『魔女と純情』
俺はインターホンの前で口を開けたまま呆然としている水嶋の肩を優しく叩いた。
「あ、こんばんは。 け、慶太です」
よぉし、いいぞ。 絶賛覚醒中である水嶋の事だから挑発でもし始めるかと思ったけど、紫苑さんのあまりに斜め上から振り下ろされた言葉に戸惑っているようだ。
その調子だよぉ、水嶋さん!きみは戸惑ってるくらいが一番だよ!
【なんだ慶太か……】
インターホンから安堵したような、あるいは拍子抜けした様子の気の抜けた声が響く。周囲は再び静寂に包まれた。
【チッ、慶太てめー、わざわざ家まで来て人をからかうのか?あ? 鳥取砂丘に沈めんぞ】
インターホンから発されたドスの効いた言葉が静寂を切り裂く。
脅し文句界の重鎮は東京湾である。 砂丘を掘るな、どうせなら東京湾の方に投げておけ。 俺一人殺るのに鳥取まで行って穴掘る手間を考えたら効率が悪すぎる。
水嶋が引き攣った顔をこちらに向けていた。俺は慌てて両手を上下させて、「抑えて抑えて」というジェスチャーをする。
「すみません、お話したい事があるので出て来てもらえませんか」
うん、冷静な対応だ。心なしか声が震えている気がするが、さすがの水嶋もこの独特な雰囲気を放つ洋館と、口の悪い家主に多少なりとも怯えているのかもしれない。
いいぞ水嶋、そのくらいがちょうどいい。今日初めて100点の札をあげてやりたい気分だよ。
【ちょっと今、お酒から手が離せない状況だからなぁ。 あ、鍵は空いてるから入って来なよ。 ぶっ殺してやるから】
彼女は一度首をぐるりと回してから、入念なストレッチを始める。俺はその近くまで寄って、「挑発に……乗ってはいかん」と有能なベテランセコンドばりの落ち着いた発声で水嶋を諌めたが、彼女から発せられる殺気が消えることはなかった。
玄関へ続くアプローチを歩き、観音開きのドアを開ける。二畳分はあろうかという広々とした玄関には、女性物のスニーカーが一足だけぽつんと置かれていた。
俺の先導で廊下を進み、リビングへ繋がるドアへ向かう。 廊下には、軽快なジャズとお香の匂いがいずれも僅かに漏れ出ている。いつもと変わらない〝魔女の家〟だ。
ドアを開くと、紫苑さんはソファーの上で寛いでいた。
艶やかなミルクティー色のショートボブで、「通常時」ならば整った顔立ちの美しいお姉さん、といった風貌なのだが、『酔拳状態』に入っているので表情は弛緩しているし、何より目が据わっている。
ホットパンツにキャミソールという露出度高めの悩ましい姿で、ソファの肘掛けにすらりとした白い足を乗せ、片手には缶ビールのロング缶を持っていた。
「慶太ぁ、どういうつもりなんだよぉ」
この状態に入った紫苑さんを久し振りに見た気がした。 何か嫌なことでもあったのだろう……。 最悪のタイミングと言える。 隣にいる水嶋の表情を覗き見ると、何故か口元を抑えていた。 ……焚かれているお香の匂いが苦手なのだろうか? 部屋に充満しているのはバニラの甘い匂いで、まさに女子が好みそうな香りだと思うけど。
その時カツン、と軽い音が響いた。
紫苑さんが手に持っていた缶ビールをガラス天板のローテーブルに落としたのだ。 口を開けて、目も見開いて、間抜けっぽい顔を俺に向けてくる。
