第一章 巫女イズミ
第五節 巫女と隠者
「お前は何だ」
そう男は尋ねた。
白い顔だけが闇に浮かぶ。
首元まで覆う高い襟、手の甲を覆い隠す長い袖。
その身なりからして異民族に違いない。
大陸を移動する彼らは体に砂がつくのを嫌い、幾重にも布をまとって肌を隠すことで知られていた。
車輪に巻き込まれないための細いズボン、踝まで覆う長い靴。
典型的な異民族の恰好である。
袖やズボンの裾は擦り切れていて、長い旅路の果て、ここへたどり着いたであろうことを物語っていた。
そして右袖だけがひどく汚れている。革のようにそこだけが固くなっているのは戦闘員だからだろう。
「応えろ」
白い顔の男ディクスンが促すが、返答はない。
彼は暗闇に目を凝らす。
目の前にいるのはまだ子供のように見えた。
だが、くしゃくしゃの髪が気にかかる。
まだ捕まらぬ領主は”蓬髪のグヴァン”と呼ばれていたのではなかったか。
「この地の領主はずいぶんと若いと聞いている」
ああ、ばれている、とグヴァンは思った。
後ろを振り返る。
背後は大河。
まさに背水の陣である。
仕方がない。
グヴァンは口を開く。
「お前こそ何者だ?」
「質問しているのは俺だ、」
言いしな、ディクスンは腰の剣を抜いた。
グヴァンも即座に短剣を抜く。同時に左手でイズミを思い切り突き飛ばした。
虚を突かれた彼女の体は後ろへと転倒し、そのまま大河へ悲鳴とともに落ちていった。激しい水音が響き渡る。
遠くで大勢の男たちのざわめきが聞こえた。
「お前も行け!」
とグヴァンが叫ぶ。
「あなたもだ」
ヴァイは言いざま、グヴァンの体を抱えると大河へと飛び込んだ。
「俺は置いていけっ!」
グヴァンの怒声が響き渡ったが、激しい水音に掻き消され、ようやく集まってきた男達が大河を覗く頃には不審者達の姿は川面のどこにもなかった。
「何があった?」
彼らは口々にディクスンに尋ねたが、
「餓鬼の生き残りだ」
と答えただけだった。
東の空が仄かに白い。
夜明けが近いことを告げていた。
明けていく空は次第に朝焼けに染まる。
空を我が身と同じ色に染め、太陽が顔を出した頃、川岸に辿り着いたヴァイは河原一面を埋め尽くす立ち枯れた草を集めて火を熾していた。
「いい加減にしろよ」
側に座って憤っているのは金髪から雫を滴らせたグヴァンだった。日が昇ったとはいえ、あたりは依然、夜の冷気に支配され、ずぶ濡れの身にはひどく堪えた。
「あのひょろひょろならやれたのに、俺まで巻き込んで逃げるとはどういう了見だ」
「頭目でもないのに危険を冒す必要はないでしょう」
とヴァイが諫める。ずぶ濡れなのはヴァイも同じだったが、この男は顔色一つ変えずに拾ってきた木片をこすり合わせては火を噴き出させるのに成功していた。器用だなと思うものの、今はとても褒める気にはならない。
「頭目かもしれないだろう」
とグヴァンは抵抗を試みる。
「頭目は車輪探してうろつかないでしょう」
そう反論されて、グヴァンは不満の表情を浮かべたまま沈黙する。
「それにすぐに仲間が駆けつける。多勢に無勢では勝ち目はない」
ヴァイの説教は続く。
「「率先して戦うのも王の役目ではないです。王になるおつもりなら、その短剣は俺に渡してもらいたい」
「てことは、」
とグヴァン。
「俺につくんだな」
ヴァイは笑った。
「隠者は三代にわたる恩義があります。最初からそれ以外の選択はありませんよ」
「そうか」
なんだよかった、と思ったが、説教されたのが悔しくて口には出さない。
火種に枯れた草を加えると炎は大きく燃え上がり、体を温めるのに十分なほどの暖かさが宿った。
「イズミ」
とヴァイは声をかけた。
少し離れたところで、歯をカチカチと鳴らしながら顔面蒼白で震えている巫女が顔を上げる。
「もう少しこっちへ」
言われて彼女は這うようにやってくると、震える両手を火にかざした。長い髪と踝まである長い服が水を吸って、彼女はずぶ濡れのままだった。
「突飛ばして悪かったな」
不機嫌そうな表情を浮かべたままグヴァンが謝る。
「別に邪魔だったわけじゃないからな」
言い訳めいた言葉にイズミは微笑むと、
「助けていただいて有難うございました」
と軽く頭を下げた。
「礼は言うな」
とグヴァン。
「俺が異民族を見たがらなければ蒙らずに済んだ災難だからな」
「王様は謙虚ですね」
ヴァイが笑う。
「王様?」
とグヴァン。
「領主じゃまずいでしょう」
昨夜の白い男の言葉を思い出し、
「俺は有名みたいだな」
とグヴァンは言った。
「領主は軒並み殺されています。王様もまずいかもしれない」
「いや、いい。王様と呼べ」
と真顔でグヴァンが言った。そして、
「イズミ、俺に波の呪術について教えろ。戦いに役に立つのか」
問われてイズミはグヴァンの方を向き直る。彼女は正座すると背筋を伸ばし、
