ごめんなさぁい……
「嘘……」
メールの顔が歪んだ。名無しが駆けつけてきてくれた。それはとても嬉しかった。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。名無しの左腕を食いちぎろうと魔物は唸りながら牙を突き立てる。
メールの顔が青ざめた。「名無しさん!」
「ちっ」
名無しは一瞬苦い顔をしたが、すぐ腕にかみついた魔物を蹴り飛ばした。キャンと短い悲鳴をあげながら魔物が宙を舞った。
「名無しさん! 腕が!」
「大丈夫だ。今は自分の心配をしろ」
魔物たちが空に向かって一斉に吠えた。牙を剥いて襲いかかってくる。ただ近づいてくるだけなのに、メールは肩をビクッと震わせた。名無しの体にそっとしがみつく。
名無しは一切動じることなく、猛然と迫る魔物に銃口を合わせる。小さく息を吐いた後、引き金を引いた。
銃弾は見事に魔物の方へと当たった。撃たれた魔物は足をもつれさせ、地面へと前のめりに転がり込んだ。
すごい。メールはその狙撃の正確さに思わず感嘆の声を漏らした。
しかし敵は一匹だけではない。名無しが一匹を狙っていた間に、他の魔物が二人と距離を縮めていた。
どう考えても数が多すぎる。名無しが軽く舌打ちするのが見えた。
「ど、どうするんです――。きゃ!」
メールは小さく悲鳴を上げた。名無しが銃を握っていた右手でメールの体を抱え、彼女もろとも後ろへ下がる。さっきまで二人がいた場所に魔物が飛びかかった。すぐさま銃を構え直し、魔物の眉間へと撃ちこんだ。
手を離され、メールはぺたんと地面に尻もちをついた。じわりとお尻が痛んだが、メールはそれどころではなかった。
「ダメです名無しさん、後ろ!」
敵は前方だけではない。メールたちは全方位を円の形に囲まれていたのだ。二人が後ろに下がったことで、チャンスをうかがっていた背後の魔物たちが一斉に唸り声をあげた。
名無しはその声にも一切反応しなかった。ただ前方の敵に対処しているだけだ。メールは目と鼻の先に迫る恐怖に怯え、思わず目をつむってしまった。
「……遅い」名無しはボソリとつぶやいた。
二人の背後にいた魔物たちは強烈な一撃で薙ぎ払われた。大斧による一撃によって。今の一振りを見た他の魔物は尻込み、再び距離をとった。
彼女はメールに背を向け、仁王立ちしていた。その肩からは先ほどメールが落とした手紙屋のカバンをかけている。
ほんの数時間会っていなかっただけなのに、メールにとっては長い時間あっていなかった気がした。
「お姉ちゃん!」
「よ、どうやら無事のようね」
メールにはにっこり笑いかけたフーリエだったが、大斧を肩に担ぎ直すと、冷めた目つきで名無しを見た。
「あんたね、レディを置き去りにしていくなんて、いったいどういう神経してるのよ」
「足が遅いからだろ」
「あ・た・し・は! 斧担いでんの、こんなにでっかい! あんたのそのちっこい武器と違ってすっごく重たいのよ!」
名無しは返事の代わりに銃をフーリエのほうに向けた。メールが止める間もなく、引き金を引く。
「ちょ、おおおおおおおおお!?」
フーリエはすんでのところで迫る銃弾を躱した。フーリエを仕留め損ねた銃弾が向かう先には、大口を開いた魔物が待っていた。こちらは躱すことができず、モロに銃弾を体に受けた。
「殺す。あんた絶対殺す!」
「好きにしろ。コイツら倒したあとでな」
「……それもそうね」
「構えろ。来るぞ」
離れるな、とメールに小さく呟きながら、名無しは右手で銃を構えた。心強い味方が来てくれたものの、いまだに魔物に囲まれていて危機的状況であることには変わりない。メールは恐怖やら安堵やらで、尻もちをついた体勢のまま全身の力が抜けてしまった。
「さて、と」
フーリエは担いでた大斧を気合を込めて思いきり地面に叩きつけた。辺りを揺るがす振動に魔物たちは怯んでいた。フーリエは不敵に笑った。
