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文字数:3185字
眼界に広がる草原に、殺戮の気配が一つ。
灰かぶりの毛を怒りに靡かせ、異常なまでに鍛え上げられた隆々とした身体は、まるで重機機関のように息をするたびにぶるぶると振動している。
もはやサイズの全く合っていない茶色の上衣は今にもはちきれそうで、腰に巻かれた剣の鞘に何も収められていないのがまるで代償だとでも言うように、本来は仕掛けられた罠や敵の外皮を少し裂傷させる程度の働きしかしない爪が、湾曲するほどに鋭く伸びて太陽の下に照らし出されている。
創造空間で全身を怒りに揺らす狼男とアミルたちは、審判の瞳に静かに見下ろされていた。
『グルゥ…………』
見上げるほどに高い身長を誇る眼前のウェアウルフは何も語らない。ただ荒く獰猛に息を吐きながら、身構えるこちらを蠢く赤い双眸で吟味するように射抜き、本能のままに唸り声を上げる。
アネラスはその圧倒的な気配に押されているのか抜き出した剣を持つ手は確かに震え、やはりまだ戦いというものに慣れていない様子を見せる。アミルは落ち着いた表情で敵を観察し、早い段階で、自身からしてみればそれほどの相手ではないと判断してしまっていた。
ただ、唯一クラネだけが、目の前で自我すら保っているのかも怪しい獣人族を見ずに、もっと他の場所を見ているような、そんな眼差しを送っている。
「……ぜだ…………」
「クラネ……さん?」
ぼそりと落とされたその呟きを拾ったのはアネラスだった。震える手で剣を構えながら、顔だけを横に向けて不審そうな顔をする。
クラネの表情は下げた頭から垂れる青色の髪によって隠れて見えない。それでも、彼女のなかを駆け巡る血流に似たものが、静かに生まれつつある怒気を届かせつつあった。
「何故お前が……ここに……っ!」
瞬間。穏やかな草原を吹き飛ばすように、クラネが恐ろしい速度で突出した。
彼女の剣から伸びる銀の線だけが軌道を目視させるほどその動きは俊敏。
地面を滑走するかのように駆け抜け、あっという間に空いていた距離を詰める。
「ッ、あぁッ!」
『グヴゥッ!』
いつもなら見せないクラネの力任せに剣を振り抜くような掛け声とともに、地面と並行していた銀閃が上に向く。
下から剣を振るわれたウェアウルフは、その鋭利に伸びた爪で器用に対抗した。
剣と爪ならば、当然前者のほうが攻撃力も頑丈さもあるはずだ。しかし、目の前で打ち合ったその二つは、今までの常識を覆す。
まるでその爪自体が鋼で出来ているかのように、一瞬鍔迫り合うと、華やかなオレンジの火花を散らした。
「あああぁッ!!」
『グガッ!!』
クラネは爪で己の剣が相打たれたことに一切疑問を覚えた様子もなく、発した大声とともにもう一度剣で弧を描く。
しかしそれもまた、鋼鉄の狼爪によって遮られてしまった。
「クラネさんっ、クラネさんっ! 一体どうしてしまわれたんですの!? いつものクラネさんじゃあ……っ」
突如始まったクラネと狼男の激しい打ち合いに、アネラスは声を荒らげて彼女の名を呼ぶ。
確かに今の彼女は普段の彼女ではない。まるで何かに突き動かされているように、そう、それこそ自我を失ってしまったかのように、ただただ何かの感情だけで剣を動かしているように見えた。
特段押されている……という訳でもないが、相手の急所を狙おうともせず出鱈目に近い太刀筋を披露しているクラネからは、明らかに冷静さが欠け落ちている。
(魔力の流れも怪しいな……)
クラネの体内を流れる魔力の動きもまた、彼女が正常でないことを示していた。
魔力の異常は精神の異常と同義。つまりクラネのこの急変ぶりは――勿論それが全てという訳ではないが――少なくとも精神的なものから来ているということだった。
「何故……何故……何故殺したぁッ!」
「こ、殺しっ!?」
と、今まで黙する狼男と打ち合っていたクラネが、突然激情に身を任せ吠えた。
あまりにも普段の彼女とかけ離れた声音にアネラスがびくんと肩を揺らす。
しかし、その言葉を向けられたのはアネラスでも、ましてやアミルでもない。
その瞳は、対峙している灰の狂獣に向かって飛ばされていた。
『…………』
狼男はしかし答えない。動くたびに靡く毛並みも相変わらず、頑丈に伸びた爪で乱雑に振られるクラネの剣を受け続けている。
男から反撃の色は見られない。というよりも、敢えて防御のみに徹しているような、そんな雰囲気さえ感じられた。
纏う殺気は本物だが、それを別の何かで制御され、いいように操られているようにも取れる。
(……時間を、稼がれてる?)
