『有部咲 紫苑と相原慶太の脳内ファンタジア』
「トイレに行ってくる……」
べそをかきながらそう言った水嶋の目が、鈍い光を放っているように見えた。 受けてたってやる、という強い意志が込められた瞳だ。
「廊下を出て、突き当たりだよ」
紫苑さんはテーブルの上に散らかった乾き物を一つの皿にまとめて、キッチンへ下げた所だった。その後ろ姿を見るに、お皿にラップをかけているようだ。
背を向けて離れていく水嶋を見て、俺は何か言わなくてはならない気がした。
「水嶋」
俺が名前を呼ぶと、ドアノブを掴みかけていた手を止めて、顔だけを申し訳程度に傾ける。
「……なに? 」
「人の家だからな。 おしっこは座ってするように」
「八つ裂きにするぞバカ!」
失敗した。 感謝の言葉を述べるつもりだったのに照れ臭さが勝ってしまって、俺が密かに遵守している「人の家でトイレを借りる時のマナー」の方がオーバーラップしてきてしまった。
彼女の凄惨な恫喝と共に、リビングのドアが大きな音を立てて閉まる。次の瞬間、階段を勢いよく駆け上がる音が続いた。
「水嶋ぁ!どこへ行くぅ!」
二階から「出てこぉい!」という叫び声が上がっている。 俺が立ち上がって後を追おうとすると、紫苑さんがそれを制した。
「大丈夫だよ慶太、いくら探してもジャズ好きの詐欺師は隠れてないから」
紫苑さんはあくまでも、水嶋を泳がせるつもりのようだ。
「それにしても慶太。どこまで喋ったんだい?君は」
紫苑さんが俺の前で腕を組んで仁王立ちしている。
片付けられたテーブルの上には大学ノートとボールペンが用意されていた。
「その……幽体離脱してしまうかもしれないから、そうなった時は『祥雲寺』に来るようにと……」
「それだけ?」
「はい……」
「ふむ。でもさ、入れ替わった状況であの子が幽体離脱すると思う? わざわざ言う必要あったか? お陰で私は詐欺師扱いだよ」
「そ、それもそうなんですけど、水嶋が怖い思いしたら嫌だと思って……」
「お前まさか『この話したらゆうりちゃん飛びつくだろうな』とか、『一緒に幽体離脱したら楽しいだろうなぁ』とか浮かれてたんじゃないだろうな?」
「だっ、断じて、断じてそんな事は……!」
「このまま全部嘘だった、お芝居でした、なんて言ったらゆうりちゃん怒るだろな。お前はただゆうりちゃんをからかって、美人なシオンお姉様を自慢したかっただけの男に成り下がる。口聞いてくれなくなるぞ」
俺はその言葉を聞いた瞬間、最短のモーションで土下座の姿勢を作った。
「それだけは……それだけはご堪忍を……」
「お前が蒔いた種だろ」
二階を忙しなく駆け回りながらいくつかの扉を開閉する音が聞こえていたが、その物音も次第に落ち着き、水嶋は肩で息をしながらリビングに戻ってきた。
俺から紫苑さんを引き離してから元の位置に座ると、「ふしゅーっ! 」という競技直後のアスリートのような息を漏らした。
……水嶋は、相原慶太が狡猾な大人に洗脳されている、と勘違いしている。それは、俺が『幽体離脱』の事を話してしまったからだ。紫苑さんの言う通り、俺は心の何処かで「入れ替わりを楽しんでいる水嶋の事だから、面白がってくれるだろう」という気持ちや、「散々暴れてくれたから突飛な事言って困らせてやろう」という思いを抱いていたのかもしれない。
……まさかこんな展開になるとは思わなかったのだ。俺が放った幽体離脱という言葉は一人歩きして、水嶋の脳内で暴走を始めてしまった。
しかしその結果、水嶋は俺の為に涙まで流してくれたのだ。 彼女は必死になって『得体の知れない詐欺師』に立ち向かおうとしてくれた。
「水嶋、本当にありがとう。ごめんな」
よかった、今度は素直に言えた。
思えば俺はこれまで、水嶋への想いをひた隠して、のらりくらりと過ごしてきた。
田中くんのようにストレートに伝えることも、コバのように悩み、誰かに相談することもなく。
——俺は自分の気持ちから逃げてきたんだ。
水嶋は手の届かない存在で、届かないのなら手を伸ばすだけ無駄だ、と達観した気になって、安全な位置で自分を慰めていただけだ。
水嶋との関係を現状維持する為に『無欲』を装い、手を伸ばすどころか、ファイティングポーズを取る事にすら怯えていた腰抜けだ。
もしかしたらこれは……神様が与えてくれたチャンスなのかもしれない。
ファイティングポーズを取ろう。
自分の気持ちにまっすぐ向き合おう。
ゆっくりでいい、少しずつでいい。
水嶋に対する想いを、隠さずに伝えていこう。
「水嶋、聞いてくれ」
「……なに」
「実は今日、保健室で鼻血を出した」
「え?」
「体温計を脇に挟んだだけだ、その時に水嶋の下着を見てしまった。もちろん不可抗力だ。やましい気持ちはなかった」
しん、とリビングが静まり返った。
紫苑さんが音楽を止めてくれたからだ。
「それだけで、たったそれだけの事で鼻血が出たんだ……!中学二年生じゃないぞ、大の大人に片足突っ込んだ高校二年生がだ!これがどういう事か……」
延髄に鋭い衝撃が走る。
何度も体感したことのある鈍い痛み。
紫苑さんが手刀で俺の首を打ったのだ。
視界が一瞬真っ白になって、立ち眩みのような感覚に陥る。俺は思わず片膝をついてしまった。
「くっ……!」
「くっ!じゃねぇよバカ、何言い出すかと思ったら。これから真面目な話するんだから黙ってろ」
「寝てていいよ相原くん」
「ごめんねゆうりちゃん、思わず手が出たけど君の身体だからかなりセーブ出来た筈だから。 じゃ、座って座って」
……え、何……? 俺は蚊帳の外……?
