居場所
アルバの祖父は、夜遅くにもかかわらず、家の奥の机で作業をしていた。
彼の仕事は建築・設計関連のものだった。もっとも既に引退しているが。しかし一線を引いてからも、こうして作図をしてはものをつくり続けていた。
もちろん、機械関連の仕事はしていない。機械は風船を膨らませるヤツだけだ。
「……よし」
作図が一息つき、アルバの祖父は顔を上げた。もう残り少ない白髪を掻き上げ、達成感に満たされていると、今まで集中して聞こえていなかった音が急に耳へ入ってくる。
「……雨が降っていたのか」
朝昼の天気のよさが嘘のよう。外は雨だった。山の天気は変わりやすいと言われる通り、山の麓のハルモニアの天気は突然、変化をすることが多い。
「じっちゃん。風船少し持ってくよ」
雨音にかき消されて、声がよく聞こえなかった。しかし、風船のことを言いに来るのはアルバ位なものだ。
「うん? アルバか? しかし外は大雨だぞ。悪いことは言わんから、また明日にせい。明日にはまた晴れるだろうからな」
アルバの祖父は振り向かず声だけで返事した。この天候だ。言えば分かってくれると思ったのだ。
しかしアルバからは一向に返事がなかった。
「ん……?」
疑問を感じた祖父が、仕事机から離れ、廊下、玄関、地下階段をゆっくりと歩く。アルバの姿を捜しながら、たどり着いたのは機械のある地下室。
「……アルバ?」
しかし、その部屋の中に、孫の姿はなかった。少しばかり残されていた風船が、天井をふわりふわりと浮いていた。
* * *
雨がしとしとと降り続ける。そこまで激しくなく、雷が落ちる気配もない。
そんな雨雲が覆う黒い空の下、明らかに場違いなオレンジ色が宙を浮く。
アルバは風船に手紙を括り付けては、空へと放っていく。傘も合羽も身につけずにいれば、たとえ強くない雨でも次第に体は濡れていく。アルバの体も髪も服も、すでにびっしょりだった。
「おい」
後ろから声がして、誰の声かは分かっていたが、アルバは無視した。振り向く価値がないと判断したのだ。
「……おい」
(うぜえ……)
しかしあまりに何度も呼びかけてくるので、アルバは嫌々ながら後ろの声の主を睨みつけた。
後ろにいたのはやはり名無しだった。名前のない手紙屋。なぜ名前を言わないのかは付き添いのメールですら知らないという。彼も傘といった雨具をもっておらず、雨に打たれていた。しかし、名無しは今来たところなのか、まだアルバほど濡れてはいない。
「なんだよ。帰れよ」
「……風邪、引くぞ」
「手紙屋には関係ないだろ。さっさと帰れよ」
それだけ言うとアルバは目を離し、作業に戻った。膨らませた風船に手紙を結びつけていく。
「……おい」
「だからうるせえって。早くメールと一緒に宿屋に帰れよ。どうせ一緒にいるんだろ?」
「メールは宿にいる。今は俺一人だ」
「そうかい。さっさと帰れよ」
「……こんなこと。いつまで続ける気だ」
「手紙が届くまで」
「天国に手紙が届いたとどうやって知るんだ?」
「返事が来るだろ」
「本当に届くと思っているのか? 返事が来ると思っているのか?」
「…………」
「そもそも、そんな雨に濡れた手紙、インクがにじんで読めるわけがないだろう」
「……せえよ」
「本当はもう分かっているんだろう? 天国に手紙なんて届かないと」
「うるせえ……」
「もう何をやっても、お前の母親とは——」
「うるせえっつってんだろ! 黙れよ!」
雨が降り注ぐ音の中、一発の銃声が轟いた。まるで雷鳴のようだった。
名無しが放った銃弾は、アルバが用意していた風船の、最後の一個を撃ち抜いていた。割れて萎んだ残骸が地面に落ちる。
アルバの頭が真っ白になった。
「な、に、やってんだよお前は!」
体格も力の差も関係なかった。激情に駆られ目の前の手紙屋に食って掛かった。
「だいたい手紙屋のお前が届ければ何も問題がなかったんじゃねえかよ!」
「天国に手紙なんて届けられるわけがない」
「なんで届けられないんだよ! 手紙屋だろ! 手紙を届けるのが手紙屋の仕事だろうが! 届けろよ! 届けろ届けろ届けろ届けろ届けろ届けろ届けろ! ……届けろよっ!」
拳を名無しの腹に叩き込む。しかし腹筋ではじき返された。力ずくではこの男は動じない。
「……頼むから。お願いだから」