「かっ! かわいいっ……!」
紫苑さんは千鳥足でゆっくりと近づいてくると、俺の両肩をがっしりと掴んで顔を急接近させた。
「なんて可愛い生き物なの……。 さっき、慶太の携帯から電話してきた子かな……? だよね? 『絶対ブスだろ』とか憶測でモノを言っちゃってごめんね? 私のこと嫌いになった? 」
……水嶋の風貌がクリティカルヒットしたらしい。言われてみれば、『ちっちゃくて可愛い女が好き』だとか、そんなセリフを聞いたことがあったような気がする。
しかしそれよりも、眼前に迫る紫苑さんの胸の谷間にしか目が行かない。 このたわわに実った禁断の果実を至近距離で目の当たりにして、釘付けにならない男がいると言うのなら名乗り出ろ。 正座させて革ベルトでシバいた後、『本能を呼び覚ませ!』と喝を入れてやる。そんな気分だ。
その時、腰のあたりに鋭い痛みが走った。
水嶋が「チュパカブラァ……」と、聞き取るのがやっとの小さな声で呟きながら、俺の横腹を捻り上げている。 俺は徐々に増していく痛みに身を捩って絶叫した。
「チュパカブラァ……」
なに?「チュパカブラァ」って何? 技名? 技名なのか? 脇腹を全力でつねる技を「チュパカブラァ」って言うのだろうか。
「おうなんだ慶太、お前確変入ってんのか?」
紫苑さんはニコニコしながら悶絶している俺を横切って、「チュパカブラァ」を出し終えた水嶋の前に立った。
「こんな可愛いロリっ子を連れてくると思わないじゃんかよぉ!」
あ、このノリは多分じゃれあってくる。
紫苑さんはテンションが上がってる状態の時、戯れで肩口に優しい右ストレートを入れてくる事がある。
それは、井戸端会議をしているおばさんがツッコミを入れる時「やだぁ、もう!」と笑いながら放つソフトなボディタッチと同義のものだが、紫苑さんのそれは、少なく見積もってもババアの48倍くらいの威力を誇る。
「慶太やるじゃん!」
パシィ!
水嶋が左の掌で紫苑さんの右ストレートを受け止めた。
いや、止めるな止めるな!それは防御する類の攻撃じゃないんだよ!ちょっと痛くても「ははは……」くらいのリアクションしとけばいいんだ。 ていうか凄いなその止め方、フィクションでしか見たことないわ。
「おぉ、止めた……? なんだよ、女の前ではずいぶんと好戦的だな? やっぱりオスなんだねぇ」
いや紫苑さん、そいつメスだ。
水嶋が掴んだ拳を離そうとしないので、慌てて間に入る。関節を決められる前に止めなくてはならなかったからだ。
「話があるんです、紫苑さん」
「ん、なぁに? なんでも話しなよ。まずお名前聞いていい?」
「あ、そうか。まずこの身体の持ち主は水嶋優羽凛さんといって、今その水嶋は慶太の身体に入っています」
「うん、とりあえず落ち着こうか。ほれほれ、ソファーに座ってな。 ビールでも飲む? お酒はまずいか」
紫苑さんは俺の身体を無理やりソファーまで押しやって、座らせた。
「おい慶太、冷蔵庫にオレンジジュース入ってるから出してやれ」
オレンジジュースの提供を命令された水嶋は目を瞑っている。 血でも滴ってくるのではないか、というくらいに拳を握り締め、わなわなと震えていた。
……まさか、暴走する……?
