新しいお仕事
寝室のドアが大きく開け放たれた。メールはその音に反応して飛び起きた。
メールは寝てしまっていた。長い時間家の廊下に座り続け、だんだんと睡魔が襲ってきたのだった。ハイネはメールが寝る前と同じ場所で、変わらず腕を組んでいた。
扉から差す光は、既に朝になっていることを示していた。それほど長い時間が経過していたのだ。
ドアの前にはヒースクリフが立っていた。
「ヒース、クリフさん?」
メールはおそるおそる尋ねた。ヒースクリフは顔を俯けたままこちらを見ない。
「えと……、セラさんは? ——赤ちゃんは?」
相変わらず彼は何も答えない。代わりにゆっくり右拳を前に突き出し——。
そして、親指を立てた。とびっきりの笑顔と一緒に。
メールの顔がぱあっと明るくなり、すぐに寝室へと飛び込んだ。
その先には、疲れた表情を浮かべる医者とワルター夫人。そして生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえるセラがいた。
「……った」
「そうか、無事に生まれたのか! よかった。ヒースクリフさん、セラさん、おめでとう——」
メールのあとから入ってきて、祝いの言葉を告げるハイネを、
「やったああああああああ!」
メールが思いっきり抱きしめ、ぴょんぴょん飛び跳ねながら喜んだ。
「ぶっ! ちょ、待て。落ち着け! く、苦しい……」
「やった! やった! 生まれた! 生まれた! 生まれたよー!」
首を絞められたハイネが、顔を真っ赤にしながら必死にメールを引き離そうとする。しかしメールはそれに気づかず、一層強い力でハイネを抱きしめる。
「分かった。分かった! 嬉しいのは分かった! 俺も嬉しい! だから頼む。離れてくれ!」
「……あ」
そこでメールはようやく我に返り、かあっと顔を赤くしながら、ハイネを拘束から解放した。
「その……ごめんなさい。つい嬉しくて」
「いや、もういい。……何はともあれ、本当に良かった。おめでとう、ヒースクリフさん、セラさん」
続けてメールも、「おめでとうございます」と告げた。
「ありがとう」「ありがとう」
夫婦二人は、どちらも笑顔で、嬉しそうに応えた。
「さて、早速この吉報を父さんや親戚たちに伝えないとね。一気に忙しくなるな」
しかし、ヒースクリフ顔には苦しい表情は一切なかった。
「あ。それじゃあ、私いい考え思いつきました!」
手をパンと叩いて、メールがそう言った。全員の注目が彼女に集まる。ハイネだけ口が笑っていた。
「それはですね——」
* * *
「お姉ちゃん!」
「わおっ!」
朝。髪の毛を櫛で梳いていたフーリエが、椅子から数センチ飛び上がった。
「な、何? メール? ハイネも? というか、あんたたち今までどこにいたの?」
「いいからいいから。早く早く」
メールはにこやかに笑いながらフーリエの手を引っ張る。
「ちょ、待っ……。ってなんでハイネまで引っ張るの!? だからちょっと待っ——。せめてそこの朝ご飯だけは食べさせてー!」
部屋の机に置いてあるサンドイッチに手を伸ばしながら、フーリエは情けない声を上げていた。
* * *
名無しは光のない真夜中から、太陽がその姿を完全に現すまで、ずっと外にいた。港町の朝は早い。既に道の端では屋台が所狭しと並び、人々の活気のある声が響いていた。
「ああ! 名無しさん!」
「ん」
顔を向けると、メールとハイネとフーリエの三人が、こちらに向かって走っていた。
メールがその勢いのまま、名無しに飛びつく。
「もう帰ってたんですね! 無事で良かった……」
「おう」
そのわずか数秒後、フーリエの手によって二人は引きはがされる。
フーリエが一気に詰め寄り、メンチを切ってきたが、名無しは無視した。
「で、お疲れのところ申し訳ないのですが——」
メールはそう言いながら名無しの手を掴む。
背後ではハイネが楽しそうに笑っている。フーリエは顔の半分は嫉妬、もう半分は笑顔という、人間の限界を超えた表情をつくっていた。
