第三章 隠者ヴァイ
第三章 隠者ヴァイ
第一節 呪歌の夢
時とともに世界は開け、時とともに命は廻る。
すべては時の思し召すまま、湧いては枯れてやがて消えゆく。
波打つ調べを逃すなかれ。
降りそそぐ花を逃すなかれ。
掌に留まりてやがてその身を巡りゆく。
遠くで囁く声がする。
いや、あれは歌っているのだ。
遠い昔、母の懐に抱かれて聞いたことがある子守歌。
否、それとは違う。あれは巫女が今際の際に歌っていた掌の歌。
否。否。
違う。
あれは呪いの詠唱ではないか。
そう思い浮かぶと同時にぱっと目が開いた。
途端に目の粘膜へと流れ込んでくる液体に驚いて咄嗟に開いたばかりの瞼を閉じる。
口を開けば、ごぼぅ、と音がして、口の中にも液体が流れ込んでくる。
溺れているのか。
息ができない、……、咄嗟に頭を過ったが、そんなことはなかった。
ごぼごぼと水を吸い込む。
確かに水の中に浸かっているのに、全く息苦しくなかった。
むしろ水を吸い込むと空気のように隅々まで行き渡る。
深く吸い込む。鼻から口から吸いこまれるように液体が流れ込む。息苦しくない。
何だ、これは。
ようやく意識は汚泥のような悪夢の中から浮上した。
再びゆっくりと瞼を開く。再び流れ込む液体。だが、もう怖くはない。液体が眼球の粘膜に吸い込まれて馴染んでいく。この液体によって生かされているのだ。
目に映る光景は確かに水の中だった。そしてそれは真っ赤に染まっていた。
うわぁ、とくぐもった悲鳴がすぐ側であがる。
目玉をぎょろりと動かせば、大口を開けて叫んでいる男が目に入った。見覚えのある真っ白な顔。異民族の男。
男は掠れた声でまた何か叫んだ。聞き取れない。
もう一度ゆっくりと瞬きをする。
丸い水槽の中に沈んでいるのはグヴァンの首だった。
ゴグルが戦場で刈り取った敵将の首級を預けられたのはディクスンだった。
俺はいつも貧乏くじだ。
いつものように不運を呪う。
ゴグルの研いだばかりの鋭利な刃は確かにそのからだを一刀両断にしたはずだった。なのに、生首はいつまで経っても息絶えることなく、呪いの言葉を吐き続けた。
目玉をぎょろつかせ、声の限りに罵り続ける生首を前に、一体何が起こったのか、その場に居合わせた誰もが理解できなかったはずだ。
ゴグルでさえ狼狽した。咄嗟に恐れに憑かれ、一度は遠くへと蹴り飛ばした。
激しい罵声を上げながら首は遠い叢へと飛んで行った。
遠くの叢に落ちてもなお罵り止めない生首に、ゴグルは閉口して、
「拾ってこい」
とディクスンに命じたのだった。
地に顔を伏せたままくぐもった声でわめき続ける血塗れの首をディクスンは触りたくもなかった。だが、命に背けば、次に生首になるのは自分だ。
髪の毛を掴めば、痛い、と叫び、持ち上げれば罵声は一層大きくなった。唇からは血を滴らせ、口角泡を飛ばして生首は依然、罵り続け、異民族の男をうんざりさせた。目を合わせないよう彼は顔を前に向けて両手で捧げて持ち帰る。誰もが道を開け、異民族の主さえ目を背けて見ようともしなかった。
一瞥をくれるとうんざりした表情でそっぽを向き、
「連れていけ」
と低く唸った。
どこにだ。
ディクスンは思ったが、きっとゴグルの視界に入らなければどこでもよいだろうと気づき、仕方なく自らのテントへと持ち帰る。
当然、同じテントで寝起きしていた同輩どもは不気味がって出ていき、広くなったテントでディクスンはグヴァンの首とともに寝起きすることとなった。叫び疲れたのか首はテントに入るや否や、その瞼を閉じ、静かになる。やっと死んだかと思ったが、時折動くさまを見るとただ眠っているだけのようだった。
