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第十一夜

作者: 松泉夜考

 こんな夢を見た。

 私は病院の前に立っていた。しかし、その外観は全く病院とは懸隔していた。四角い岩のようであったし、その岩は大体一軒家ほどの大きさだった。どこかに病院という看板が立っているわけでもない。また、私はその時病気ですらなかったのである。病院に行く必要は全くなかったのだ。しかし、この岩が病院であるということに確信を抱いてた。

 ドアが開いた。中はエレベーターになっていた。岩の中にあるにしては普通のつくりをしていたが、部屋の中は狭く、痩せ型の私一人でようやく収まりきるほどの広さだった。私は何の迷いもなく29階のボタンを押した。そこに私を待っている人がいるような気がしたからだ。

 29階までたどり着くまでには案外時間がかかった。また、そのエレベーターはあまりにも静かだった。そのために、このエレベーターは動いていないような気すらした。そんなことをボンヤリ考えていると、ドアの方から外の景色が見えるようになった。ドアはいつの間にか透明になっていた。私が先程立っていたところを見下ろすと、海になっていた。静かな海だった。生物はまるで存在していないようだ。私は、この海は果たして本当に海なのだろうかと疑った。海にしては透き通りすぎているように思った。海底が恥ずかしげもなく顔を見せてくる。こんなにも曝露された場所では生物も住みたくないだろうと私は思った。やがて、病院特有の薬臭さが漂うようになった。その匂いが強くなるにつれ、エレベーターの中は暗くなっていった。どうやらもうすぐ29階のようだ。

 ガッと鈍い音を立て、エレベーターの扉は開いた。扉の向こうは、そのまま病室であった。私が病室に入って後ろを振り返ると、エレベーターはすでに消えて、茶色く煤けた壁になっていた。その病室全体、その壁のように古びてしまっていた。そして何よりも、この部屋の空気は100年以上は入れ替わっていないような、そんな黴臭さを感じた。時の流れが静止するとはこの空気のことを言うのかもしれない。一輪の花を描いた一枚の絵が枕元に飾られていたが、そんなに美しい花だとは思えなかった。否、その花は世間では美しいと言われる花だったのだが、あまりにも陳腐すぎて、私は少し顔をしかめてしまった。その花を描けば美しいと言われるだろうというその画家の安直な考えが、その絵からひしひしと感じられた。そして、そんな安直な考えに乗せられてこの絵を買った病院に対して、強い不快感を抱いた。私は一刻も早くこの病院から抜け出さなければならないと感じた。

 ベッドには一人の少年が寝ていた。特に幸せそうでも辛そうでもない寝顔を無防備に晒していた。私が見る限り、その少年は調子が悪そうではなかった。しかし、もうすぐこの少年は死ぬということを私は知ってたのである。誰から聞いたわけでもない。しかし、それは必然的なことだったのだ。夜が明ければ朝になる、というぐらいにそれは必然的であった。あまりに必然的なことだったので、この少年がもうすぐ死ぬということに対しては、そこまでかわいそうだという感情も湧かなかった。ただ、その必然という言葉に対して、怒りと諦めが私の中でお互いを牽制しあいながら大きくなっていった。怒りという激情が炎のように燃えさかると、冷たい諦めが怒りの炎に水をかけて沈静化する。水が枯れると、また炎が復活する。そんな循環が短いスパンで目まぐるしく私の中において発生していた。私は何も言わずに少年の顔を眺め続けた。少年は全く動かなかった。息をしているのかどうかすら判然としなかったが、彼がまだ生きていることを私は知っていた。

 私も死んだように全く動かなかった。視線は少年の顔を差していたが、視神経は全く働いていなかった。全く何も考えていなかった。何か別のことを考えるというわけでもなく、ただ漫然と同じ姿勢で突っ立っていた。いつの間にか少年は瞼を開いていた。ただし、今までと同じように全くその姿勢を変えようとしなかった。私の方を見ていたが、私と同じく何も考えていないのかもしれない。暫くそのままで居続けたが、そのうちその状況に耐えられなくなり、私は口を開いた。

「ここから出よう」

少年は少し微笑んだだけで、何も言わなかった。私はもう一度言った。

「ここから出よう」

少年は次は少し困ったような顔をした。しばらく黙って考えて、ようやく言葉を発した。

「なぜですか?僕はもうじき死にます。このまま静かに眠りにつきたいんです」

「もうじき死ぬんだったら、ここから出て行っても良いじゃないか。まだ元気なうちに外の空気を吸って、冥土の土産にでもすればいい」

このように喋りながら私は後悔していた。何故か分からないが、私は少年とここを出るべきだと考えていた。しかし、少年を説得しようとして出た言葉はあまりに陳腐で軽蔑すべきものだった。私が一番憎むべき言葉を私は発してしまっていた。あまりに陳腐で、なおかつ相手の事情を少しも汲み取らず、自己の満足のみを良しとした自分を私は非常に嫌悪した。しかし、その感情は表情として表れていなかったと思う。顔の筋肉は感情の鏡としての役割をそのときは果たしていなかったような気がした。

