嫌
暗い夜の道を、メールは一人で走っていた。
夜。日が落ちたロウェナの町は、真っ暗闇だった。シルメリアのような大都市であれば、夜でも外灯が灯り、道を歩くくらいの明るさはある。しかし、大陸の端に位置するロウェナは、リリアーヌほどではないにせよ十分田舎で、外灯はほとんどない。
足下が見えなくてこけてしまうくらいならまだいい。一歩踏み外せば海へ真っ逆さまの危険もあるのだ。歩くならまだしも、走るなんて論外だ。
しかしメールはただ走った。『医者』と『ハイネくん』、その二言だけを頭に焼き付けて。
突然、暗闇から手が伸びて、メールの右腕がつかまれた。ぐんと体が引っ張られてバランスを崩し、そのままメールは地面に倒れ込んだ。
「おいおい、お嬢ちゃんこんな夜に一人で出歩いてちゃ危ないよ。こっちへおいで。おじさんが安全なところへ連れていってあげるから」
「離してください……!」
右腕はつかまれたままだった。メールはその片腕を思いきり引っ張る。しかし大人の力には適わない。
「よく見たら怪我もしてるじゃないか。早く手当をしないと」
(暗くてろくに見えないくせに、よくもそんなことを!)
そう思ったが、メールの口から声は出なかった。唇がどうしようもなく震える。
「さあさ、こっちへおいで。コッチヘオイデ」
メールは鋭い目つきで男の影を睨む。恐怖がないわけではなかったが、それ以上の意志がメールを動かす。
(絶対に諦めない! 絶対にハイネくんを見つける! 絶対に医者をセラさんのところに連れていく!)
意を決して、めいっぱいの力で影から離れようとしたとき、
「なに俺の連れに手ェだしてんだよこの野郎!」
突然響いた怒声と共に男が吹き飛ばされた。そのまま男は気絶して動かなくなった。
「ったく。ほんっとにこの町は治安が悪いなあ!」
「ハイネ……、くん?」
「おう。——どうした亡霊でも見たような顔して」
カチャンとブーメランを拾い上げる音がした。耳に届く声は落ち着いてて、優しくて。そしてメールが少し前に聞いたハイネの声そのものだった。
メールはぼんやりと見える影に、思いっきり飛びついた。
「よかっだ! やっぱり生きでたー! 生きてて良がっだー!」
「ひ、人を勝手に殺すな! 離れろ!」
言われて両手を離したメールは、足の力が抜け、ぺたんと石畳に座り込んだ。その瞳からは涙がにじみ出てくる。
「なんだ、安心して腰が抜けたのか? 待ってればいいのに一人で外に出てきやがって」
だって、あの手紙屋殺しが手紙屋を殺したかもしれないんだよ?
だって、ハイネくんが殺されていたかもしれないんだよ?
言いたいことはたくさんあるのに、どれものどの奥に突っかかって言葉にできなかった。
そんなメールを見て、ばつが悪そうに視線を逸らしぼそりと呟く。
「悪かった。心配かけたな。人ごみがアホみたいにできるわ、道行く人みんなパニックだわで、医者のところに行くのに時間がかかったんだ。でもちゃんと医者は連れてきた」
メールはハイネの隣に、大きな大人の人影があることに、今になって気づいた。
メールの中にたまっていたもやもやが、ため息とともになくなっていくのを感じた。
「そっか。よかった……。ホントに」
「安心するのはまだ早い。急いでセラさんの家に帰るぞ、ちょっと危ないけど走れるか?」
「……うん。いけるよ!」
合流した二人は医者を連れて、来た道を戻り始めた。
暗闇に包まれた町はどこを見ても景色が変わらず、自分が今どこにいるのか、あとどれだけ走ればいいのか、そういった距離感や方向感覚を狂わせる。所々に点在するわずかな外灯と記憶が数少ない道しるべだった。
「メール」夜の町を走りながらハイネが口を開いた。
「な、何?」息を切らしながらメールは訊き返す。
「もし、万が一、この先手紙屋殺しに出くわしたら俺が囮になる。お前は医者と一緒にヒースクリフさんの家へ行くんだ」
「嫌」
あまりの即答ぶりにハイネも驚きを隠せなかったようだが、メールは気にしない。
「ハイネくんを置いていけって言うの? そんなの嫌だよ! 一緒に逃げようよ」
「セラさんと子どもの命がかかってるんだ! つべこべ言ってる場合じゃねえ。二人がどうなってもいいのか?」
「いいわけない!」
「だったら——」
「でも、ハイネくんがその代わりに襲われるなんてやだよ! 私、怖かったよ……。とにかく、絶対嫌だ!」
「! ……っ! 言うことを——」
聞け、とでも言いたかったのだろうが、その口は途中で止まった。三人の前に人影が見えたからだ。このくらい夜の町の中、道のど真ん中で仁王立ちしている。
そんなことをしているのは変質者かホームレスか、もしくは——。
「くっ!」
ハイネが反射的に武器を構える——が、メールがその彼の手を抑え込む。
「ダメ、ハイネくん!」
「放すんだメール、お前は医者を連れていくんだ!」
「こんな時間に何してるのメール!」
二人の取っ組み合いは、聞き覚えのある女性の声で止まった。
「お姉ちゃん?」「フー姉!」
目の前にあった人影は二人に近づき、やがて見覚えのあるシルエットがくっきりと双眸に映った。手には武器の大斧を引っさげている。
「ハイネもいたの!? どうして?」
「ちょっといろいろあってな。フー姉はどうしてここに?」
「なんか外が騒がしかったからね。今来たばかりよ。でもまあ、だいたいの状況は掴めているわ。あなたたちも分かってるんでしょう?」
「うん」「ああ」
メールとハイネが同時に肯定した。
「なら早く行きなさい! ここにいたら危ないわ」
「お姉ちゃんは? 一緒に行こうよ!」
「私は平気よ! あなたの安全が優先!」
「でも——」
それ以上何か言おうとするメールの口をハイネが抑え、走り出した。
「ハイネくん!?」
「フー姉なら絶対大丈夫だ! 俺たちは行くぞ!」
「お姉ちゃん!」
暗闇に消えていく姉を見ながら、ハイネに引きずられるようにメールは連れられていった。
* * *
「ヒースクリフさん! 医者を連れてきました!」
「メールちゃん! ……ハイネくんも無事だったのか! よかった」
「セラさんは?」
「まだなんとか大丈夫だ。ワルターさんも手伝ってくれている。お医者さん、よろしくお願いします!」
「急ぎましょう。事態は一刻を争います!」
そう言いながら、白衣をまとった医者はセラのいる寝室へと消えていった。ヒースクリフもそれに続いた。
家の廊下に、メールとハイネだけが残された。
「お前は行かないのか? メール」
ハイネがそう問いかけたが、
「……私が行っても、何もできないよ」
弱々しく首を横に振った。
「ハイネくんこそ行かないの?」
「俺もお前と同じ理由。つか、俺の性別考えろ。俺が行っちまったら、メールが行く以上に、ヒースクリフさんにもセラさんにも悪い」
ハイネはそう言うと、廊下の壁にもたれ、腕を組み、下を向いて瞳を閉じた。
メールもハイネとは反対側の壁にもたれ、するすると力が抜けたように座り込む。
そして、
「お願い……。どうか無事に——」
メールは両手を組み、ただ祈った。