「さあ、覚悟しなさい。私の可愛い妹に手を出したこと、後悔させてあげるわ」
* * *
そこから先はあっという間だった。フーリエは大斧を振り回して魔物を蹴散らし、名無しは遠くから狙撃して応戦した。その一方的な展開に、メールはただただ目を見張るだけだった。太陽がその姿を見せはじめた頃には、魔物の数が最初の半分あたりまで減っていた。彼らはようやく諦め、半ば逃げるようにこの場を去っていった。
それを見届けたフーリエが、メールに背後を向けたまま、大斧を地面に突き刺し、額に浮かぶ汗をぬぐった。
「もう大丈夫よ、安心しなさい」
その言葉で固まっていたメールの体がようやくほぐれた。名無しは何も言わず、握っていた銃をしまい込んだ。
フーリエがこちらを向き、歩み寄ってきた。逆光で表情がよくわからない。
謝らないと。メールははっとして立ち上がろうとした。姉の警告を守らず村を飛び出して、結果として魔物に殺されかかったこと。今のメールにはそれがどれほどバカげたことなのか、痛いほどよくわかっていた。全身の力が抜けてしまっていたが、最後の力を振り絞って、よろよろと立った。
目の前に来たフーリエを見上げ、メールは謝罪の言葉を言おうとした。
「あの、お、お姉ちゃ――」
パン、と乾いた音があたりに響き渡った。
「何、してるの」
一瞬、メールには何が起こったのかわからなかった。しかし、次第に頬の刺すような痛みが襲ってきて、ようやく自分が平手打ちされたのだと気づいた。
「どうしてお姉ちゃんのいうことを守らなかったの? どうして一人で村を出ていくような真似をしたの!」
涙がぽろぽろとこぼれてきた。ぶたれた頬が痛い。
「あたしたちがここに来なかったら、あんた死んでたかもしれないのよ! 自分のやったことがわかってるの!?」
メールはのどが詰まって言葉が出てこない。
「ご、ごめ、ごめんなさぁい……」
しゃくりあげながら、どうにかその一言だけ言うことができた。胸がいっぱいでろくに体も動かせず、涙をぬぐうので精一杯だった。フーリエの言葉が深く胸に刺さる。自分の馬鹿さ加減に腹が立った。
涙が止まらない。ぬぐってもぬぐっても瞳から流れ出てくる。棒立ちのままただただ手を動かし続けていた。長い時間が過ぎたような気がした。
突然、メールの顔に柔らかい感触があった。気がついたら顔だけではなく、肩やお腹、足も覆われていた。
フーリエがメールを抱きしめていた。全身からフーリエの体温が伝わり、メールの冷えきった体の芯までとどく。とてもあたたかった。
「無事でよかった、メール」
フーリエが涙混じりに呟く。「無事でよかった、メール」
もう限界だった。もう周りなんてどうでもいい。どうせ人は三人以外いないのだから。メールはフーリエを抱き返し、その体に顔をうずめて大声で泣き始めた。ここ数年間上げたことがないくらいの大声だった。フーリエはメールが泣きやむまでそっと彼女の髪をなで続けた。
名無しはその一部始終を遠くから見ていた。やがてメールの涙が収まり、くすんと鼻をすするくらいにまでは落ち着いた。そこでメールはハッと思い出す。
「そうだ、名無しさん。腕をかまれた傷は大丈夫ですか!?」
フーリエから名無しの方へと駆け寄り、そっと彼の左腕に手を伸ばした。しかし、名無しは腕を強引に振り、彼女の小さな手を払いのけた。メールはびっくりして名無しの顔を見上げた。
「……腕は気にしなくていい」
「でも魔物に噛まれて――」
「大丈夫だ」
名無しはそれに対して、手袋をはめた左手をグーパーしてみせた。どうやら傷はそこまで深くなく、手や腕を自由に動かせはするようだった。見たところコートも血でにじんでいない、出血もあまりなさそうだ。メールはとりあえずホッとした。
さて、と名無しはフーリエに向き直った。
「さっさとリリアーヌに帰るぞ」