タクティスがいない間に
タクティスが地下水道に潜っていた頃、アストラル魔法学院では一人の少女が怒りのオーラを振り撒いていた。
「ねえ、グレイ君。タクティスが何処に行ったのか知らない?」
「は? え? お、俺?」
「そうよ。毎度毎度昼休みにタクティスを独占してやがる貴方よ。ねえ。知ってるでしょ? まさか一緒に昼食まで取ってて何も知らないってことはないよね?」
ティナはグレイの胸倉を掴んで笑顔で詰め寄っていた。ただし目は全く笑っていない。それに対してグレイは子犬のように震えながら冷や汗を掻きまくっていた。
「毎度って……別にいつもあいつと一緒に飯食ってるわけじゃ……」
「でも今日は一緒にいたんでしょ? ネタは上がっているのよ? しらばっくれるの?」
「いました! 今日は一緒にいました! 今日はタクティスと一緒にアルファランチを食べていましたです!」
ティナの殺気めいた青き眼光に射抜かれ、グレイは敬礼しながら白状する。もしここで無意味に嘘を吐けば十中八九無事では済まない。グレイは聞かれたことは全て答えてみせようと覚悟した。
そもそも何故こんなにティナが起こっているのかと言うと、今始まっている講義に原因がある。そう。今は講義中なのだ。教官は全力でティナ達から視線を逸らしているのだが、一応講義は今も続いている。
現在ティナとグレイが受けているのは薬学の講義である。この薬学は唯一ティナとタクティスが一緒に受けることのできる学科であり、ティナが学院で一番楽しみにしている学科でもあった。しかし、今この場にはタクティスの姿がない。その為ティナは同じ講義に参加していたグレイに詰め寄ったのだ。
「ふーん。どうだった? タクティスと一緒に食べたランチは美味しかった?」
「ふ、普通です」
「何でよ!」
「ごめんなさい!?」
今のティナはそこら辺の「ボンボン組」よりも性質の悪いチンピラと化していた。グレイは何度も理不尽な叱責を浴びせられる。グレイはそのたびにびくびく震えながら謝った。周囲の学徒はそんなグレイに同情の眼差しを送った。その一部に羨ましそうな視線も混じっていたが。
一息吐くと、ティナは正気に戻ったのか「ごめん」と一言弱々しい声で呟いた。さっきまでの気迫が嘘のように萎んでいき、まるで親とはぐれた迷子のような寂寥を感じさせている。
「えっと……ティナちゃん?」
「……どうして、タクティスは私に隠し事なんかしてるんだろう」
ティナの声は今にも泣きそうなほど弱々しかった。どうやらかなり情緒不安定に陥っているようだ。グレイはこの状況を以前にも何度か見たことがあったので、ティナの突然の変化にも戸惑うことなく何とか励まそうと声を掛ける。
「そんなこと無いって。あいつはティナちゃんに隠し事なんかするような奴じゃない。それはティナちゃんが一番知っていることだろ?」
「……うん」
「多分、急ぎの用事とかあったんだって。俺も詳しいことは何も知らされてないけど、何処かに行きたそうにし……て」
「……グレイ君?」
グレイはタクティスの行方を知ってそうな人物に一人だけ心当たりがあった。昼休み、自分がタクティスに紹介した人物。タクティスは間違いなく二番棟に訪ねた筈だ。今もそこにいるとは考えにくいが、少なくともその人物は何かしらタクティスの行方について知っているだろう。
グレイとティナは碌に内容も聞いていない講義を終えると、すぐに二番棟へと足を運んだ。目的の場所は魔具開発研究室。グレイが一年の時にたまたま出会い、仲良くなった学徒がいるであろう個室だ。
「ここって……」
ここにいる学徒がどういう人物なのか気付いたのだろう。ティナは若干緊張したように辺りを見回している。当然だ。学棟の中に己の個室を持てる学徒など普通はいない。この部屋の向こうにいるのはそれほどまでに普通を超越した、紛れもない『天才』なのだ。
少し前に踏み出すと、最新の魔具技術によって作られたらしい自動扉が横に滑り出して道を開けた。
そして二人は部屋の中に入ると、開口一番に叫んだ。
「「うわっ、汚っ!?」」
床一面にはたくさんの書類や本が散らばっていて、机の上にも乱雑に薬瓶や試験管が配置されている。しかも薬瓶の一部は倒れていて、どろどろした青い液体や甘い匂いを放つ赤い水が床の書類を見事に染め上げてしまっていた。わざと散らかしてもここまで酷くはならないと、ティナは涙目を浮かべながら思った。女の子にはきつい環境である。