俺はソファーから飛び上がって水嶋に駆け寄る。
「水嶋、落ち着いて。こんな反応になるのも仕方ないよ、むしろ水嶋が可愛いくて本当に良かった」
「んぇ?……かわ……」
「ブスだったらもっと悲惨な対応になってた。まずは座ってゆっくり事情を説明しよう」
怒りで顔を紅潮させながらも、水嶋は握り締めた拳の力を抜いて大人しくソファーに座ってくれた。
目の前にあるローテーブルの上にはビールの空き缶や、食べ残したカップラーメンの容器、現在進行形で紫苑さんがつまんでいる多種多様な乾物が散乱している。
水嶋は相変わらず口元を手で押さえつつ、そのテーブルの上をじっと眺めていた。彼女の事なので、見るに耐えない程に散らかったテーブルを「整理したい」と思っているのかもしれない。
「慶太ぁ、今日バイト出れないなら素直にそう言えよ。今晩二人でお泊まりでもするのか? 熱〜い夜を過ごすのか?それをわざわざ言いに来たのか? ん?」
紫苑さんが水嶋に詰め寄っている。
「眠ってる暇はないと思うので幽体離脱は出来ません、ってか? やかましいわバカヤロウ」
「違いますよ! ……そもそも付き合ってないですし、昼間にメッセージも入れましたけど、中身が入れ替わっちゃってるから相談にきているんです」
俯いて口元を抑えている水嶋から紫苑さんを引き離して、割り込んでいく。 彼女はピスタチオを口の中に放り込み、咀嚼しながら俺と水嶋の間で視線を泳がせていた。
「私の誕生日は?」
俺の方へ身体を向けると、目を細めて尋ねてきた。自分の情報をどこまで知っているのか試す事で、芝居を看破しようとしているのだろう。こちらは「入れ替わりは芝居ではない」事を証明しなくてはならない。
「7月16日!」
「じゃあ、血液型は?」
「AB型!」
「干支は?」
「え、干支!? 待ってくださいよ、俺が辰で……紫苑さんが今23歳だから……鼠、牛、虎……あれ? 23歳で合ってるのか……? 」
「慶太が中二の時、私から盗もうとした下着の色は?」
「いや、あれは盗もうとしたわけじゃなくて! ちょっと眺めてただけですって!!」
「その時慶太が出していたものは?」
「出していたものって……鼻血だよ鼻血! なぁ水嶋、パンツ眺めながら出してたのは鼻血だからな? 鼻血ならギリセーフだろ? 」
水嶋が吐瀉物を見るような目でこちらを見ている。紫苑さんは「なはははは」と大きな笑い声を上げて、手を叩いていた。
「すごい、すごい!本当に慶太な気がする! ……ちょっとテンションが高すぎるけど」
「ひぃっ」
水嶋が鬼のような形相で俺の両頬を掴んできた。
来る!両頬への「チュパカブラァ」が来る!
「みっ、みすひまっ、おひふいて!ふさけてるわけじゃらい」
やっぱ来た! こいつ、相原慶太の筋力をフルに活用して「チュパカブラァ」を繰り出してくる!
俺が墓穴を掘った感は否めないしふざけてるように見えただろうけど、大真面目なんだよ俺は!こっちだって必死なんだよ。
全力でつねられた両頬が熱を持ってジンジンと痛む。瞼には涙が溢れてきて、視界が滲んだ。 俺は頬に手を当ててマッサージするように揉みほぐしながら水嶋を睨みつける。
「これお前のほっぺなんだからな!痣でも残ったらどうするんだよ……? 丁重に扱えよ!」
水嶋はその声に驚いたのか、咄嗟に肩を竦める。
あまりの痛さに、声のボリュームを完全に間違えてしまった。
「ほほ〜う、なるほどねぇ。 甘酸っぱくてビールには合わねーなぁ」
紫苑さんはクスリと笑って瓶の芋焼酎をグラスに注ぐと、突然真面目な顔を作って
「じゃあ入れ替わりについて、少し話そうか」
と続けた。
……信用した……? ここまでの流れで……?もしかして紫苑さんは本当に何か知っているのか?
「その前に、お香の火を消してください」
水嶋がこの部屋に入って初めて〝魔女〟へ向けて言葉を放った。
「ん? お香、苦手だった? じゃあ消すかね」
紫苑さんが腰を上げる。
「随分と素直に消してくれるんですね、詐欺師のお姉さん」
いい流れを掴みかけていた魔女との面会。
闘いのゴングが、唐突に鳴り響いた。




