6
金縛り。それは不動明王が賊に対して圧力を掛けるために行使する修法の1つである。
平和な日本でこの原因は疲労やストレス。睡眠時の全身の脱力と意識の覚醒が同時に起こった状態とも言われている。
私の場合は後者だろう。
この生活に慣れているものの、体が付いて来れていなかったのかと悟った。
動作を起こすどころか、呼吸する事さえままならない。
何者かが自分の上に乗り、鼻・口を塞ぐと同時に体中を縄か何かで縛る。一種の拘束状態。幸いな事は視力は普段通り活動している。
緊縛された体を動かすのを諦め、眼を使い部屋の中を見渡す。
カーテンの間から日が射していた。
タイマー設定をしていたクーラーがなぜか切れておらず、そのお陰でか部屋の中はポカポカ。電気の無駄遣いで母親から怒られそうだが、冷えた部屋で金縛りに遭うというのもつらいとこだ。不幸中の幸いである。
「あ・・・。あ・・・。」
喉にも緊張が走ってるせいか、思うように声を発せれない。
体が動かず、声も出せないという恐怖体験はこんなにも恐ろしいのか。気がづけば、冷や汗が体中から滝のように繁吹いていた。
部屋に効いていた暖房の効果とは明らかに違う、嫌な汗。
「誰が助けて。」と叫びたかった。
開き切っていた目を必死に瞑り直し、何度も同じ言葉を心の中で叫んだ。
「ジリリリリリ」
聞きなれた音が部屋中に響き渡った。
その瞬間に「っは」という息を大量に吐き出しながら、飛び起きる。
「はぁ。はぁ。はぁ」
長距離ランニングを終えて、息を荒げる。そんな状態に近い。体中が枯れ、水分を欲する。
ベッドから起き上がると思う様に立ち上がれず、転げ落ちてしまう。頭から思いっきりダイブし、激痛が走る。派手に落ちたせいか、いい感じに音が響き、暫くしてから部屋の扉を叩く音がする。
「舞子。どうした!開けるぞ!」
バタンと盛大に扉が開くとそこには1人の男性が心配そうにこちらを凝視していた。
オールバックヘアーに手入れされている髭が魅力的な男性。年齢に似合わず普段からつけている黒の伊達眼鏡。そして、紳士スーツを見事に着こなし、漂わせる香りは上品。
「寝違えたのか。はははは。ほら。」
掬い上げるように起き上がらせる。
床にちょこりと座り込む。手で全身を触り、五体満足なのを確認してから一息つく。
「金縛りにあった・・・。」
目の前の父親にそう呟いた。
泣きたい気分であったが体中から出た冷や汗が原因で涙すら出す事ができない。できなかった。
「ちょっと待ってろ。」
背中をゆっくり擦ってくれていた父さんは小走りで部屋を立ち去り、ほんの数秒で戻ってきた。
「ほら、父さん特製のスポーツドリンクだ。」
差し出されたボトルの中には黄色の水が入っていた。特製とはいったものの、市販のスポーツドリンクの粉を適度に水と調節して作った物だろうが、今の私にはとてもありがたい品物だ。
蓋が外されたボトルを手に取り、ゆっくり飲む。徐々に早くし、気がつけば1.5リットルの量を飲み干してしまっていた。
「はぁ。はぁ。」
何回か咳き込み、声が戻った事を確認する。
父さんの顔を向き苦い笑顔を送る。それに答えるように笑顔を返し、軽く頭を撫でられる。
「舞子、大丈夫なの!?」
何事かと母親が部屋へ入ってくる。
可愛らしいエプロンを着用し、慌てた形相でこちら見る。
「金縛りにあったんだってさ。」
「あらあら」と言いながら駆け寄って来た母さんは洗い物をして濡れてしまっていた手を布地のエプロンで拭き、私のお凸に当てた。
拭ききれていない水滴が皮膚に辺り、冷たい感触となぜか心地よい温かい感触が同時で訪れる。
「熱はないようね。最近、ハードだったからかな。疲れちゃったのよ。一日ぐらい休んだらどう?」
父さんも「うん。うん」と頷いていた。
「いや、大丈夫だから。ほら!」
作り笑顔と猿芝居でさっきのが嘘だったかのように見せる。「んー。」と言われる前に部屋から出ていく。
「大丈夫かしら?」
と、背後から聞こえたが特に気にせず、汚れた体を清めるために風呂場へと向かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「最近は物騒だなー。」
新聞を読みながら、綺麗に剥けている林檎を齧りながら言う。
「なんで?」
正面でトーストにジャムを塗りたくっている私はテレビをチラ見しながら、質問する。
「また、行方不明者が出たらしいぞ。また、高校生だ。」
平和と言われている日本だが毎日の様に事件は起きている。ドラッグ事件に殺人。脱税に誘拐。そして、行方不明事件。
この行方不明事件が全国で何件か起こっている。実際のところはそこまで珍しい事ではないだろう。不注意な行動をしてしまい、山や海で遭難してしまうというのは良くある。
ただ、最近の行方不明はなぜか若者に限っているのだ。
これから日本を担う者達が相次いで居なくなるという現状は打破しなくてはならない。警察も全国で警戒態勢を張っている様だが・・・。
「もう。お父さん。朝からそんな話しないでくださいよー。はい。お弁当と水筒の用意ができましたよ。」
「おおー。すまんな。」
仲睦まじい光景が目の前にあった。
ピンクのランチクロスに包まれた弁当箱。それに相互にし赤い水筒。男性が持って歩くには恥ずかしい色だが、赤が好きな父は喜んでそれを受け取っていた。
読んでいた新聞をカバンの中に丁寧に入れて、椅子から立ち上がる。
「舞子。あんまり無理するなよ。」
「うん。ありがとう。」
軽く頭を撫でられた。
「じゃあ、行ってくる。今日はちょっと遅くなるから。」
父親の仕事は交通コンサルティング。数年先に開通予定の高速道路の設計などを担当しているらしい。
そういう現場では大型車が何台も行き来し、警備員がいるものの危険な現場だ。粉塵漂い視界が遮られる事もある。そんな一線で長年働いている父は尊敬にあたる。
今日も安全に就業してほしい。
「いってらっしゃーい。」
母親と同時に言う。
父親がリビングから出て行くのを確認すると、食べ残っていたトーストを口に放り込む。温かくされたコップの中に入っている牛乳を飲み干す。
一度、部屋に戻り。制服に着替え、畳んで置いた作務衣をサブバックに丁寧に入れて、学校で使う物をメインバックの方に詰める。
部屋に設置された大型の鏡に自分の姿を映し、その場でくるりと回る。
「よし。」
一度頷き、部屋を後にする。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
車の中は冷えていた。
さきほど点けたばかりの暖房が車内へまだ行き渡らず、口からは白い息がでる。
運転席には母の姿がある。
「今日も遅くなるのかなー?」
「どうだろ。」
今朝の一件で不安に思った母は職場まで送って行ってくれると言った。断ったものの、ほぼ強引に車に放りこまれ、今に至る。
体にダルさが残り、いつも通りの方法で向かっていたらどこかで倒れていたかもしれない。肩は凝らない方だが今日に限っては何か重い物が圧し掛かってきているそんな感じ。痛みとは違う不気味な重圧。
霊にでも憑依されたのかもしれない。
昨日の影響で道路は凍りついていた。
道端で小学生がスケートをするように滑っている。それを見ていた母親は「危ないわね。」と声を漏らす。
私は特に見向きもせず、車内の頭上にあるクーラー排出口を眺め、無心で居続けた。