喋れば喋るほどに、瞳から涙が流れる。雨の冷たさと涙の暑さで、寒いのか暑いのかよく分からなくなる。
「届けてくれよ……。 母さんと話をさせてくれよぉ……」
アルバはそう懇願すると、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。雨が一層強く打ち付けてくる。
大好きだった。世界で一番。
父親も親戚もいないアルバにとって、唯一の頼りだった。
その母が死んだ。
信じられなかった。信じたくなかった。
心にぽっかり穴が空いたようで、自分の体の真下にも穴が空いたようで。
もう自分なんて、生きてても死んでてもどうだっていいんだとすら感じた。
だから自分がまだ生きててもいいんだと知りたかった。
アルバは待った。名無しの返答を。もう半ば絶望している中で、それでも「もしかしたら」という一縷の希望をかけて。
しかし、
「無理だ。届けられない」
名無しの答えはやっぱり予想通りで、非情なものだった。
(おれ、もう生きてる価値、ないのかなあ……)
アルバはふと、このまま目の前の崖から飛び降りたら、母のいる場所にいけるだろうか、と思い、
「アルバ君? 手紙屋さん?」
そこでアルバの思考は止まった。振り向かなかったが、声で誰かは分かった。アイリだ。
「空に風船が見えたから、もしかしてと思って……。アルバ君帰ってたんだね。でも傘も差さないなんて、風邪引いちゃうよ」
アルバはアイリを見ようとしなかった。だからといって名無しを見るわけでもない。ただ残酷な現実に嫌気がさして、どこでもない空のどこかを見ていた。
「アルバ君、お母さんとお話し、できた?」
アイリのからそんな質問。それを聞いた瞬間、アルバは笑い出した。乾いた笑い。それはアイリに対してでも、アナスタシアに対してでもなく、ただただ惨めな自分をあざ笑うものだった。
(さぞかし今の自分はアホみたいな目をしているんだろうな)
アルバ自身がそう思い、
「もうおれ、死のうかな……」
その思いが口をついて出た。
アルバの手のひらに柔らかい感触がした。アイリがすぐ隣まで近づいていた。しかしアルバは頑としてその方向を見ようともせず、
「ね、ねえ。アルバ君。わ、わたしじゃダメかなあ?」
「……は?」
突然の言葉に、思わずアルバは間の抜けた声を発し、初めてアイリの方を見た。
アイリの顔は濡れていた。それが涙によるものなのか、雨によるものなのか、よく分からないほどにびしょ濡れだった。
「わたしがアルバ君のお母さんの代わりじゃダメかなあ」
目の前の少女はいったい何を言っているのか。アルバがあっけにとられている間も彼女の言葉は続く。
「も、もちろん、わたしにはケイトさんのかわりなんてできないけど! けどね、わたし、アルバ君に生きてて欲しいの」
涙をぽろぽろこぼしながら、傘もささずに雨に打たれながら。
「わたしだけじゃないよ。わたしのお父さんもお母さんも、いつも遊んでた友達も、年上のお兄さんお姉さんも、みんなアルバ君に、ここにいて欲しいって思ってるんだ。だから、ね。お願いだよ……」
それ以降の言葉は嗚咽となり、雨音にかき消された。アイリはアルバの胸に頭を当て、両腕で体をぎゅっと抱きしめてきた。
アルバは何も考えられず、無表情のまま、ただ目の前で泣き続ける女の子を眺めた。
「よかったな」
しばらく沈黙を貫いていた名無しが、そこで口を開いた。
「……お前にはまだ、居場所が残っているじゃないか」
雨に濡れているせいだろうか、その表情は悲しんでいるようにも見えた。
濡れた髪コートを翻し、名無しはその場を去っていた。
* * *
雨は時間とともに少しずつ勢いを増していく。髪は濡れ、服も水を吸い、しかしどれだけ時間が経っても、アルバとアイリはその場から動かなかった。アイリはアルバにしがみつき、アルバは放心状態でそれを見続けていた。
どれだけ時間が過ぎただろうか。アルバは停止していた頭を無理矢理動かし始める。
「——っく。えぐっ……」
そばには、目の前にいる少女がいた。今も泣き続けている。他の誰でもない、自分のために。
アルバはアイリの手をそっと握りしめた。そして、雨音にかき消されるくらいの小ささで、
「……ごめん。……ありがとう」
そう囁いた。




