違う
何もせずおとなしくしていることが、これほど時間の流れを遅くするものなのか、とメールは思い知った。ハイネが出たときには西の空にあった夕日も沈みきり、夜の帳が下り始めている。
ヒースクリフとセラも互いに手を握りながら待ち続けていた。苦しそうに息をするセラをヒースクリフが寄り添い、何度も何度も声をかけ続けている。
何もできない歯がゆさがメールの中で頂点に達しようとしたとき、家の扉が開け放たれた。
「ハイ——」
「ちょっと! ヒースクリフさんとセラちゃんはいるかい?」
彼ではなかった。三人がいる部屋に入り込んできたのは、小太りの中年女性だった。
「んまっ、セラちゃんどうしたんだい! まさか産まれそうなのかい? 早く医者に連れて行かないと……」
「大丈夫です。もう呼びにいってます。それよりワルターさん、どうかされましたか?」
ヒースクリフに名前を呼ばれたワルター夫人は、思いだしたかのように話し始めた。
「いやね、いま町が大騒ぎになっているんだよ。もしかしてセラちゃんが病院に行ってて、その途中で人混みに巻き込まれてやいないかと心配になってね。ほら出産が近いと体の調子が不安定でしょう?」
「大騒ぎ……? いったい何が?」
「町で人が殺されたらしいのよ。なんでも被害者は手紙屋だそうで——」
「違う」
ヒースクリフは反射的にメールの顔を見た。
彼女の口から咄嗟に出た言葉は、そうであってほしいという願望のあらわれだった。
(違う、違う、そんなわけがない、あるはずがない)
頭の中で否定しているにも関わらず、頭の奥底からいつか聞いたことのある言葉が沸き上がってくる。
——手紙屋殺し
「メールちゃん、大丈夫かい? 顔が真っ青だよ」
大丈夫じゃないのはメールだけではない。ヒースクリフも今の情報を聞いて、一気に血の気が引いていた。
しかし、そんな状態のヒースクリフが、メールに言葉をかけずにはいられないほど、彼女の状態が異常だった。唇がわなわなと震えているのがどうしても止められない。
「そんなことよりも今はセラちゃんのことだよ! 医者は、医者は呼んでいるんだね?」
ワルター夫人の質問には、誰も、何も答えなかった。代わりに歯を食いしばりながら、ヒースクリフが立ち上がった。
「僕が、呼んで——」
しかし、すぐに体ががくんと止まる。セラが彼の服を握りしめていたのだ。精一杯の力で、息も絶え絶えに。
「いや……。そばにいて、ヒース」
「セラ……? しかし、このままじゃ——」
ヒースクリフの顔が苦悩に歪む。
「私が……行きます」
メールのカラカラに乾いた喉から、そう声が出た。足はふらふらで今にももつれそうだったが、今大切なのは自分じゃない。メールは自分の足に喝を入れる。
「行って、きます」
走っているのか、歩いているのか、もはや自分でも分からなかったが、確実に家の扉へと向かった。背後からヒースクリフの声が聞こえる。
「待つんだメールちゃん! 夜のロウェナの治安は最近かなり悪くなってきている。君くらいの年の子が一人で出歩くのは危険すぎる! ……ワルターさん! あの子を、止めて!」
しかしメールは夫人が手を伸ばすよりも早くドアノブに手をかけ、夜の町へと飛び出した。




