第一章 巫女イズミ
第五節 巫女イズミ
時とともに世界は始まり、時とともに世界は終わる。
大陸のあらゆる民族がそう信じていた。
世界を作ったのも時なら、世界を終わらせるのも時なのである。
そこに理由はなく、全ては時の意思にゆだねられていたが、その真意を知る者は誰一人いなかった。
だから、時々、それは人には理解し難い物語を紡ぎだす。
イズミが生まれたのは日照りの年だった。
雨が降らず、作物は実らず、疫病が流行り、多くの者が命を落とした。そんな中、イズミは生を享け、数多くの子供達が命を落とす惨状を奇跡的に生き延びた。それは幸運であり、同時に不運でもあった。命を落とした子供達の親がその幸運を妬んだからである。死んでいった子供達の命を吸い取って生き永らえたのだと泣き喚く嫉妬深い夫婦達は、数少ない生き残りの子供達を一生、波の里で時に仕えさせるべきだと主張し、その騒ぎは死者が出るほどの暴動へと発展した。折角、渇きと疫病とを生き延びた命を人は自らの手で刈り取る暴挙に出たのである。
血を血で洗う愚かな争いを止めるには、生き残った子供達が犠牲になるしかなかった。命があるだけまだよい。そう考えた大人達は妬みに取り憑かれた暴徒の要求を飲み、子供達はみな波の里に預けられることとなった。
だから、イズミは実の親の顔を知らない。
物心ついた時には彼女は波の里にいた。
一番古い記憶といえば、荒野で詠唱している時の青い空の色である。
全てを時が決めるなら、人にとっての理不尽も飲み込んでいくしかないのだろう。
懸命に正しく生きる者がいたとして、それを時が斟酌することはないのだろう。
傷みさえが恵みならば、それを幸福に変えるのは人の役目である。
イズミが命を宿す行に取り組んだのはそのためだった。
親と別れ、波の巫女として生きることが時の恵みならば、その苦さを甘さに変えることが自分が生きる理由だろう。
人一人の寿命では間に合わないかもしれない。
それでも始めなければ人はいつまでもそこに辿り着くことはない。
そう考える時、命はとてもかけがえのない尊いものに思われた。
ぼんやりと過ごすこの一時は苦さを解放するために必要な時間なのかもしれない。
地上に散らばった欠片を拾い集めて、巫女はただ組み立てていくだけなのかもしれない。
時がばらまく奇跡の欠片。
時の巫女はそれを拾い、人のために役立つものにもう一度組み立てていく。
それは創造なのか。再生なのか。それとも徒労なのか。
時の真意がわからぬ以上、それを知ることは不可能だった。
イズミは合掌する。
そして詠唱する。
時とともに世界は開け、時とともに命は廻る。
すべては時の思し召すまま、湧いては枯れてやがて消えゆく。
波打つ調べを逃すなかれ。
降りそそぐ花を逃すなかれ。
掌に留まりてやがてその身を巡りゆく。
合掌と詠唱は波立つ心を収めるのに役に立った。
波が立つのは人が動く時だけではない。
思うだけでも立つのである。
大きな波は人を動かす。
だが、凪でいなければならない時もあるはずだった。
「発条の波を捉えたら教えてくれるか」
とヴァイが言う。
「はい」
とイズミは答えた。
「ガリアスとゴルヴァとは後押しをしてくれるだろう」
とグヴァン。領主として友好関係を結んできた都市が河口にはいくつかあった。
「異民族を撃退したいのはどこも一緒だからな」
「ゴルヴァには、」
とヴァイ。
「隠者の村があります。そちらに応援を頼み、車を作りましょう」
「車を作れるんですか?」
とイズミ。波の里から出たことのない彼女は目を輝かせて尋ねる。ヴァイは青い目を三日月にして微笑む。
「車があれば移動が楽になりますよ」
「人ってすごいですね。歩かなくても移動できるなんて」
「馬に乗れば同じだろ」
グヴァンはにべもない。
「でも」
とヴァイ。
「馬は人には作れませんからね」
グヴァンが鼻白んだ顔で隠者を見たが、ヴァイは黙ってまま眉を大きく引き上げただけだった。
三人は大河に沿って下っていく。
せせらぎの音に混じり、かすかに木の幹を打つ音と発条の音が混じり、あたりを波立たせている。
「発条の音がします」
イズミが言った。グヴァンは殺気だった表情を浮かべたが、ヴァイは、
「山の向こうでしょう」