どれだけ水嶋を想っているか伝わるエピソードを話しただけだぞ? 高校生が女の子の脇に体温計挟むだけで鼻血出すなんて異常だろ? 「それだけ君にドキドキするんだよ」って事だろ? 行間を読んでいこうよ、行間を!
おや? 紫苑さん紅茶とか入れ始めたな。なんだこいつら女子会でもおっ始めんのか?
だいたい、紫苑さんに関しては人が大真面目に話聞いてんのに前振りの長いアメリカンジョークみたいな創作話ぶっ込んできたじゃねぇか。 なんでそんな奴から延髄に手刀貰わなきゃいけないんだよクソが!
腑に落ちないが、言葉に出来ない思いの丈を高速で思考した事で少し落ち着きを取り戻した。首の痛みを引きずりながらも水嶋の隣に腰を下ろす。
……俺の紅茶は入ってない。二人分のカップから湯気がゆらゆらと優雅に立ち昇っている。
うん、いい香りだ。これは……そこそこ高級な紅茶だな? ふぅん、なるほどね。 ふざけんな。
「じゃあゆうりちゃん、話を始めようか」
「どうぞ、相原くんを騙した時のトークを下さいね」
紫苑さんは少し間を置いて、大学ノートに筆を走らせた。ペンを置いてノートをくるっと回転させると、テーブルの上に立てる。 その動作を見て、フリップに書いた解答を披露するクイズ番組を連想した。
「これは、人間の感情を食べて育つ生物です」
「いいえ、それはおたまじゃくしです」
紫苑さんの言葉に、水嶋が即反応する。
確かにボールペンで書かれているのはオタマジャクシのようなフォルムだ。
「そうですよ紫苑さん、それじゃまるでオタマジャクシだ。もっとこう、アメーバみたいに輪郭がグニャッとしてて……」
「ゆうりちゃん、とりあえず細かいツッコミは後で頼むな」
「わかりました、続けてください。 あと、相原くんは廊下に立っててください」
授業中にリミッターを外してはしゃぐヤンチャ坊主扱いかよ。もう黙っている事にしよう、黙ってりゃいいんだろ。
紫苑さんは再びペンを持ち、ノートに視線を落としている。
「この生物は深夜二時から四時くらいにかけて活動して、眠っている人間の感情をエサにして育っていく。特に人間が日常生活で鬱積させた負の感情が大好物で、夜な夜なそれをつまみ食いして回ってる」
「はは、奇妙な生き物がいたものですねぇ」
水嶋が語尾を伸ばした皮肉っぽい物言いで茶々を入れる。
「そう。水槽の苔を食べてくれるタニシみたいなもので、人の心にこびり付いた負の感情をある程度掃除してくれる訳だね」
紫苑さんは動じず、例え話を織り交ぜて冷静に解説している。
「その馬鹿げた生き物が、幽体離脱とどう関わってくるんですか? 相原くんに何をさせているんですか?」
早速核心を突いてきた。俺が水嶋に仄めかしたワードは確か、【幽体離脱】と【深夜の害獣駆除】だ。
「うん、幽体離脱する事でその生物が視えるようになる。つまりこの生物と人間の魂は同じ次元の存在なんだね。便利な言葉を使うと……幽体になる事で、この生物と周波数が合う」
「あぁ……やだやだ。胡散臭いワードがガンガン脳みそ叩いてくる。寒気がしてきましたよ」
水嶋は頭を抱えて下を向く。
「それで? そのストレス社会の救世主みたいな生物と仲良くなって不安をたくさん食べて貰って、現世のしがらみから解放されようじゃないか!っていう教えですか? そのステージに行くには何をすればいいんです? 幽体離脱促進効果のある水を毎日飲みながら、家族や知人にも売りつければ良いんですか?」
早口で捲し立てた水嶋に、紫苑さんが目を丸くしている。知り合ってから一度も見たことのない表情のように感じた。
「賢いなぁ。ゆうりちゃん、本当におもろい子だなぁ」
紫苑さんは朗らかに微笑んでいる。
「なにわろてんねん!」
水嶋は関西弁でキレている。
「ちゃうんや、この話には続きがあんねん。この生物な、最初はいい奴やねんけど成長すると厄介やねん」
俺はこの二人を見くびっていたようや。この人たち、違う状況で会っとったらむちゃくちゃ仲良くなれるんちゃうか?
