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名無しの手紙  作者: 山本良磨
第3話 シルメリア編
33/72

The 5th Day 2/2

 沈黙が降りた。誰も口を開かない。

「……なんで、ですか?」

 最初に切り出したのはメールだった。声が震えていた。でも自分ではそれを抑えられなかった。

「どうしてそんなひどいことを言うんですか? もうリオナさんに会うなって。あんまりです!」

「メール、声がでかい」

 名無しに注意されて、メールははっと口を両手で覆った。店内にいた客と店員は、何事かとこちらに目を向けていた。隣に座る名無しが彼らをギロリと睨むと、全員怖気づいたように目をそらしていった。

「ごめんなさい」

 椅子の上で小さくなった。

名無しが小さくため息をつく。

「用件はそれで終わりか?」

「え、ええ……」

「じゃあもう行くぞ。一日中手紙を配っていたから疲れてんだ」

「ちょ、ちょっと名無しさん!?」

 席を立ち出口へ向かおうとした名無しの左手をメールは両手でつかんで引きとめた。手袋ごしの手からはあたたかさは伝わってこない。名無しは振り返らずに告げる。

「正直、俺にとってリオナは、ただ仕事先であった通りすがりの人でしかない」

 でも、とメールは顔を俯かせた。

(こんなの納得できない。短い間しか一緒じゃなかったけど、ライナスさんは理由もなしにこんなことを言うような人じゃないっていうのは分かる)

 そんなメールを見て、名無しは小さくため息をついた。

「だがライナス」

 その声にメールが顔を上げたと同時に、頭に名無しの右手がぽんと乗った。

「どうやらこいつは納得がいかないようだ。短い間だろうがリオナと一緒にいたんだ。説明くらいしてやってもいいんじゃないのか?」

 名無しがメールに目配せをした。あとはお前次第だ、と言わんばかりだ。

 メールは意を決した。ぴんと背筋を伸ばしてライナスと向き合う。

「話してください。私、知りたいです。ライナスさんがなんの理由もなしにこんなことを言うとは思えないです。どうしてなのか、教えてください」

「あまりいい話ではないですよ。聞いた後で、聞かなければよかったと後悔されるかもしれない」

「それでもです。お願いします!」

 ライナスは名無しとメールを交互に見つめた。すると観念したかのように息を吐き、「どこから話せばいいのやら」と前置きをした。

「リオナは、もうすぐ記憶を失ってしまうんです」


          *     *     *


 はじめは、よくある事故の一つだと思っていた。

 実の娘が馬車に轢かれてその感想もどうかとは思う。もちろん当時はひどく取り乱した。

 血まみれになって横たわっているリオナを両腕で抱え、大声を張り上げながら助けを求めた。

 しかし応急処置が早かったことや、シルメリアの医師の腕がいいこともあって、リオナが手術室の中にいる間に、落ち着きを取り戻すことができるようになっていった。

 大丈夫、リオナは無事だと。

 足が動かなくなるかもしれないと言われたときも決して絶望はしなかった。足が動かなくなるくらいどうってことはないと考えた。

「そして手術が終わった後、病室で目覚めたリオナは、記憶を失っていました」

 メールは何も答えない。体をこわばらせて険しい顔をしている。名無しも椅子にもたれたまま黙って聞いていた。店内には人がいるはずなのだが、その音は全く耳に入ってこない。それほど空気が張りつめていた。

 メールの瞳が続きを促していたので、ライナスは再び話し始めた。

 さすがに記憶を失っていたことにショックは隠せなかった。

 でもリオナはまだ生きている。それだけが救いだった。

 記憶喪失がなんだというのだ。また新しく記憶を作ってやればいい。生きている限りいくらだってやり直せる。楽しい思い出でいっぱいにしてやればいいんだと、そう思った。

 しかし。

「事故が起こってから八日経ったとき、私たちは今ぶつかっている問題の大きさを思い知りました」

「八日?」

 メールが初めて口を挟んだ。首をかしげている。

「おかしくないですか? だってリオナお姉ちゃんが記憶を失ってから今日で五日目ですよね? リオナお姉ちゃんがそう言っていましたけど」

「それにリオナの入院の原因が、記憶喪失の原因が、馬車事故だというなら、リオナの体は綺麗すぎる。車いすに乗っているとはいえ、傷一つない。とても血まみれの事故から数日経っただけとは思えない。

