名乗りの距離
翌朝、眠い目を擦りながら食卓に付いたハル。顔を洗ってもスッキリせずシャッキリせず。昨日程の食欲も湧かず、ボーッとしている頭を起こす為に食べている。味わっている余裕なんて微塵もないのだ。短剣を取りに昨日の森へ行こうと決めていた。本命は、昨日の少女に会うことなのだが、短剣を取りに行くということは、あの熊に遭遇する確率を高めることになる。その心配さえなければいいのだが、会える確率だけでいえば、圧倒的に熊が上回る。
「今日は薪割りをしてもらいましょうか。ダンさんなら頼みを利いてくれる。どっかの役立たずなんかよりさ」
「どうせ役立たずだよ。役立たずは邪魔にならないように出掛けてくるよ」
「彼女でも出来たの?」
「やめてくれよ。周りに居るのは年寄りと年増だけだぞ。俺にとっちゃあボールゾーンだ」
「ダンさんの娘さんは二十歳だけど?」
「タイプじゃないんだよね。悪いけど」
(知らねー!?)
「タイプじゃない、か。四歳差は問題ないんだ?」
「まあそうなる。そんなことより母さんよ、ちょいと魚が生焼けじゃないか?」
「生でも食べれる魚だから平気だよ。それに、少しくらい毒を飲んだっていいじゃないよ。貧弱な身体じゃモテないよ」
「当たってもいいってのかよ!?」
「嫌ならいいんだよ? 食べなくても。空腹で苦しむか、毒で苦しむか。ま、どっちにせよ苦しいけど」
「それでも親かよ!?」
「親だからよ。少しくらい毒でも飲んで免疫付けて、もしも病気に掛かっても大丈夫なようにさ」
「その前に死んじまうぞ!?」
「あんた……正気?」
「おう」
「……あんた、冗談でも人前で言うんじゃないよ。どんなに苦しくても死ねないんだから」
「あ、ああ……うん」
(死ねないって何だ? 妙な言い回しだ)
食卓の空気が重くなったのを感じたハルは、さっさと料理を掻き込むと、身支度をして森に向かった。
※ ※ ※
森は静かである。風に靡いて草木が揺れる音はするが、それ以外に音はしなかった。厳密に言えば、ハルの足で踏み折られる枝の音はするが。
「確かこの辺だったよな?」
短剣を落とした地点まで来たものの、肝心の短剣の姿は見当たらない。見当たるのは、真新しい熊の足跡だけだ。等間隔に続いているその足跡は途中で途切れていた。その足跡の側にある木は揺れていた。風が吹いた時よりも激しく揺れている。
(ま、まさか!?)
嫌な予感がしたハルは後退する。ゆっくりゆっくり確実に。確実さを得る為に小幅に。その結果、来るときに飛び越えていた枝を踏んでしまった。静かな森に響くポキリ音。木の揺れは収まっていた。確実に聞かれてしまったのである、ポキリ音を。
「ウウ!」
「出たー!!」
木から飛び降りた熊の震動で尻餅をつく。しかも丸腰である。逃げるにも立ち上がれずの絶体絶命。声を出すことも出来ずに過呼吸まで起こしてしまう。
「ブレイズ!」
「ウウ!?」
目を覆いたくなる強烈な光。腕を掴まれたのは感覚で分かるものの、それが誰なのかは分からない。眩しさに目を開けられないからだ。それでも従うほかなかった。
「うっ!」
「とっくに眩しさは消えたわよ。運がいいのか悪いのか分からないわね、キミ」
「お前は!?」
「そんなに驚かなくてもいいんじゃなくて? そんなにワタシが怖いのかしら」
「そんなわけないだろう! また助けてもらっちまった。また借りが出来ちゃったな」
「随分と呑気ね。ワタシは焦ってるわよ!」
「えっ?」
少女の方ばかりに気を取られていた為に、背後から迫る巨体に気付けなかった。少女の素早い反応に助けられたが、どう考えてもお荷物にしかなっていないことに悔しがるハル。
「すまん!」
「謝ったって許さないわよ! ワタシにこんな面倒事を与えたんだから!」
少女が差し出してきた物は、昨日ハルが落とした短剣であった。無いと思っていた短剣が拾われていたことに安堵した。その拾い主が少女ということにも安堵した。有り難く短剣を受け取ったハルの動きが変わる。若干腰が引けているものの、昨日のような強がりではなくなっていた。
「へん! 出てくんなって言ったのに、散々夢に出てきやがって! お陰で寝不足だぞ、この野郎!」
「ウウ!」
「すっかりイメトレ漬けだ。お前の攻撃パターンは知り尽くしたってんだ!」
仁王立ちからの爪攻撃の、その大きすぎる間合いを掻い潜り背後へ回り、おもいっきり足を狙う。ブスリと刺さる短剣の感触が伝わり顔をしかめる。それでも構わず刺しきった。
「ウウ!!」
「あのバカ!」
熊を怒らせてしまい、足に刺した短剣ごと振り回されてしまう。その衝撃で抜けた短剣と共に木へと激突。気を失いかける程のダメージを負ってしまう。
「ウウ!!」
(身体が……痛てえ!?)