と言った。
「はい」
とイズミ。
「木の幹を打つ音も」
「昨日の奴らですね」
「真夜中に車を走らせようとしたあほどもか」
とグヴァン。
「長い遠征で車の部品が足りなくなっているのでしょう」
「材木が弱点か」
「彼らはしばらく足止めを食らうことになるでしょう。だとしたら、」
とヴァイは目を伏せる。
「火でいけますか」
「なるほど」
グヴァンは合点した。
「燃やせたら一網打尽だな」
三人は川沿いを埋め尽くす立ち枯れた草原をただひたすら歩いた。
先頭を歩くのはグヴァンである。イズミが続き、ヴァイが殿だった。グヴァンの体が通ると黄色い枯草はカサカサカサと音を立てる。その音が終わらぬうちにイズミが通る。すぐ後にヴァイが続き、枯れた音は重なり合いながら秘かに川のせせらぎに溶けていった。
イズミの耳にはその音は川に滴る苦い草の汁のように思われた。
青臭い緑がかった一滴一滴がせせらぎの青へと溶けていく。
川にひっそり混じる毒。
だが、川ももはや澄んではいない。
とっくの昔に異民族の船によって真っ赤に蹂躙されているのである。
真夜中に川を上る船の音をイズミは捉えていた。
それはまるで人の断末魔のような黒い赤だった。
私は何をしているのだろう。
イズミは不思議な気持ちに駆られる。
私はなぜ黄色い音を立てながら枯野を歩いているんだろう。
これは悪い夢だ。
イズミにはそうとしか思えなかった。
目が覚めたらいつもと変わらぬ退屈な里の暮らしに戻るのではないか。
そう思えてならなかった。
だが、夢は醒めない。
永遠に夢は醒めることはない。
枯れた音がふと止まる。
もう一つの音も止まった。
音は先頭を行くグヴァンの音一つきりになった。イズミが立ち止まり、後ろを歩くヴァイも止まったからである。
「どうしました」
ヴァイが囁く。
「もう、波の里はないんですね」
イズミはぽつりと呟いた。呟きながら喉の奥からこみあげてくるものを抑えきれなかった。イズミは口を押える。
今にも座り込みそうなイズミの肩をヴァイが支える。
見たことのない生まれ故郷。
会ったことのない両親。
物心ついた時から一緒だった里長。
昨夜の光景が蘇る。
異民族に喉を掻き切られて息絶えた里長の顔が脳裏に焼き付いて消えなかった。
「なんで生きているんだろう」
誰が生き延びられたのかイズミにはわからない。
なのに自分はなぜ生きているのだろう。
ただひたすら刀をくるくると回しながら見境なく殺戮していく黒装束の姿だけが恐怖の感情とともにやけに鮮明だった。
なんで生きているんだろう。
里が消えて、イズミを知る者は誰一人いなくなったというのに。
誰も知らない存在は生きているといえるのだろうか。
もう嫌だと思った。何もかも忘れて眠りたかった。二度と目が覚めなければいいのに。
こんな重い記憶を抱えて生きていける気がしなかった。だってもう誰もどこにもいない。
「イズミ、行きましょう」
ヴァイが促す。
「私は」
イズミは掠れた声で呟いた。
「生きている意味あるんでしょうか」
「はい」
ヴァイは即答した。イズミは目をあげる。そこにはヴァイの青い目があった。すぐに彼女は目を伏せる。
「あなたにとってあなたは必要だ」
「私にとって」
「はい」
確かに自分にとって自分は必要かもしれなかった。
なんで生きているのかと問えるのは、私がいるからだ。
ならば。
この命が尽きるまでは私は”ここ”にいるのだろう。
そして私の世界は私とともに終わるのだ。
行き場のない感情がすとんとおさまる。
だが、おさまった先がどこなのかイズミにもわからない。
「行きましょう」
もう一度ヴァイが言い、今度こそイズミは歩き始める。
あ。
「花びら」
どこから来たのか白い花びらがふわりと舞い落ちた。
「行きましょう」
三度隠者は促してイズミは足を早める。
遠くで振り返り、二人を待っているグヴァンのもとへと駆けていく。
再び枯れた黄色い音は二つになり、三つになり、重なり合いながら川のせせらぎに溶けていった。
ずいぶんと間が空いてしまいました;;
世界観に入り込めてないなあと思ったので、ちょっと時間かけて気持ち入れてました。
すっと入れないのは面倒ですね。
ようやく第一章終わりです。
次回から第二章です。