 ところで少年は私の言葉を聞いても、少しも表情を変えることはなかった。この類の言葉はまるで朝の挨拶ぐらいには聞き慣れているのかもしれない。しばらくして、少年はまた口を開いた。

「外に出るにせよ、ここに留まるにせよ、どちらにしてももうすぐ僕は死ぬんです。それは一か月後かもしれないし、一週間後かもしれないし、一時間後かもしれない。何にせよそれはすぐなんです。そんな人間が外に出て思い出を作ったところで、虚しさが増すだけです。死んだら意識は二度と復活しないんです。二度と思い出を思い出すことなんてできないんです。あなたは死にかけの人間を外に連れ出したという思い出を何十年間か楽しむことができるかもしれない。でも、僕のことを考えてほしい。外に出て楽しんでしまえば、僕は余計に短いこの命を悔やむことになる。必然を恨むことになる。わざわざこの期に及んでまで、感情を持ちたくないんです。たとえプラスの、ポジティヴな感情になったとしても、結局その分ネガティヴな感情に変換されてしまうんですよ。だから、僕にとって感情を持たないということが今は幸せなんです。このまま静かに心を乱されずに死んでいくことが幸せなんです」

少年は静かに淡々と言葉を吐いた。私は少年の言っていることがあまり理解できなかった。しかし、反論しようとも思っていなかった。そこからまた長い間沈黙が二人を支配した。少年は相変わらず姿勢を変えていない。私は何も考えていなかった。ただただ少年の顔を眺めているだけだった。彼は絶望している様子でもない。かといって、何かに打ち勝とうとする強い意志を持った顔でもない。ただひたすら死というゴールに向かって、一秒一秒「生きる」という仕事をこなしている職人の様な顔つきをしていた。少年は職人として自分の「生きる」という仕事を極めようとしているようにみえた。この病室の空気は、つまり永久を一瞬に封じ込めたこの室内の空気というのは、その職人による作品なのだろう。ただ、まだ死を身近に感じたことのない私からすると、それが凄まじいことだというのは何となく分かるのだが、しかし職人と凡人では思考回路がてんで違うので、その思考の過程から結果に至るまで全く理解できなかった。

 しばらくは、やはり私は立ち尽くしていた。少年の職人としての技術を理解しようとしていたのだが、いつまで経ってもそれを理解できる気はしなかった。否、いつかは理解できるのだろうが、そのためには何十年という年月がかかるだろうし、今の私にはそれは想像を絶するものだった。結局、いつまで経っても理解できる気はしないのと同じことだった。

 理解できないという事実は、また別の不快感を私にもたらした。その感情の矛先は少年へ向けられた。そのついでに、先ほど陳腐なことを口に出して後悔した感情も、なぜか少年への怒りに変換されてしまった。極めて自分勝手だということは重々承知していた。それを承知した上で、私が理解できないことをやってのけている少年に対して、私は怒りを抱いたのだ。それは恐らく自分への怒りと混同していたのだと思う。しかし、怒りという感情は自分以外の対象を必要とするのだろうと私は考えている。何かを傷つけることこそが怒りを手っ取り早く解消する一番の方法だからだ。そして、私たちは自分自身を真の意味で傷つけることはできない。私たちは結局自分に対して残酷になることができない。他者という存在、何を考えているのか分からない相手だからこそ、私たちはどこまでも残酷になれる。分からないもの、得体の知れないもの、それは私たちにとって絶対的な悪に近い存在なのだから。

 そして、私は今だからこそ、此処まで冷静に自己の感情を分析することができる。今だからこそ、自分が極めて自己中心的だったと断言することができる。しかし、このときは明らかに我を失っていた。激情に支配された私は、少年の手首を掴んだ。少年の手首は冷たかったが、思っていたほどに細くはなかった。私は、語気を強めて言った。

「ここから出るぞ」

少年は、掴まれている自分の手首をじっと見つめるだけで、やはり何ら行動を起こそうとしなかった。あくまでも穏やかだった。たとえ私に邪魔されようとも、彼は自分自身の仕事を全うしようとしていた。まるで私の存在を一切認めようとしないように。少年のその態度は、私の怒りに油を注いだ。私は完全に怒り狂ってしまった。掴んでいた腕を強く引っ張って、少年を引きずり出そうとした。その刹那、「ブチッ」という大きな破裂音がして、少年の左腕は引きちぎれてしまった。私は恐ろしくなって、その左腕を少年に向かって投げてしまった。少年はその左腕を残っている右腕でキャッチすると、やはり落ち着いた様子で自分の左腕を眺めていた。不思議なことに、1分ほどもすると、その左腕は砂のように消えてしまった。