名無しは小さな、暖かい手に引かれて、石畳の道を走っていく。
「なんだ?」
「新しいお仕事です!」
* * *
「さて、ここに手紙屋が三人集まりました」
メールは腰に手を当てて、胸を反らす。
「集まったな」「集まったわね」「…………」
ハイネが、フーリエが、名無しが、ヒースクリフたちの部屋の廊下で、思い思いの反応を返す。
「ヒースクリフさんとセラさんは、ついさっき、赤ちゃんを出産したばかりです。……セラさんは、病院に運ばれたので、今ここにはいませんが」
「そうだな」ハイネが頷いた。
「で、これからヒースクリフさんは、ロウェナに住んでいる二人のご親戚さんに、出産の報告をするみたいです。それは手紙で送るそうです。手紙を送るのは、手紙屋の仕事ですね」
「そうね」次はフーリエが答える番だった。
「だから、手紙屋のみなさんが、今から配っちゃいましょうよ。っていう提案です」
「…………」
「名無しさんは何か言う!」
「……あー」
メールがずびっと人差し指を突き出す。
「いいですか?」
「そりゃ、メールの頼みとあれば」と、フーリエが即答し、
「まあ、俺も当事者のようなものだからな。協力したいってのはあるしな」と、ハイネが続き、
「…………」
名無しは静かに、落ち着いた口調で、
「手紙を届けるのが、手紙屋の仕事だからな」
メールの言葉を引用して承諾した。
メールはほっとしたように胸を撫で下ろす。そして背後で待機していたヒースクリフに目で合図を送った。
「では、お願いできますか? 手紙屋さん」
ヒースクリフは三通の手紙を、三人の手紙屋にそれぞれ渡した。フーリエが肩をポキポキと鳴らす。
「まあ。それでは朝一の仕事をしますか!」
「よし、行くぞ、メール」
「だからなんで、あんたたちが二人一組で行くのが当然のようになっているのよ! 今日こそメールはあたしと——」
「うん、行こう。ハイネくん!」
「ハイネ……『くん』? ちょって待って昨日までさんづけじゃなかったっけおいハイネてめーコノヤローいつの間にメールとの距離縮めちゃってんのコノヤロー——」
空いた口が塞がらないフーリエを残して、メールはハイネとロウェナ最後の仕事へ向かう。
「メール、ハイネ。仕事が終わったら、宿に戻ってこい。昼にはロウェナを出発する」
開いたドアから聞こえた名無しの声に、
「はい!」「おう」
少年少女のコンビは、走りながら返事をした。
* * *
「……そうだ。忘れてた」
手紙配達でロウェナの町を駆け抜けていたとき、メールはふと足を止めた。
「ん。どうした? メール」
ハイネもそれに気づいて、メールの少し前で止まって、こちらを振り向いた。
メールは少しだけハイネと距離を詰め、丁寧に頭を下げた。
「ハイネくん、ごめんなさい」
「は? 何が?」
「その……昨日の夜走ってたときに、いろいろ言っちゃって」
「ああ……」
そこまで言って、ようやくハイネは昨晩の口論のことを思い出した。
——嫌。
——やだよ。
——絶対嫌!
メールはハイネから視線をそらし、苦笑いしながらボソボソ呟く。
「なんか、あのときは変に頭に血が上っちゃって。つい嫌嫌ばっかり言っちゃって。すごくダメだったなーって反省して……」
「いいよ、もう」
メールはハイネと目を合わせる。ハイネは怒っていなかった。ただただ普通の表情だった。
「別に気にする必要もない。あんな非常事態、メールにとっては初めてのことだったんろ? 混乱しただろうし。それに——」
「それに?」
メールは横からハイネの顔を覗き込む。ハイネは人差し指で頬を掻き、言った。
「まあ、その……。う、嬉しかったよ。俺のこと心配してくれて。ありがとうな」
メールは満面の笑顔になった。ハイネも笑顔で返し、ちょいちょいと進行方向を指差す。「行くぞ」という意味だ。
ハイネは小走りで先を行く。メールもそれに追いつき、追い越す勢いで走り出した。
「手紙屋です! 手紙を届けにきました!」
「だーかーらー! お前は手紙屋じゃねえって言ってるだろ!」