 名無しも話に入ってきた。ライナスは力なく微笑むだけしかできない。

「そうですね。しかしリオナは間違っていません。リオナが記憶を失ったのは本当に数日前です。しかし事故があったのは数日前じゃない。もっと前なんですよ」

「どういうことですか?」

 メールが身を乗り出して顔を近づけてきた。ついに核心に触れるときだった。

 どうか。ライナスは思った。

 どうか、この子たちがつらい選択をしないように願います。

 いい思い出のまま、リオナをお別れができるように——。

「リオナは事故があった日から、『何度も』記憶を失い続けているのですよ」

 メールは「え」と息を飲んだ。乗り出した体が、力が抜けたようにすとんと椅子に引っ込んだ。さすがの名無しも肩がピクリと動いた。

「記憶を失う周期は七日です。記憶を失ってから七日後には、また記憶がリセットされます」

「そんな症例聞いたことがないな」

 もっともな名無しの質問に対して、ライナスは乾いた笑いを浮かべるしかなかった。

「そうでしょうね。私たちもそうでしたから」

 原因は全くわからなかった。アールザード王国の中でも卓越した知識と技術を持っていると言われているシルメリアの医師たちにも、これはお手上げだった。

 ライナス自身も街の図書館に赴いて医学書を漁ったが、何もわからない。事故の後遺症なのか、それともまったく別の病気なのかさえも。

 そうやってライナスたちが頭を抱えている間も、リオナは記憶を失い続けていった。

「それが、今から三年前の話になります」

「……三年?」メールがの声は今にも消え入りそうだった。

「リオナお姉ちゃんは三年間、ずっと記憶を失い続けているのですか!?」

 はい、とライナスは肯定した。

 しばらくの間、誰も何も口にしなかった。

 その静寂を破ったのは、

「事情は分かった。あと少しだけ配る手紙があるが、それも一日あれば終わる。なるべく早くということなら、明日の夕方にでもシルメリアを発つことにする」

 やはり名無しだった。

メールは顔を上げ、名無しを睨みつけた。

「名無しさん!」

「せっかく忠告をしてくれたんだ。素直に従った方がいい」

 ライナスにとって名無しのさらりとした態度は、すごくありがたいものだった。

 それに対して、メールはどうしても納得ができないようだ。それは無理もないことだと思うし、それほどに思ってもらっていることに、リオナの父親として誇りに思えた。

「でもこんなの……。明日会いに行くって言ったし、まだリオナお姉ちゃんにお別れも言ってないのに……」

「お前、耐えられるのか?」

 名無しの言葉の意味が理解できていないメールに対して、名無しはライナスすらもためらっていた言葉を告げる。

「記憶を失ったリオナに『あなたは誰?』って言われるのに耐えられるのか、って訊いてんだ」

 メールは言い返すことができず、ギュッと唇を強く結んだまま俯いた。

 そう。それこそライナスがメールたちをリオナから遠ざけようとする理由だった。

 ——君の名前はリオナだよ。私たちが君のお父さんとお母さんだよ。

 いくら名前を教えようとも、どんなに楽しい思い出を作ったとしても、七日経つと、彼女は忘れてしまう。

 生きている限りいくらだってやり直せる。楽しい思い出でいっぱいにしてやればいい。そう思っていた。

 だが、

 ——おじさん。誰?

 その言葉を聞いたとき、娘が事故に巻き込まれ、足が不自由になり、記憶喪失になってもくじけることなく立ち上がり続けたライナスたちの心が完全に折れた。

 しかし、もしかしたら今度は記憶がなくならないかもしれない。次は大丈夫かもしれない。

 そういった一縷の希望をもち七日間を過ごして、また記憶を失い絶望する。

 しかし、どんなに記憶を忘れようとも、リオナはライナスたちにとって決して見捨てることのできない、最愛の娘だった。

 そうしてライナスたちは、終わりのない悪夢に徐々に体と精神を蝕まれてきたのだった。

 だからせめて。自分以外の人たちには、こんな辛さを知ってほしくない。

「今日は前にリオナが記憶を失ってから五日目。あと二日でリオナは記憶を失います。あなたたちまでこんな苦しみを味わう必要はないんです。だからどうか……」

 ライナスは頭を下げた。それが彼にできる精一杯だった。


          *     *     *


 夜、メールは宿屋の布団の中にくるまっていた。名無しと別のベッドで布団をぎゅっと握りしめる。

 メールは眠れなかった。ずっと頭の中で今日のライナスの話がぐるぐると回っていた。

 ——記憶を失い続けているのです。

 ——今から三年前の話になります。

 ——もう、リオナには会わない方がいい。

 早く寝よう、何も考えるな。そう思えば思うほど余計にたくさん思い起こされて眠れなくなってしまう。もうメール一人ではどうにもできなかった。

「……名無しさん、起きていますか」

 隣の布団がごそりと動いた。起きている、というサインだろう。

「名無しさん、本当に明日、ここを出発するんですか?」

「そのつもりだ」

 名無しはさらりと答えた。メールは掛布団をいっそう強く抱きしめる。

「そのつもり、なんだがな」

 メールはベッドから起き上がって、名無しの方に目を向けた。名無しの体はメールに背中を向けていた。

「……もしも、別の街に配達するはずの手紙が手元から消えてしまったりしたら、出発できないだろうな」

 メールはびっくりして名無しを見つめた。名無しはそれ以上何も言わなかった。次第に寝息が聞こえてくる。

 メールは名無しの言葉をじっくりと噛みしめた。その言葉の意味を汲みとり、そして、

「……ありがとうございます」

 メールは小さな声で、そう言った。

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