霊術の精華 ラ・クリマへ
朝。日はまだ出ない。辺り一帯が濃い紺色に満たされている。
「メール」
名無しは眠るメールに小さな声で呼びかける。だが起きない。手を肩に乗せて、小さな体を揺する。
「おい、起きろ」
「ううん……」
しかし、すやすや眠る少女は顔をしかめて寝返りし、名無しの手を振り払った。
「…………」
名無しは実に三十秒ほど、ぐずる少女を眺め、そして聞こえよがしに舌打ちをした後、静かに優しく少女の体の下に手を入れる。
起こさないよう細心の注意を払い、名無しはメールをおぶった。
* * *
もう間もなく夜は明け、日が昇ろうとしていた。
「う? うーん……」
メールは体を揺する感覚に目がうっすら開き、
「あ、起きた」
アルバの声で六割方目が覚めた。
「あ、れ……? アルバ君?」
「おはよう、ねーちゃん」
「うん、おはよぉ……」
寝ぼけたままで辺りを見回し、自分が名無しの背中で眠っていたことに気づき、驚く。
「あ! あのっ! えーと。すみません! とりあえず降り——」
「動くな。落ちるぞ」
「……すみません」
居心地悪く、名無しの背中の上で小さくなる。
「ねーちゃんって、朝弱いの?」
「いつもはそんなことないんだけど……」
体を動かそうとするが、どうも動きにくい。確認するとメールは相当の厚着をされていた。アルバも名無しも、それなりに着込んでいた。
唯一、肌が空気に触れる顔には冷たい風が当たっていた。口から吐く息も白い。山に登るとこんなに寒くなるのだと実感する。
「アルバ君は大丈夫? 寒くない?」
「まあ寒いけど、平気だ。手紙屋に言われて結構服着てきたからなー」
「それで、今どれくらい登ったのかな?」
「さー、おれにはわかんねー。手紙屋について行ってるだけだし」
「名無しさん、どうですか?」
「……もうすぐだ」
そう言って名無しは進行方向の遥か先を顎でしゃくった。メールとアルバが顔を向けると、
「あ、ホントだ。ちょっと見えるかな」
「薄暗くて、よー分からんけど、アレのことかな?」
遠くにある町の輪郭が、うっすらと夜の闇に紛れて見えた。
「さて。あとちょっと頑張るかー」
目的地が確認できたことで、気合いが入ったアルバが、ふと後ろを振り向き、
「あ」
アルバが間の抜けた表情で、おぶられたメールの斜め後ろを指差す。釣られてメールと名無しもその方向に目を向けた。
「…………」
「……綺麗」
眼下には、今まさに登る朝日に照らされ、色を取り戻したアールザード王国国土がどこまでも広がっていた。
* * *
ラ・クリマは国の東側を北から南へ走る山脈の中腹に位置する町だ。
古くから高い場所は神秘的な力が強く存在するとされている。
そのため、ラ・クリマは『霊術の精華』とも呼ばれ、魔法や霊術など、オカルト的な文化が多く、アールザード王国の町の中でも特に異彩を放っている。
あるいはアールザードの全ての町の中で、最も高度のある場所にあることから、『天国に一番近い場所』とも呼ばれている。あの世の存在と交信する霊媒術が盛んなのも、こうした理由があるからだろう。
メールたちがすれ違う人たちの中には、彼女らのようにいたって普通の姿をした人たちもいれば、黒いローブを身に纏い、何やらブツブツ呟きながら歩いている人や、どこかから何かを受信しているのか、うつろな目で夢遊病者のようにフラフラ立ち歩く人もいる。視界の隅では、メールより年下に見える子どもたちが、杖を振りかざしながら、笑顔で魔法使いごっこをしていた。
「……ハルモニアの隣の町なのに、こんなに雰囲気が変わるんですね」
メールは率直な感想をぽつりと漏らした。名無しから降りた彼女は寒さ対策に、エルレ・ガーデンでサンタからもらったコートの上に、さらにもう一枚大人用のコートを羽織っている。
「まあ、なんかここがちょっと特殊って気もするけどな」
周囲の物珍しさに、視線をきょろきょろと向けているアルバが、そう答えた。
「それで。霊媒術師さんはどこにいるんでしょう?」
「その辺の人に訊いてみるか」
そう言うと、アルバはそばにいたローブ姿の女性に話しかけた。
「ちょっといいか? 霊媒師のアナスタシア・リーリャって知ってる?」
「え。そりゃ知ってるよ。この町の人間で彼女を知らない人なんていないよ」
メールが、
「へえ、結構な有名人なんですね。それで、どこにいるか知っていますか?」
「彼女の家はあそこ。このラ・クリマでも一番高いところにある家だよ」
女性は目線より斜め上を指差した。確かにそこには一つの大きな家が構えられていた。
「アナスタシアさんはできることなら天からのパワーが一番多い、山の頂上がいいって言ってるんだけどね。さすがにこの町より高いところじゃ魔物に教われる危険もあるから、あそこで妥協したって感じかしらね」
「ありがとうございます」「サンキューな」
アルバとメールはそれぞれ礼を言って頭を下げた。訊ねられた女性も笑顔で歩きはじめた。
「じゃ、行くか」
「うん。名無しさんもちゃんとついてきてくださいね」
「ああ」
迷子にならないようにアルバとメールが手をつなぎ、メールと名無しが手をつなぐ。上に見える霊媒師の家を道しるべに、町の入り組んだ道を進んでいった。




