田中くんの異変、その陰で入れ替わる2人
食欲を満たした俺は、窓際の最後部に位置する座席で数学教師の子守唄を聞きながら睡魔に襲われていた。ちらりと横目で隣を覗くと、水嶋は消しゴムでノートを擦っている。
俺と水嶋の使用している消しゴムは同じメーカーのもので、カバーに青と黒のストライプがデザインされた、割とポピュラーなタイプのものだ。
俺は「無意識に消しゴムを爪で千切る」というアホみたいな癖を時々発動するので、消しゴムの表面はボロボロだし、本体が小さくなってカバーが余ればすぐに外して捨てる。そして、よく失くす。
一方、水嶋の消しゴムは綺麗なものだ。俺は、水嶋の異常な几帳面さに畏怖を覚える程だった。
水嶋は消しゴムを何度か使うと、黒ずんだ部分が気になるのか、机を擦って「消しゴムの掃除」をする。
「文字の掃除をする消しゴムを掃除する」
箒を毎回水洗いして干しておくような行為。ズボラな俺にしてみれば、狂気の沙汰である。
だから、彼女の消しゴムは真っ白な状態を保っていることが多い。
摩耗して半分くらいのサイズになっているが、余ったカバーは丁寧にハサミで切り取られている。
卓上に展開する教科書やノート、ペンケースの定位置も決まっていて、その配置が乱れているのを見た事がない。
水嶋は、常に整っている。
先日その事について言及したところ、「人のは全然気にならないけど、自分のは気になる」という返事が返ってきた。その答えに、何故か少しほっとした。
ぼんやりと自分の机を眺めていると、目の前にウサギの形をした小さな紙が滑り込んできた。水嶋からのメッセージだ。席が隣同士になってから、彼女は時々このウサギ型のメモを使って俺に絡んでくる。
【田中くんの挙動が気になって仕方ない。大丈夫かな?】
メモにそう書かれていたので、前方の席に座っている田中くんに目をやる。
田中くんは頭を抱えながら、猛烈な勢いで貧乏揺すりをしていた。その隣の席の原口さんが自分の机を遠ざけている。
【多分、万歩計の数を稼いでる】
俺はメモに書いて水嶋に返した。
【授業中に万歩計の数を稼ぐ意味あるの?】
【田中くんは陸上部だから】
【うちの陸上部って万歩計の数値を競う集団なの】
【大雑把に言うとそんな感じだろ、いつも走ってるし】
メモでそんなやりとりをしながらも、田中くんへの心配は募るばかりだった。田中くんを授業から離脱させてあげたい、その一心で俺は立ち上がろうとした。
その時、俺よりも一瞬早く田中くんが大きな音を立てながら席を立った。
「先生……ちょっと具合が悪いので、保健室に行ってもいいですか」
田中くんは先生の返事を待たずに、周囲の女子が悲鳴をあげる程の勢いで教室から飛び出して行く。
突然の強引なエスケープに慌てた先生が、後に続いた。
教師と田中くんが離脱した教室は騒然としている。
「田中くん、どうしたんだろう」
「うん、唐突な腹痛に襲われた、くらいならいいけどね」
しばらくして先生が教室に戻ってくると、「田中は大丈夫そうだ。悪かったね、授業続けるよ」と言って、何事もなかったかのように授業を再開した。
【大丈夫かな?田中くん】
水嶋からメモが届く。
【そんなに田中くんが気になるの?(笑)】
俺は性格が悪い。そして、とても幼稚だ。自分が書いた文字を見てそう思った。
一度消しゴムを持ったけど、そのまま返した。返さずにはいられなかった。
【それってどういう意味?】
もう、返事をしたくなかった。俺はウサギ型のメモをポケットに押し込んで、机に突っ伏した。
寝よう、もう寝てしまおう。起きた時には水嶋も、このやりとりを無かったことにしてくれるだろう。
眼球を極限まで端に寄せて、水嶋の様子を確認する。水嶋はウサギ型のメモに向かってシャーペンを走らせていた。
書いた文字を消しゴムで消す。
シャーペンに持ち替えて、書く。
再び消す。
またペンを持ち、書く。
動きを止めて、消しゴムに手を伸ばす。
水嶋が伸ばした手は消しゴムを弾いて、ちょうど互いの机の間に落ちた。
俺はそれを見て、反射的に拾い上げようとした。
ゴツッ!
頭がぶつかった。
俺は消しゴムを拾い上げる直前に、水嶋の頭が近づいてくるのを視界に捉えていた。
俺と水嶋は同時に消しゴムを拾い上げようとして、頭をぶつけたのだ。
いや、そんな過程はどうでもいい!痛い!
水嶋をここまでの石頭にした神様の意図が読めない!
クラクラする。視界にちらちらと光の粒が舞っていた。
「痛ってぇ……悪い、水嶋。大丈夫か?」
顔を上げると、目の前に居たのは相原慶太だった。
「なんて事ないよ、水嶋さん。さぁ、まじめに授業を聞こうじゃないか」
目の前の俺はそう言うと、ピンと背筋を伸ばして座り直した。
あれ? なんだろう、この状況。