「ブレイズ!」
「ウウ!!」
(やっぱり……。ブレイズの効き目が落ちている。ブレイズに対する免疫が出来てる。何回も喰らっていれば当然かしらね)
「す、すまないな」
「謝ったって許さないって言った筈よ。転生者のキミは大丈夫でも、転移者のワタシは大丈夫じゃないもの」
「転移者?」
「質問なら後回し! そんな無駄口を叩く元気があるのなら手伝いなさいよ!」
「どうしたらいい?」
「囮になってくれないかしら。あの熊にギリギリまで近付いてくれればいいから」
「それって俺、無事じゃ済まないよ?」
「そうね。そうならないように気を付けるけれど」
一枚のカードを取り出して翳す。眩い光を放つ準備を整えたが、それを繰り出すタイミングを掴めずにいた。
その隙を狙われてしまう少女。駄目かと思った瞬間、ポキリという音に熊が向きを変えた。正直ホッとする。しかし気を緩ませることはしない。ハルが気を引いている内に、攻撃を繰り出すタイミングを探る。
「さあ来い、熊野郎!」
(頼むぜ恩人さんよ。こんな捨て身、二度目はないぞ!)
再び交わる短剣と爪。キンッという音こそ変わらないが、短剣を握っているハルの心構えは変わっていた。まだ助かる可能性が残されているからだ。痛む身体を押して立つ。気迫で負ければ終わりなのを察する。だから声を上げる。さっきは出せなかった分、自分に発破を掛けていく。ハルの気迫が勝ったのか、熊の体勢が崩れる。それはとても僅かな隙だ。そんな僅かな隙に懸け、熊の頭上に短剣を放る。
「ライトニング!!」
「ウウウ!!」
短剣目掛けて落雷する稲光。そのまま熊に向かって落ちていく。苦しみの声を上げながら、静かにその場に倒れる。ドスンッという地響きに尻餅をついたハル。さっきは恐怖の尻餅であったが、今の尻餅は安堵のものだった。
「……あ~あ……キツー」
「その台詞はワタシが吐きたい。上手く命中させたことのない術を、こんな逼迫した状況で使わなければならなかったんだから」
「すまん」
「謝ったって許さないと……まあいい。キミのお陰で命中したのは確かだ。これでキミへの貸しは返してもらったから」
「今日の分はな!」
「はあ?」
「昨日の借りは返してない。その借りを返す為に、お前の名前を知っておかなきゃ駄目だと思ってる。命の恩人の名前を知らないのは気持ち悪いんだ」
「ワタシの名前を知りたいなんて物好きよ。知ったところで無意味になるのが見えるわね」
「そんなもんは俺が決める!」
「困った変態ね。教えてあげるしかなさそうね。神羽流よ。神羽流ルキ」
「ようやく名乗ってくれたなあ。これで呼びやすくなった。教えるついでに質問いいか?」
「何?」
「俺のことは話したんだ。次はそっちの番だ。ルキのこと、転移者とか魔術のこととか。この世界のことで知ってることを教えてほしい!」
「いきなり呼び捨てだなんて。しかも名前で。随分な注文の多さに呆れるばかりだわ」
「……蔑まされるのには慣れてる」
ハルのその一言に降参したルキ。ファルインとは逆の方向に歩き出しながら、静かに語り始めた。