その思考にたどり着くと同時に、再び激情の一声が響き渡った。
「ああああああッ!」
『グルルァッッ!』
一際大きな金属音が木霊する。打ち合いが始まってから現在まで、正確な時間は分からないが恐らく五分程度が経過していると思われた。
もし時間を稼ぐのが狼男に課せられた役目だとすれば、それを指示したのはほぼ間違いなくあの青年と少女、もしくはそれに関係する組織だと推測できる。
なら何故、時間を稼ぐ必要が彼らにあるか。ここまでくれば、答えなんて簡単に導き出せた。
――エルフ族の誘拐。
それを達成するために、邪魔な存在であるアミルたちを足止めしているのだろう。
「……あぐっ!?」
クラネのひと振りが、狼男の鉤爪によって大きく弾かれる。火花が辺りに散布すると同時に、彼女自身も後方に吹き飛ばされた。
何らかの理由から冷静を失ったクラネではあるが、その身体に染み付いた戦いの動きは洗練さを抜いても目を見張るものがある。
しかし今、剣を大きく弾かれることになった彼女の動きは、出会ってから今までの動きからでは考えられないほどに粗くなっていた。
「ク、クラネさんっ!?」
吹き飛ばされ地面に強く打ち付けられたクラネを見て、アネラスが悲鳴を上げながら駆け寄った。
倒れるクラネはしかし、心配するアネラスなど意識の外にあるかのように、視線が前方の狼男から一向に逸れない。
怒り、憎しみ、悔恨。様々な負の感情が、青髪の少女を取り囲む。魔力の乱れがより色を濃くさせて視えてくる。
右腕を衝立に見立てて、クラネは倒れた自分の上半身を無理やりながらに起こした。
その様子をアネラスが膝を付いた体勢から見上げる。しかしクラネは未だ視線を下ろさない。外さない。目の前の敵から。
後方で二人の一方通行なやり取りを見ていたアミルは、既に一つの結論に至っていた。
それは、眼前で巨躯を震わせまるで野生還ってしまったかのような狼男と、クラネの因縁。そして、今の彼女では、その因縁に決着をつけることができないということ。
彼女の体内では既に魔力が暴走を始めていた。四肢が言うことを聞かなくなってきているのはそのせいでもある。
クラネほどの魔力を持つ者で且つそれなりに鍛錬を積んでいるならば、本来魔力が暴走を始める前に自分である程度までは抑制できる。
いや、そもそも魔力を潤沢に秘める者は、精神的にも強い節がある。よって、精神の乱れ自体がまず起き辛いはずなのだ。
クラネだって、それに倣って精神は強い。共に行動してきてそれはひしひしと感じていた。
ただ、である。
やはり眼前で獣じみた吐息をする狼男との間にある何かが、屈強であった彼女の心を想像以上の速度で蝕み、魔力の暴走を引き起こしてしまっているのだろう。
魔力の暴走が行き着く先はお世辞にも明るい未来とは言えない。魔力とは繊細だ。最悪の場合、暴走が精神的にトラウマとなり、二度と魔法が使えなくなってしまう可能性だってある。
もしこれが、アミル自身とは何ら関係のない人物が起こした魔力の暴走だとしたなら、お得意の面倒臭いという感情が彼を決して動かすことはなかっただろう。
それに、彼女にここで倒れてもらっては困る。まだ任せた役目があるのだ。
次話もよろしくお願いします。
TwitterID:@K_Amayanagi