「私たちの呪術ははっきり申し上げて、何かを破壊するものではありません。我が身に何が起きているかを一早く知るためのものなので、戦にどう役立てるかという話になるかと思います」
「歩哨みたいなものか。どうやって知る?」
「音の波を捉えます」
巫女は口の前で両手を揃えて合わせると目を閉じた。そして、
「多くの人は空間には何もないと考えていますが、実際、そこには空気があります」
「確かにそうだな」
「それは水槽の中の水のようなものです。水が波立てば、その波は水全体に広がります。誰かが言葉を口にすれば、周りの空気が波立ち、その波は広がります」
「空気の波を捉えるってことか」
イズミは目を開くと、少し微笑んで頷いた。
「そして、命も細かく波立っています。生きている限り、そこには波が起こるのです。逆からいえば、波を起こすことで命を宿すことができると伝わっています」
「面白いな。無から有を生むってことだよな」
「そうです」
グヴァンは河原の石を拾い上げる。
「この石ころは生きていないから、波立ってはいないってことだ」
「はい」
「波立たせれば、石ころにも命が宿る?」
「理論上はそうなります」
「イズミ、お前はできるのか?」
「いや、それが、」
イズミは困ったように眉を寄せると、
「まだ修練が足りなくて……」
「できないのか?」
「はい」
「なんだつまらん」
「すみません…」
グヴァンは失望を露わにして石を放り投げ、イズミはしょんぼりと俯いた。ヴァイは苦笑する。
「十年や二十年の修練で命を宿せるようになれば、命の連鎖は大変なことになりますよ。そう簡単にいかないからこその秘術であり、奇跡です」
「それもそうだな」
とグヴァンは納得する。
「で、隠者は何ができる?」
「もっと現実的な技術ですね」
そう言いながら、彼はグヴァンの短剣を借りて魚を捕っていた。それを見ながらグヴァンは、
「魚取ったり車作ったりか?」
「そうです。胆力もいるので、そこは外部の力を借ります」
「外部の力?」
「花です」
「花?」
「花の力を隠者は借ります。その理屈は俺にもわからないが、我々の一族は古来、満開の花の下で胆力を得てきました」
「ああ、そうか」
グヴァンは合点した。
「爺がオアシス作りにこだわり、親父が完成させたのはそのせいか」
「そうかもしれません」
「爺は隠者が胆力を得られる環境を作って車を作らせたかったんだな。で、親父が尻込みしたと。あいつのせいで異民族に遅れを取ったようなもんだ。つくづく死んでよかったよあの糞野郎は」
グヴァンの中で父親に対する怒りは五年経った今でも癒えてはいないようだった。ヴァイはその悪態を咎めない。心に抱える大きな蟠りは吐き出すことが必要だと思っていたからだった。
「隠者の胆力もそうですが、」
とヴァイは続ける。
「車作りにも木材は必要です。異民族がこの地を襲ったのには、その目的もあったでしょう」
「なるほど。木材不足か」
確かにこの一帯には緑は少なかった。森林に囲まれた北から移動してきた異民族達の大移動も、ここに来て継続が難しくなっていると考えられた。
「夕べも部品を必死で探していたからな。代わりがないのだろう」
空を仰ぐ。
真っ青な空が広がっている。
完全に夜は明けたといってよかった。
「焚火の煙で異民族がやってくるかもしれんな」
体が温まってようやくグヴァンは現実的な問題を思い出す。が、
「夕べの男達なら山へ行きましたよ」
とヴァイは捕った魚を焚火で焼きながら答えた。
「昨夜、彼らが篝火を焚いていたところも見てきましたが、すでに引き払ったようです。係留されていた船もない。さらに上流に上ったものと思われます。イズミも、」
とヴァイが巫女を見る。
「音の波は感じないと言うので火を熾したのです」
と彼は言った。
「そうか」
とグヴァン。
「喋る奴がいなければ波は感じないってことか」
「はい」
とイズミが頷いた。
「意外と便利な能力だな」
グヴァンが素直に褒めると、イズミは嬉しそうに微笑んで、
「王様のお役に立てて光栄です」
と頭を下げた。
「イズミ、俺が王になったら、波の里を再建してやる。お前も俺に賭けろ」
とグヴァン。イズミは笑って、
「はい」
と答えた。
「まずは海辺の町へと行きましょう」
ヴァイは焼けた魚を草に包んで渡しながら、
「武器がいる。それに異民族を退けたいと思っている者もいるでしょう」
連携を取ることで蜂起を促せるはずだ、と彼は言った。
「しかしお前も器用だな」
とグヴァンは焼き魚に食いついた。
「草は食べられませんよ」
「先に言えよっ」
グヴァンは草を吐き出しながら悪態をついた。
かくして三人は川を下り、海辺の町へ向かうこととなった。
(つづく)
あと一節で第一章終わりです…たぶん;;
もう少しお付き合いください。