第二章 王グヴァン
第八節 ガハラの戦い
人去りの時期の深更に蓬髪のグヴァンと異民族の戦いは始まった。世に言う“ガハラの戦い”である。
戦いの始まりには奇妙なことが起きていた。闇の中より十数頭のウーヴが姿を現しては次々に異民族を襲い、黒い船が火の川を遡ってきたのである。
「呪いだ!」
と叫び声が上がり、異民族達の多くは奇声をあげながらただ逃げ惑うだけだった。
何が呪いだ。
ディクスンは恐怖で縺れる足を忌々しく思いながらも這うようにして逃げる。呪いなんかであるもんか。あれは鉄板だ。船底を鉄板で覆っているのだ。火の海を渡れるのはそのせいだ。ウーヴも隠者が化けたものじゃないか。何にも不思議なんかない。呪いなんかじゃない。そんなことはわかっている。だが、恐ろしいことが起きていることは間違いなかった。
鉄板の船からは次々に兵士達が飛び降り、異民族達を切り刻んだ。それは捕縛を目的としない、確実な殺意を持った攻撃だった。
橋守はやり過ぎたのだ。ディクスンは後ずさり、足が縺れてその場に転倒する。そうだ。我々はやり過ぎたのだ。恐怖は支配だけじゃない。反感だって買う。ゴグルよ、どうするのだ、この不始末は!
「畜生っ!」
ディクスンは立ち上がり、襲い掛かってきたウーヴを左手で払いのけた。鋭い牙が血で革のようになった袖をしたたかに引き裂く。畜生。畜生。血の匂いにつられてくるか。より人を殺した者を優先的に襲っているのか。身の毛がよだつ恐怖が全身を貫く。
ディクスンは片手に握っていた短刀を鞘走らせる。激しい衝撃を受けて剣火が散った。白いマント。赤い鞘。彼を襲ったのは緩やかに弧を描く繊月刀だった。柄を握るのは黒髪に青い瞳の男。
「隠者か…」
ディクスンは呻いた。青い目が刃と同じ三日月になる。
「ゴルヴァで会ったな」
ディクスンは何も言わない。覚えられている。誰かに知られるのはまずかった。しかしそれも生き延びられればの話である。今死ねば何の意味もない。
「ゴルヴァの隠者か」
「いや、ゴートだ」
「ゴートだと」
ゴートの隠者の里には誰もいなかったはずだ。
「誰もいなかっただろう?」
まるで心中を見透かされたように言葉が返る。ディクスンはごくりと喉を鳴らす。三日月の目に見据えられて気が狂いそうだった。なぜ笑っている。
「ゴグルはどこだ」
青い瞳が問うた。
「え、……」
「異民族の頭はどこにいる?」
「今日は、ガハラを離れて、」
三日月は満月になった。
「刀を研ぎに街まで、」
ディクスンの言葉を遮って隠者の背後から黒装束の男が斬りかかった。それを受けるべく繊月刀の刃がくるりと返る。今だ。ディクスンは脱兎の如く逃げ出した。無理だ。殺される。このままでは無理だ。怖い。殺される。縺れる足を必死に動かして彼は走った。何度も足を取られては転び、とうとう最後は這うように逃げた。逃げながら袖を引きちぎる。異民族独特の黒装束。血の匂いを追うウーヴから逃れるため、上着を脱ぎ捨て、ズボンも脱いだ。激しく切り結ぶ男達の合間を半裸のまま這って逃げた。闇夜に散る剣火はまるで蛍のようだった。何度も何度も鋼がぶつかり合う音が響き、壮絶な蛍は幾筋もの血を吸って闇夜に舞った。燃え盛る船の炎に照らされて禍々しい戦いは朝まで続いた。
空が白んできた時、もう一度大轟音が響き、異民族達をさらなるパニックに陥れた。その隙にグヴァンの兵士は一斉に船に引き上げる。
まるで通り魔に遭ったような悪夢の一夜は過ぎ、異民族はその勢力を半分にまで落とすこととなった。
凄惨な戦いは、しかし決して成功とは言えなかった。
異民族の頭目ゴグルはたまたまこの日、刀を研ぎにガハラ近くの街ザジまで足を延ばしていて、襲撃を免れたからである。
最初に奇襲の知らせを聞いたゴグルの胸に浮かんだのは吉兆という言葉だった。
彼にとって今回の民族の危難は福音だった。
時が俺を生かした。
彼はそう受け止めた。
(つづく)
サブタイトルに各章を入れたらよかったなあと今頃気づきました…
今更なのでこのままいきます;;




