相原家に広がる水嶋汚染
風呂から上がった親父が鏡の前でドライヤーをかけている。それも、櫛を使った丁寧なブローだ。
男しかいない相原家では殆ど使われる事のない旧式のドライヤーで、その轟音は凄まじく、アキにテレビのボリュームを二段階上げさせるほどだった。
「慶太ぁ!状況は把握した! 心も整った……あとは髪を整えるだけだ!」
ドライヤーよりもうるさい親父の咆哮。
親父は洗面所から出てくると、俺の前に歩み寄ってきて「こんばんは、ようこそ相原家へ。 慶太の父、相原慶介です」とキメ顔をかましながら頭を下げた。
「あ、水嶋優羽凛と申します。突然お邪魔してすみません」
「いやいや、いいんだよぉ。まさかね、慶太が女の子連れて来るなんて思いもしなかったからびっくりしちゃってぇ。さっきはごめんねぇ」
デレデレしている。よく考えたら、男ばかりの現場仕事をしている親父が若い女、ましてや女子高生と喋る機会なんてほぼないだろう。
「ゆーりちゃん? だよね、あぁ、かわいいねぇ。うちはほら、男ばかりだから……お父さん、って呼んでくれていいからねぇ」
「ウオェッ」
やばい、至近距離で親父の弛緩した顔を目の当たりにしたら、生理的嫌悪が抑えきれなくてえずいてしまった。うろたえていると、水嶋の拳が背中に入った。
「うっ!」
「大丈夫か、優羽凛! つわりか?」
なんだそれ、ギャグか?
誰も笑ってないし、両サイドのハルと親父を見てみろよ。「旅行から帰ってきたらペットのザリガニ死んでました」みたいな目でお前を見てるぞ。
俺は慌てふためきながら体調が悪いことを必死にアピールして、なんとかその場を切り抜けた。強引に水嶋を手伝わせて配膳を済ませると、家族全員がカレーの前に着席する。
「ゆーりちゃん、今日は来てくれてありがとうね。 カレーまで作って貰っちゃってすみません。じゃあ、ゆーりちゃんの歓迎会も兼ねて、いただきます!」
親父の号令に続いて、相原兄弟の「いただきまぁす!」という声が上がった。
全員がほぼ同時にスプーンを口に運ぶと、「んんっ!」と、まっさきに親父が唸る。
「う、うまい。なんだこれ、いつもと同じカレーなのにいつもよりうまい!」
親父の言葉に、ハルが続く。
「うまいよ、ゆーりさん。いつものカレーではあるんだけど、深みがある。まろやか?華やか?っていうのかな」
綿雲の如くふわっふわしてんなこいつらの感想。
カレーは俺が作っているのだから、いつもと変わらないのは当たり前だ。 まろやかさや華やかさがそこに加わるはずもない。
しかし恐らくこの二人は、水嶋をもてなす気持ちでお世辞を言っているわけではないのだ。
彼らは「慶太と同じカレー」を食べているわけではなく、女子高生の手料理という「雰囲気」を食べているのだ。女子高生マジックにかけられた2人の男はスプーンの運びが通常の4割増しだった。
時刻は19時ちょうどを指している。
とにかく、なんとかミッションコンプリートだ。
すぐさま離脱して次の打ち合わせに移行する事が急務。
よほど気に入ったのか、頬を膨らませながら一心不乱にカレーを頬張っている水嶋に目配せをする。
【用は済んだ、そろそろ出よう】
そんな思いを込めた視線に気付いてくれたらしく、水嶋は口の中のカレーを嚥下すると、スプーンを置いて大きく頷いた。 よかった。意思疎通は出来ているようだ。
水嶋は卓上のティッシュを一枚抜いて、口元を拭いてから口を開いた。
「なぁ、みんな。今日授業中に田中くんの様子がおかしくてさぁ。爆撃でも受けてるんかってくらい頭を抱えて、エゲツない貧乏揺すりしてたのよ」
ん? あれれ? 水嶋さん急にどうした?
「兄貴、田中って誰?中学の時の田中? ウチに来たことある?」
ハルくん? 乗らなくていいよ?