そんな考えが俺の脳裏を過ぎった。 紫苑さんがノートを立てて、ペンで絵を示している。
「成長の第一段階、手足が生える」
手足の生えたオタマジャクシの絵に、恐竜の様な顔を書き足す。
「第二段階、頭が生える」
その奇妙な生命体に、羽根を書き足した。
「最終形態は、羽根が生える」
水嶋がきょとんとした表情を俺に向けてきた。俺は言葉を発さずに、ゆっくりと頷く。
「いやいや、コクン、じゃなくて。あなたの愉快なお友達がとんでもないファンタジーを突きつけて来てるんですけど。助けてくださいよ」
「そんでねそんでね、ゆうりちゃん。この羽根が生えた奴が人間に悪さする。だから幽体離脱出来るように訓練して、こいつを駆除しようって考えてるの。成長の第二段階で頭が生えた奴も、羽根が生えるのは時間の問題だから間引いたりする計画を立ててる」
「……えっと、羽根の生えた子は、どんな悪さをするのかなぁ?」
「この生物はね、人間の感情を取り込んで成長しながら、消化し切れなかった感情をぎゅーっと圧縮して保存しておく臓器があるんだけど……それを排泄しようとするんだよ」
「排泄?おトイレするってこと?」
「そう、色んな人から集めた負の感情の残滓を凝縮して、特定の人間に注入して発散させようとする」
「注入? 発散?」
「うん、人は日常生活でストレスが溜まってくると、何処かで発散させようとするじゃない? でも、その『羽根つき』が溜め込んでいた感情を一晩で一気にぶち込まれた人間はたまったもんじゃないよね。大抵はキャパオーバーになって、発狂したり犯罪行為に手を出したり、自殺しちゃったりする。世の中で起きる不幸にはその羽根付きが関わってる事が多いから、幽体離脱を練習して、駆除しよう!っていう、そういう思想」
「えーっと……あれ? 私漫画研究会かなんかにお邪魔してるんだっけ? そうだ、相原くんはバイト代を貰ってるって言ってましたけど」
「もちろんバイト代も払うよ。必ず二時までに寝てもらって幽体離脱の訓練させてるんだから。消防士さんだって火事が起きなくても、『火事が起きた時の訓練』をしてお給料を貰うでしょ? 貰えなかったら誰も訓練なんかしないよね。まぁそんな感じ」
紫苑さんはそこまで言い終わると、カップを両手で掴んで紅茶を一口飲んだ。
ここは俺が一言、口を挟んでワンクッション入れるべきだろう。そう考えた瞬間、水嶋が勢いよく立ち上がった。
「……オチは!? 」
俺と紫苑さんは、水嶋の大声に驚いて肩を竦める。
「さっきエミリーとへ、ヘンリー?の話した時はつまんないオチ付けたじゃん! 白人のコメンテーターみたいなアクションして変な顔してたじゃん! ちょうだい!あんな感じのオチくださいよ!ねぇ!」
「これがね、ゆうりちゃんが『慶太を騙してる』って言う教義の全貌ですよ。 慶太は元々幽体離脱のような夢を見る体質みたいでね。 昔これを話したら、面白がって乗ってきてくれた。どう?ゆうりちゃんも仲間に入らない?」
憎らしいほど落ち着いた様子で紫苑さんが返す。
「とんだイカれ野郎たちだよ!」
水嶋はそう叫ぶと、俺の肩を掴んで揺さぶりながら小声で語りかけてきた。
「相原くん、目を覚まして! まさかこんな話を信じるほど脳機能やられてるの? バイト代貰えるから、このぶっ飛んだ女に付き合ってあげてるだけだよね? どんな大金貰ってんの? ……虚空を見つめるな虚空を! おいこら!こっち向いて!」
「深夜二時から四時で、時給1050円」
水嶋がソファーに座り込んだ衝撃で、俺の身体が弾んだ。
「慶ちゃんよぉ、普通にさぁ……健全なバイトしようぜぇ……」
水嶋のキャラクターがぶれ始めている。
俺の悪手に次ぐ悪手は、紫苑さんを巻き込んで更なる高みへと俺たちを運んでいく。
ただ、紫苑さんの持っていきたい方向性は見えてきたぞ。このまま俺は、幽体離脱が出来ると信じている哀れな男を演じればいいのだろう。
……別の意味で口を聞いてくれなくなる気はするけど、紫苑さんが話した最悪の結果になるよりはいくらかマシだ。
時計の針は、23時を指していた。




