なモーションでサイドブレーキを下ろすと、ギアを入れて勢いよく車道に合流した。すぐさま車線変更して、タクシーはぐんぐんとスピードを上げていく。
「あーあ。知らないぞ水嶋くん、なんとかしてくれよ」
俺は投げやりな気持ちで水嶋に囁きかけた。
「やっちまったなぁ」
「お前の蒔いた種だぞ。何処に向かってるか聞いて、水嶋」
「ゴウさん、何処に向かってるんですか」
「このまま帰す訳にはいかないからな、警察署に向かう!まずは相談して、事実を伝える。ゆうりちゃんは警察の保護下に入るんだ。じっくり裏を取ってもらってから摘発だ」
「いやいや、ゴウさん!落ち着いて!なんかヒーローっぽくないですよ!」
「これが最善手だ」
タクシーは赤信号に捕まり、停車した。
まずいぞ、ゴウさんの正義が暴走している。ゴウさんにとっては最善手かもしれないし、素晴らしい大人だとは思うけど、俺たちにとっては最悪手だ。
どうする?ここから警察署までの間にゴウさんの誤解を解く事ができるか? いや、出来るわけがない!最悪逃げ……
「豪!」
ゴウ? 水嶋、何を突然呼び捨てで……
次の瞬間、俺は目を疑った。まず、隣のドアが開いている。その向こうには、全力で走り去っていく水嶋の後ろ姿が見えた。
「水嶋ぁぁぁあ!!」
豪? 否、GO!?
瞬時に状況を判断し、一万円札を財布から抜き出す。断腸の思いで後部座席にそれを叩きつける。
「ゴウさん、釣りは要らねぇ」
まさかこんな状況で『大人になったら使ってみたいワード』の三本指に入る台詞を吐くことになるとは思わなかった。 対向車線を走る車のクラクションを全身に浴びながら、水嶋の背中を必死で追う。
夜の繁華街を全力で疾走する。
酔っ払った大人達を掻き分けて。
俯いて歩くサラリーマンを追い越して。
どんどん離されて、背中が遠くなっていく。
水嶋はどんな気持ちで俺の前を走っているのだろうか。
この身体ではきっと、追いつかないだろうな。
ランナーズハイというやつだろうか?
何故だかこの状況を楽しいと思っている自分がいる。
水嶋さん、俺の心の声は届いてますか?




