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名無しの手紙  作者: 山本良磨
第3話 シルメリア編
34/72

The 6th Day

 名無しは朝日の光に照らされて目が覚めた。頭を掻きながら横のベッドに目を向ける。

 既にベッドはもぬけの殻だった。

(……数日前にも同じような光景を見たような)

 名無しはそれ以上何も考えず、黙って服を着替え始めた。


          *     *     *


 そのまま残りの手紙を配達に行き、午前中には全て配り終えることができた。

「手紙屋さん」

 その後病院を訪れると、待合室のイスに座っていたライナスが声をかけてきた。

「出発、しなかったんですね」

「残念だが、手紙が一通手元から無くなってな。見つけるために留まらざるをえなかった」

「メールちゃんのことですよね」

 ずばりな回答に一瞬驚いたが、よくよく考えると、シルメリアでメールと一緒にいた時間は、彼らのほうが名無しより長いかもしれない。大方街を回ったときに彼女自ら話したのだろう。

「あいつは?」

「リオナのところです」ライナスはさらりと言った。「優しい子でした。なぜここにいるのか、と尋ねたら、『忘れられてもいいから最後までお姉ちゃんと一緒にいたい』と言われましたよ。何も言えませんでした」

「あいつらしいな」

「思いやりのある優しい子ですね」

「親に似たんだろうさ」

 ライナスは顔を俯かせた。その表情はとても暗く、まるで懺悔する人を見ているようだった。

「私は、リオナが記憶をを失う前に、あの子と親しかった子どもたちへ距離を置くように言い続けてきました。昨日のあなたたちのように。正直、それが正しいことだったのか、今でも答えが出ません」

「随分、他人に気を配っているようだが、お前は大丈夫なのか」

「私は大丈夫です。しかし心配なのは、妻の方です」父親が顔を少し曇らせた。

名無しは、少し前に、父親と一緒にリオナを迎えにきた、女性のことを思い出した。

「かなり精神的にまいっているみたいで」

「無理もないだろうな」

三年間、回数にして一五〇回以上も記憶をリセットするというリオナの状況は、関係の近しい親にこそ、精神的につらいはずだ。

「ところで、シルメリアの手紙はもう配り終えましたか?」

「ああ、仕事は——」

 全部終わった。そう言おうとした名無しの言葉は途中で遮られた

 ガラスが割れるような、鋭い音が病院に響き渡る。続いて聞こえる悲鳴と怒号。

「リオナ!」

「メール!」

 廊下にいた二人は悲鳴を上げた女の子二人の名前を呼び、駆ける。


          *     *     *


 リオナの母親は、娘の病室にいた。メールとリオナが話しているのを見ながら、椅子に腰掛けながら、リンゴの皮を剥いていた。

 会話に夢中になっていたリオナが、ふと母親に尋ねた。

「あれ、お母さん。そんなハンカチ持ってたんだ。すごく綺麗だね」

「……ええ」

「ホントだ。綺麗なハンカチですね」

 リンゴの果汁がスカートにかからないように、膝の上にハンカチを敷いていたのだ。

 ハンカチについて熱く話しはじめたリオナとメールを無視して、苦々しい気持ちを抱いた。

(……このハンカチは、あなたがプレゼントしてくれた物なのよ、リオナ。でも、もう忘れてるんでしょうね)

 リンゴとナイフを持つ手が震える。母親は自分の嫌な気持ちが抑えられなかった。

「お母さん、どうかしたの? 顔色が悪いよ?」

 お母さん。もう休んだほうがいいんじゃないの? リオナの心配そうな声が続く。

(やめて……私のことを母親だと思ってないくせに)

 おかあさん。

(ライナスが母親と教えたから、そう呼んでいるだけのくせに)


 オカアサン——?


(違う、違う。目の前にいるのは、私の娘じゃない!)

 母親は立ち上がり、怒りに任せて拳を振り回した。それがそばの花瓶に当たり、大きな音を立てながら勢いよく割れた。

「キャッ! え、え。どうしたの、お母さん?」

「思ってもないのに、私を! お母さんと! 呼ぶな!」

 拳ににじむ痛みさえも忘れて、母親はリオナに飛びかかった。とっさのことに彼女は対応できず、ベッドから弾き飛ばされた。

 母親は無茶苦茶に暴れた。ベッドも棚も、何もかも、すべてが憎く見えた。

「あんたなんか……、あんたなんか!」

 母親は拳を振り上げる。リオナはビクッと震え、目を閉じた。

「リオナお姉ちゃん!」

 視界の外にいたメールが飛び込み、リオナの体を抱きしめる。まるでリオナを母親から庇うように。

 構うものか、母親はそう思った。いっそメールごと壊してやろうと腕に力を込め――

 騒ぎを聞きつけて部屋に入ってきた青年に、腕を掴まれた。

「名無しさん!」

 その男は、目の前の少女と一緒に行動していた手紙屋だった。

 男に、しかも手紙屋に力勝負で勝てるわけもない。

 ここまでだった。

 病室は変わり果てていた。ベッドのシーツはしわだらけになり、お見舞い品は床のいたるところに散らばっていた。果物はつぶれて、果肉と果汁を床一面に飛び散らせていた。

 そんな部屋の中、母親はぺたんと床に座り込んだリオナを見つめた。

 リオナの瞳は、怯えていた。

「何よその目」

 母親は娘を冷たく睨みつける。

「私が怖いの、リオナ?」

 自分でも驚くほど冷え切った声に、リオナは肩を震わせていた。いまだ警戒を解いていないメールがリオナを一層強く抱きしめる。

 腕を握って動きを封じていた手紙屋の力が一段と強くなる。

「心配しなくても、もう襲わないわよ」

 そういって青年の手を振り払う。手紙屋はそのまま後ろに少し下がり、何が起こっても瞬時に母親を拘束できる距離を保つ。

「別にいいわ、リオナが私のことをどう思っていようとも。あなたはどうせ忘れてしまうのだから。あと一日で全部、何もかも!」

「おい、よさないか!」

 いつの間にか部屋の中にいたライナスが叫んだ。おそらく手紙屋と一緒に入ってきたのだろう。

「……二日後が楽しみよ。また『お母さん』って言いながらあなたがすり寄ってくるのがね」

 誰も、何も喋らなかった。

(もう知るもんですか)

 母親は入り口にいた看護士を押しのけて、部屋を出ていった。

(もういやだ、もうたくさんだ)


          *     *     *


「リオナ、大丈夫か?」

 母親が出ていった後に、真っ先に動いたのはライナスだった。メールもその声で我に返る。母親も気になるが、まず優先すべきはリオナだ。

「リオナお姉ちゃん、大丈夫?」

 二人が声をかけてもリオナは反応しない。目の焦点が合わず、病室の虚空を眺めていた。

 ライナスが声をかけてから十数秒経って、ようやくリオナは口を開いた。

「私、記憶を失うの?」

 一番訊かれたくなかった質問にメールは顔を俯かせるしかなかった。父親もリオナと視線を合わせようとはしない。

「ねえ、答えて。私はもうすぐ記憶を失うの?」

「そうだ」

答えたのは名無しだった。父親とメールが即座に名無しに視線を向けるが、本人は気にせず続ける。

「知ってしまったものは仕方ない。これ以上隠したところでボロが出るだけだ」

 名無しは茫然をしているリオナを見据える。彼の目を見つめるリオナの瞳からは、次第に生気が抜けていくようだった。

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