「いや、ないかな。その田中とそんなに仲良くないし」
「ふーん、そんで?」
「ハル。軽い気持ちで聞いてるけど、田中くんの貧乏揺すりは一般的なイメージとはかけ離れてるからな。両足だから。両足でズダダダダ!って。 隣の席の原口さんが恐怖を感じて自分の机を遠ざけるほどの狂気に満ちた貧乏揺すりだ」
水嶋……? まさか今日の田中くんをハイライトでお届けするつもりか?さっき俺の視線に大きく頷いてたのは何だったんだ?
【今日の田中くんのエピソードを家族に伝えてくれ】
俺がそんな事を伝えようとしてるとでも思ったか?
水嶋はひたすら田中くんの話を進めている。
その話は綱渡りのようなものだ、何故なら、テーブルの上にはカレーが乗っているから。
ハルと親父は察してくれるかもしれないが、アキに関してはまだ小学生。腹痛とカレーのコンボが見事にハマる年齢である。
小学校を卒業している俺たちにとっては思い出すのも憚れるほど薄ら寒い「究極の二択」みたいな話題をアキが出そうものなら、俺は他人の身体でアキを引っ叩いてしまうかもしれない。
「でさぁ、結局、前日に食べた生牡蠣にあたったんだって」
「なんだ、ただの腹痛かよ。もっと凄いオチがあると思った。牡蠣にあたるとそんな酷いの? 俺、生牡蠣食べたことないや」
広げるなよ。話を広げるなよ。
ほら、アキがスプーン置いて話に聞き入っちゃってるから。
「俺は若い頃、やられたことあるぞ。まだ二十代前半だったかなぁ。運転中だったんだが渋滞しててな。肛門は完全に決壊して、意識を失いそうなくらいだった。 人としての尊厳は完全に失ったしな」
完全に決壊させてくれたなクソ親父!
「ねぇ!カレー味のうん……」
俺は脅威的な反射速度で手を伸ばし、アキの口を封じた。
「アキくん、食事中だよ」
俺がアキを諌めると、何故か拍手が湧き起こった。
「素晴らしい。 上流家庭で育ったことが一発で分かるよ、ゆーりちゃん」
「ブラボー」
「さすがだな優羽凛」
登場人物全員バカだなおい。
親父もハルも、唐突に現れた女子高生と水嶋のテンションにぐいぐい引っ張られておかしなことになってるのだろう。
これ以上水嶋を野放しにしてはいけない。俺は、ない頭を振り絞って言葉を探した。
「あ、えっと。 相原くんは……いつもお家ではこんな感じなんですか?」
100点!審査員が居たら満場一致で満点出すレベルの質問だ。 水嶋のおかしなテンションに言及しつつ、それに当てられて揺らいでいる2人を正気に戻す一言!
「いや、慶太は普段、自分の事は全然話さないんだよ。ゆーりちゃんの前ではこんな風になるのかってビックリしたけど、親父的には新鮮で嬉しいかな」
「兄貴が楽しそうで何より、みたいなとこある。いつもつまらなそうだし」
あれっ? 思ってたより冷静な返答が来て逆に恥ずかしい。
ふむ。 無口で愛想のない根暗の長男が彼女の前でやたらイキってる、みたいな認識って事か。
まぁ、冷静に判断したらそうなるかぁ! もう八方塞がりだよ。 何を言っても暖簾にパイルドライバーのような気がしてきた。
「ゆーりちゃん。これを機に、またいつでもおいでよ!相原家はいつでも大歓迎だから」
親父が笑顔で言うと、アキも続いて「今度はデッキ作って来てね」と恥ずかしそうに呟いた。 カードゲームの話だろう。
ハルは水嶋が先ほど歌っていた【せんこう花火】を口ずさみながら、三人分の皿におかわりを盛っている。
残念ながら俺と水嶋が元に戻ったら、こんな状況は二度と来ないだろう。水嶋は入れ替わりを馬鹿みたいに楽しんでいるだけなんだから。
……本当に付き合えて、水嶋が家に遊びに来てくれたら凄く楽しいだろうなぁ。
そんなことは、俺だって思うけどさ。