 私はその様子を眺めて呆然としていたが、腕を引きちぎられても泰然としている少年の姿にやはり怒りが再発したのである。もっと少年の暴れ狂う姿が見たかった。自分の腕が無くなったのならば、我を忘れて泣き叫び、私に対して殴りかかるぐらいのことはするべきだと思っていた。しかし、少年は私の思い通りにならなかった。どこまでも少年は私の想像を絶していたのである。怒りという感情が液状であったならば、全身の穴という穴から溢れ出るほどに、全身は怒りに満たされた。私は怒りという液体が口から溢れないように口を真一文字に結んで、静かにそっと少年に近づいた。そして、少年の右腕を先ほどと同じようにして掴み、思い切り力を込めて引っ張った。やはり同じように破裂音がしたかと思うと、右腕が引きちぎれた。私はその右腕を傍に投げ捨てたが、すぐにその右腕は溶けるようにして消滅した。

 とうとう少年の表情は変化した。悲しそうな顔でこちらを凝と見つめた。私は自分の両腕が無くなったことが辛いのだろうと推測した。そう思った瞬間に少年が口を開いた。

「僕はもうじき死ぬ身ですから、腕がもぎ取られようと、足が千切れてしまおうと特に悲しむべきことはありません。むしろ邪魔なものが無くなって清々しているぐらいです。僕が今悲しんでいるのは、あなたのことを思って悲しんでいるのです。あなたはきっとこの後、後悔します。僕にした行為をきっと後悔することになるのです。まだ僕のようにすぐ死ぬのなら、その後悔も単なる一時の感情に終わるでしょう。しかし、あなたはそうではない。これから何十年も生き続ける。ずっと罪の感情を背負い続けなければならないのです。それはどんな罰よりも辛い罰と言ってもいいでしょう。あなたが完全に良識を持ち得ない人間であれば、そんな罰を受けることはないのでしょうが、しかしあなたは決して悪人ではない。むしろ良識ある善人なのです。あなたは今現在のあなたにとっての善を全うしていただけなのです。だから余計にあなたは後悔することになるのです。誰に言われたわけでもなく、自分自身の感情に従った行為であるがゆえに、あなたは強く、そして長きにわたって後悔し続けることになるのです。僕はそんなあなたに同情せざるをえない。僕はそんな地獄をそんなにも長い間見続けることはありえないですからね」

少年はやはり淡々と言葉を吐き続けた。少年が言っていることのほとんどが理解できなかったが、とりあえず自分の両腕がないことに悲しんでいるわけではないことが段々と分かるようになった。そのことを完全に脳が認識できるようになると、今度はこの少年が自分のために悲しんでいるのだということに気づいた。しかし、何故少年は私のために悲しんでいるのか全く理解することができなかった。私は全然可哀想な人間ではないはずだからだ。少なくとも私はそう確信していた。それでも少年は私を憐れむべきヒトだという目線で見てきた。私は少年の両肩を掴み、彼の上半身を少し持ち上げ、彼のことを思いっきり揺さぶった。揺さぶりながら私は絶叫した。

「なんでそんなに私のことを馬鹿にするんだ!どこまで私を攻撃すれば君は気が済むんだ!教えろ!私にハッキリ分かるように教えろ!」

私はそのとき泣いていたのかもしれない。顔がグシャグシャになるぐらいに泣いていたのかもしれないし、 目に涙が浮かぶ程度だったのかもしれない。しかし、そんなことは少年の頭部がコロリと床に転がった瞬間、もうどうでも良くなった。私は頭部と両腕のない少年の胴体を見て、後退りした。頭部の方はさすがに見ることができなかった。腕が引きちぎれたとき同様に、血はまったく出なかった。切断面はただただ真っ黒になっていた。そして、その胴体も一分と経たないうちに溶けるようにして消滅した。床の方もチラッと見てみたが、やはり頭部も無くなっていた。 遂に少年は死んでしまった。

 少年は死んでしまった。否、私が少年を殺したのだ。低い声が病室の中に響き渡る。「お前のせいだ……お前のせいだ……お前のせいだ……」私はゾッとして、逃げ出そうとした。私の想いを察したかのように、燻んだ壁にエレベーターの扉が出現した。扉が開くと同時にエレベーターの中に逃げ込み、1階のボタンを押した後は、目を瞑りながら必死に「閉」ボタンを連打した。私が焦っているのを嘲笑うかのように、エレベーターはゆっくりと下降する。速く動いてくれと懇願する思いで扉を叩いたり蹴ったりしたが、そんなことではエレベーターはビクともせず、結局私は座り込んでしまった。その時の私にとっては、その室内の狭さはむしろちょっとした安心感を与えてくれた。 ギュッと目を瞑ると、そのまま到着するのを祈るように待った。

 ドンという音を立て、エレベーターの扉が開いた。扉の向こうは砂浜と無駄に透明な海だった。私は立ち上がると、砂浜へ向けて駆け出し、そのまま逃げられるところまで逃げようと砂浜を走り続けた。不思議と足は全く疲れなかったが、呼吸はそれ相応に荒れていた。それでも私は足が動く以上、この砂浜を抜けるまでは逃げ続けようと決心した。砂浜はどこまでも続いていた。私は砂浜が続く限り走り続けた。

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[良い点] 情景はしっかりと伝わってきました◎ [気になる点] ・必要以上に同じ言葉を使うのは控えた方が良いのでは?(例えば「必然的」とか…) ・「100年以上」という具体的な数字を挙げるよりも抽象的…
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