死神は己を嗤う
「くはははははははははは」
くらい、暗い、昏い声で、空に浮かぶ影が嗤う。
片膝を抱え、電柱に腰かけ、黒いロングコートを身に纏った、男とも女ともつかない影。
足まで届く長い黒髪。二メートルほどの長身に、肩にかけているのはあり得ないほどに長大な鎌。
肌は病的なまでに白く、腕は骨と皮だけを残したような細さ。
だというのに纏っている雰囲気は決して弱弱しいものでは無く、むしろ赤黒く脈動する心臓を連想させる禍々しい狂気が感じられた。
文字にしておこせば死神というのがまさにふさわしい。そんな存在。
その影が、嗤う。
嗤いながら、消えていく。
死神の存在が、少しずつ透けるようにして夜の風景に薄れていく。
消えていく死神の粘つくような視線の先にいるのは、一人の男。
「ははははははは」
一人の男は、どことも知れない方向へ走っていた。駅の明かりに背を向けて、夜の静けさに包まれる住宅街へと走っていく。
ひいひいと醜い腹の贅肉を揺らし、つんのめって転びそうになりながらも必死になって前に進む。そう、まるで何か得体のしれない恐怖に追いかけられでもしているかのように。
その表情は、例え自分の幽霊にあってもこうはならないだろうと思うほどに歪んでおり、滅多にしていないであろう運動の息苦しさも相まって、まるでくしゃくしゃに丸まった紙のような表情だった。
時折男の辺りで何かが光を反射しているのを見れば、くしゃくしゃの顔面に洗い流さんばかりの涙を流しているのだろう。もしかすると、情けなくも鼻水や涎すらも垂らしているかもしれない。
見るのも不快な逃走者から目を外し、視線を多少下げて明るい方を見てみれば、地面には打ち捨てられた襤褸の鞄と上着が転がっている。恐らくはその男の物だろう。
最も、そもそも死神は、そこいらに散らばっている物が男の物だと知っているのだが。
「ははは……」
やがて、その死神の笑い声も小さくなって消えていく。
電柱の上に座る彼の周囲に散らばって風に舞っているのは、一枚の紙の破片。
夜の黒を切り取るように舞う白の破片は、一つの誓約が破られたことを意味している。
それは死神と逃げる男との契約。
魂を対価にした、一年の生の延長。
「は……」
死神は、両手を広げて後ろへと倒れ込んだ。
しかしそれでも、もはや彼の体は重力に引かれることすらなく、地に引きつけられることもない。
ふわりふわりと。宙を浮かぶ。
存在感そのものが薄くなって、最早現世の理では死神を縛れなくなっているのだ。
何時の間にか、彼の周りにあった狂気は雲散霧消と風に流されている。
「失敗したなあ……もっと隙の無い契約を考えておけばよかった」
死神は、死を運ぶのではない。
死によって放り出された魂を運ぶのだ。
故に、その仕事においては魂の持ち主との同意が不可欠であり、契約によってそれを成す。
逆に言うと、そうしなくては魂を運ぶことすら彼らにすることは出来ないのだ。
魂という力の運び手は、その実、随分と窮屈な規則に縛られている。
死神が笑いを終えた時、空を舞う紙片も完全に消えて無くなっていた。
それはすなわち、契約の消失を意味することに他ならない。
事故で死にかけていた男に対し、一年の寿命の延長と魂とを交換するという契約を結んだのは死神自身だ。
「どうしても今は死ねない」と。家族を思って叫んだ男に対し、たった一度のチャンスを渡すために。
まさかその一年後、「やっぱり今も死ねない」と、契約を裏切られるとは思わなかったが。
しかも、契約の穴をつくという最悪の形で。
「しまったなあ……身の上話なんかに同情しなきゃよかった」
あるいは追い詰められた人間は怖いということだろうか。
死神が親切にも憐れな身の上話に付き合っている間に、契約は白紙に戻された。
責務を果たせなかった死神は、より上位の存在に消されるしかない。
「僕もまた、間抜けだったってことだったか」
死神はそれだけを告げて、空へと消えていく。
そしてそこには星が瞬く夜だけが残った。