「あれあれ? 今度は二人もお客さんかい?」
ティナ達の来訪に気付いたのか奥から一人の学徒が現れた。その人物は長髪を後ろで結い止めており、華奢な体とは不釣合いなまでに力強い紅蓮の瞳を持っていた。そして彼の手には何の薬なのか全く検討もつかない薬瓶が握られている。中身の液体は毒々しい緑色をしており、沸騰しているのかゴポゴポと気泡を立てていた。
「よ、よう……相変わらずだな。クーリス」
「おや、誰かと思えばグレイ君じゃないか。そしてそのお隣にいる彼女は……もしかしてあの有名な?」
「ティナです。ティナ・エリアスって言います」
「……何でグレイ君の背中に隠れるんだい?」
ティナはいつの間にかグレイの背中に隠れて、警戒するようにクーリスを観察していた。衛生的にも良くなさそうな部屋の中で、汚れた床の上を平然と歩く少年。どうやらクーリスはティナにとってあまり関わりたくない部類の人間らしい。グレイもその気持ちはよく分かるので、不思議そうにしているクーリスには苦笑することしかできない。
「そんなことよりクーリス。タクティスがここに来なかったか?」
「ああ、なるほど。あれは君の差し金だったんだね。勿論来たよ。タクティス君はとても面白い人だった」
楽しそうにあっさりと答えてくれたクーリスにティナが突然詰め寄った。
「タクティスは何処!?」
「タクティス君なら多分……あれ、何処だろう?」
ティナの剣幕に怯むことなくクーリスはあっけらかんに答える。この時、ティナとクーリスの間には大きな誤解が生まれた。
クーリスはタクティスが地下水道にいるだろうと当たりは付けている。しかし必要以上に都市内に詳しいクーリスは地下水道のどの辺りにいるのか分からないという意味で首を傾げた。それに対してティナは言葉どおりにタクティスの居場所を知らないという意味で捉えたのだ。よってティナはこれ以上タクティスを追跡する為の手掛かりを失ってしまった。
「タクティスぅ……何処行っちゃったのよぉ」
「この娘、どうしちゃったの?」
「色々と複雑なお年頃なんだよ」
その場で蹲ってしまったティナを指差しながら、クーリスは不思議そうにグレイに尋ねた。グレイはそれについて半ば投げやりに答えて肩を竦めた。
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学院長室にて、ゼニスは無表情のまま机の上に飾っている絵を眺めていた。その絵は幼い子供に有りがちな稚拙な線で、赤みを帯びた黒髪の少年が竜と戦っている場面が描かれている。
「……我々はすっかり老いてしまったな。魔力は以前よりも鍛えられたが、体そのものはあの時のようには動けまい」
それは誰に聞かせるわけでもない独り言。一人でなければ漏らす事もできない、確かな弱音であった。それでもゼニスの表情は変わらない。絵を眺め続ける彼が一体どんな感情を揺り動かしているのか、それは本人にしか分からない。
その後もずっと絵を眺めていたゼニスは、ふと顔を上げた。
「お前か」
「よう、久しぶりだな」
ゼニスの目の前には誰もおらず、代わりに小さな鴉が空中に静止していた。鴉の口からは流暢に、そして親しげに人間の言葉が飛び出してくる。
「ゼニス、俺の息子は元気にやってるか?」
「相変わらずだよ。お前に似て、捻くれている。しかも可愛げがない」
「そりゃ最悪だな。一体何処の悪ガキだ?」
「……お前も相変わらずだな」
この時、今まで無表情だったゼニスの顔が初めて綻んだ。苦笑ではあるが、確かに口元を緩ませたのだ。立場も威厳もなく、ありのままの自分で語ることができる相手。それが鴉の口から飛び出す声の持ち主だった。
「ところで頼んでいた調査はどうなっている?」
ゼニスの問いかけに声の持ち主はしばし黙り込み、やがて唸るように口を開いた。
「……それがな、お前の予想は当たってるかもしれねぇ」
「……そうか。ではこちらでの動きも、かつての当事者が関与しているのかもしれんな」
「確か『白の本』が盗まれたらしいんだったな。でも当事者が普通、アレに手を出すか? 俺にだって手が負えない代物だぞ?」
ゼニスはその疑問には答えなかった。代わりに、別の言葉を声の主に返す。
「もう、時間がないのかもしれん。……念の為に戻ってこい、ローレンス」
その会話を最後にして、空中に静止していた鴉は霧のように学院長室から姿を消した。
ゼニスが窓の外に顔を向けると、すでに空は暗くなっていた。