入れ替わるまで、あと30分
俺の名前は相原慶太。至って「平凡」な男子高校生だ。
つい先ほど教室で、平均点ピッタリの点数が付けられた小テストを返された。その結果にとても満足している。
高望みはしない。過剰な豊かさは要らない。「平凡」であり続けたい。それが俺の人生のモットーであり、夢でもある。
いつものように屋上に出て一人で弁当を食べていると、同じクラスの水嶋優羽凛が近づいて来た。手には弁当箱と箸を持っている。
「いやいや、何してるの水嶋」
「私のお弁当箱に入っているプチトマトを、相原くんのお弁当箱に転移させてる」
「うん、その視覚情報はリアルタイムで飛び込んできてる」
「相原くん、トマト好き?」
「それ転移させる前に聞いてもらえる? てか、水嶋ってトマト嫌いなの?」
「どちらかというと、相原くんの方が好き」
「トマト押し付けられてるのをひっくるめて、さほど好評価じゃないのはわかったわ」
今日の水嶋は長い黒髪を後ろで縛っている。それは俺が一番好きなヘアースタイルだった。白い肌、無駄のない輪郭、小さな顔。やや垂れた目尻がどことなく無気力な空気を醸し出しているが、その雰囲気とは裏腹に、言動は天真爛漫で自由奔放。
先日の席替えで隣になった時、俺は、「やれやれ……隣は水嶋か」という芝居を全身で表現したが、家に帰ると謎のダンスを弟達に披露して、嬉しさを全身で表現するほどの浮かれっぷりだった。
「相原くん。トマトって薄皮があるじゃない? これって言わば人間にとっての皮膚にあたる訳でしょ。これが破れてると、なんだかトマトが怪我をしているように見えるんだよね。赤いし、水っ気が凄いし。それがグロく見えて、ちょっと割れてるだけで途端に食べられなくなるの」
「うん、一度頭を診てもらった方がいいな」
「それはプチトマトだから一口でいけるけど、普通のトマトは丸齧りすると種の部分が出てくるじゃない?ぐちゃっとした所。人間で言えば脳髄でしょう、あれ」
「野菜の擬人化はもっとフェアリーテイストで頼むわ」
水嶋は水筒を傾けて蓋に注ぐと、それを煽って一息ついた。 俺の水筒である。
「ねぇ、このプチトマトさんって私たちが授業を受けてる間に戦場に出ていたんじゃないかしら。だって、ウチのママは最初から負傷しているプチトマトさんをお弁当に詰めるような酷い人じゃないでしょう?」
「今日は不思議ちゃん路線で攻め続けるのか? 絶対に長持ちしないと思うぞ、それ」
水嶋は真顔で立ち上がって、俺に背を向けながら両腕を青空に掲げて伸びをした。
「んん〜……」
神さま、一陣の風をください。
俺は身体を目一杯屈めて、超ローアングルから水嶋の白く滑らかな太腿の辺りを凝視する。
……来い。 来いっ! 風よ吹け!
【古の風神より扇がれし一陣の風よ、我の歓喜を呼び起こすべくこの地に吹き荒れ給え!】
心の声で詠唱すると、突然吹き込んだ風が水嶋のスカートをふわりと持ち上げた。
さぁ、時は来た。 網膜に焼き付けろ、俺!
水嶋は慌ててスカートを抑え込み、こちらを振り返って「見たぁ!?」と大きな声を上げた。
「いやぁ、ギリギリ見えなかったよ。 安心して」
「よかった、今日たしか紐のやつだったから」
「えぇ!? 普通のやつだったんですけど!」
「紐のやつ」という童貞のイマジネーションを極限まで掻き立てる刺激的なワードに心を乱され、墓穴を掘った。
冷静に考えれば、スカートという薄っぺらい布切れで生活している女子高生が「紐のやつ」を選択するのは、生粋の痴女でない限りあり得ない。しかし、冷静には考えられないのが思春期の男子高校生なのだ。
水嶋は俺のおでこをペチッと叩くと、踵を返して校内へと戻って行った。
「はぁ……水色かぁ……今夜はよく眠れそうだ」
俺は、水嶋が好きだ。 初めて喋ったその瞬間、恋に落ちていたのだと思う。
水嶋は、平凡に生きていた俺の前に非凡な可愛らしさを突きつけて、あっさりと心を攫っていったのだ。
「次、数学だっけか……」
水嶋が転移させたプチトマトを口に放り込むのとほぼ同時に、予鈴のチャイムが鳴り響いた。