ディクスンの不運はそれだけでは終わらなかった。
やがて招かれざる客がしばしば彼の元を訪れるようになったからである。
客はいつも夢の中に訪れた。
白いローブをまとい、フードをかぶった男。
見たことがあると思ったが、どうしても顔を思い出せない。
最初の夜は立ち尽くす男の姿を見かけただけだった。
次はディクスンの前に座り、上目遣いでこちらを見ていた。
魘されて目覚めるといつも目隠しをされているかと思うほどの真っ暗闇の深更だった。
夜を重ねるごとに男は長居するようになった。
ある夜、男は大焚火の前に座っていた。古い書物を手にしている。細く節くれだった指で薄いページを捲っては破り、篝火へと放る。
どこかで見た光景だ。
あれは何だろう。
ああ。
そうだ。
ゴグルがいつもしていた仕草ではないか。
男の手から業火に投げ込まれる薄い紙はひらひらと蝶のように宙を舞い、やがて火の粉に囚われて、めらめらめらとその身を焦がす。火の粉を散らしながら所在なげに燃えていく薄い紙に目も呉れることなく、男はまた一枚、音もなく破り取る。
そしてまた一枚。
火の中へと投げ入れる。
その手元を見ているうちに、ディクスンは男の足元に何かあるのに気がついた。彼の黒い革靴が何かを踏みつけている。
赤黒く見えるそれは死体だった。
泥まみれになった大男の死体。頭は篝火の中に突っ込まれ、もはや身を焦がす紙と変わらない。まだ形あるその背中を踏みつけ、黒い靴は火の中へと押しやっているのである。
既に息絶えているのに。
更に足蹴にする男の激しい怒り。
きっとあれは裏切り者なのだ。
ディクスンは思いつく。
白いフードをかぶった男は裏切り者を成敗したのであろう。
それでも怒りは収まらない。
それは俺にも向けられるのか。
ディクスンは思わず身震いする。
これを。
男の唇が動いた。
左手が差し出される。
その手にはいつのまにか粗い麻縄が握られている。
これを。
もう一度言う。
これに浸せ。わかるな。
わからない。
だが、きっと首だ。首を浸せと言っているのだ。
でも、なぜ?
そこでディクスンは夢から覚めた。
目の前には満天の星空が広がっている。
瞬く星々が闇夜に開けた穴のように眩く光瞬いている。
おかしいだろう。
彼は慌てて飛び起きた。
俺はテントで寝ていたはずだ。
すぐ側で轟々と音がして大河のほとりにいるとすぐに悟る。
なぜこんなところにいるのかディクスンにはさっぱりわからない。
星影を頼りに当たりに手を伸ばすと、その左手に何かが触れた。
ひんやりと冷たい、それは麻縄で括られた丸いガラスの大きな壺だった。口まで水が詰まった壺がごろりとすぐそばに転がっていた。
これに浸せと。
わからないまま、なぜか合点した。
翌日のディクスンの仕事は、ガハラ近くのガラス工房の襲撃だった。
一抱えもある丸い水槽を強奪すると、早々に引き返し、壺の水を移しては依然静かに眠る首をそっと沈めた。唇からゴボゴボゴボと泡があがる。溺れるのではないか。
だが、死んでしまっても知ったことか。
ディクスンはそう思った。
俺のせいじゃない。
しかし、首は水に完全に沈んでも息ができるようだった。時折、鼻や口から小さな泡が水面へと立ち上る。魔法の水なのか。魔法の首なのか。いずれにしてもこの男を殺すことはできないのだろう、とディクスンは観念した。
(つづく)
すっかり遅くなってスミマセン!
第三章突入です。
これが最終章になります。
もう少しお付き合いをお願いします。




